沖縄戦の「毒おむすび」について

 以下のところから。
毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る琉球新報

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る


「歴史は正しく語り継がなければ」と強調する仲里利信県議会議長=南風原町の自宅 「弟が目の前で死んでも悲しんでいる余裕さえもなかった。父も沖縄戦で死んだ。歴史を風化させないために正しく語り継いでいかなければならない」。22日の県議会意見書可決を前に、仲里利信議長(70)が自身の沖縄戦体験について告白し、全会一致への決意を新たにした。仲里議長は19日の県議会文教厚生委員会でも戦争の現実を訴えた。
 1945年2月の夜、通信隊に入っていた父・利吉さんが、ふいに現れた。「今度の戦は負け戦に間違いない。ここにいると駄目だから、すぐにやんばるに行け」。父が手配していた友軍(日本軍)の車で家族9人、宜野座へ避難した。
 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。
 後は別れた家族を捜して、何も口にせずに何日も山を歩いた。母の母乳も出なくなり、弟が弱っていった。恩納村宜野座と回り、金武で残りの家族と再会できたが、そこにも食糧はなく、弟は満1歳で衰弱死した。「(1年前の)生まれた日の生まれた時間だ」と母が静かに言った。死体は金武に埋めて、戦後掘りに行ったが、捜しきれなかった。
 自身の体験と重ね合わせながら仲里議長は「歴史を風化させたら、また戦争への道を歩んでしまう」と危機感を募らせる。「平和を願う気持ちは全県民一緒だよ。この問題は保守革新も関係ない。県議会も全会一致でまとめることに重みがある」。仲里議長の静かな口調に強い決意がにじんだ。(深沢友紀)

(6/21 9:50)

 これに関しては、ちょっと2007年6月19日の「県議会文教厚生委員会」での発言をチェックしたいので、とりあえずメモだけ。
 以下のところも参照に。
体験語り歩み寄り 仲里議長沖縄タイムス

体験語り歩み寄り 仲里議長

 検定意見の撤回を求める意見書案を全会一致で可決した文教厚生委員会(前島明男委員長)。委員会終了後、与野党の委員は互いに歩み寄り、固い握手を交わした。
 意見書案の取り扱いをめぐっては、与野党の主張がぶつかり合い、何度も暗礁に乗り上げた。しかし、この日の委員会では終始、「同じ気持ちで採決したい」「どうしても意見をまとめよう」との声が上がり、政治対立を超えた「県民の意思」が示された。
 開始から三十分たった午後二時すぎ、着地点が見えないまま議論が進む中、委員の一人で県議会議長の仲里利信氏(自民)が「これまで話したことはないが、参考になれば」と口を開き、自身の沖縄戦体験を語り始めた。
 「壕から追い出されたり、飛行機から丸見えの岩穴に一日隠れたりした。撃たれる覚悟もしたが撃たれなかった。何も食べられなかった弟は、満一歳で亡くなった。戦争とはこういうもの」と静かに訴えた。
 午後二時十五分、委員会は終了した。
 各委員の顔には笑顔が浮かび、安堵感が漂った。
 自民の伊波常洋政調会長は、共産党県委の前田政明副委員長や社大の比嘉京子書記長らと握手を交わし、談笑する場面も見られた。

 仲里利信さんは、自民党沖縄県連のえらい人のようです。
沖縄タイムス 人物:第14代県議会議長に選出 仲里利信さん

第14代県議会議長に選出 仲里利信さん
「地域の発展」が公約

 第十四代議長就任に「夢のようで信じられない。身を引き締めて、大役を果たしたい」と笑み満面。
 島尻郡区選出で、現在四期目。三十年前に南風原村長選に出馬したのが、政治の世界に飛び込むきっかけになった。「保守の立場から村政の刷新を訴えた。経済振興を中心にした地域の発展が公約。初心は今も変わらない」と初挑戦を振り返った。
 近衛兵だった父を第二次世界大戦で失い、五人の子どもを抱える母を助けながら、学業に励んだ。サトウキビ栽培で家計を支え、琉球大で化学を専攻。大手の製靴会社に入社。その後、ゴム加工業者として会社経営にもかかわった。
 復帰直前、沖縄の工業生産品に対する課税撤廃を求め、当時の通産省や大蔵省に単身で直談判に乗り込み、課税撤廃を実現した。「血気盛んで、不可能があるとは思わなかった。苦しいときは、学生時代に打ち込んだ空手で培った精神力で乗り越えた」
 一九九五年の定例会一般質問で「世界最高水準の科学技術系大学を沖縄に」と訴えた。「『経済大国・日本でノーベル賞学者は数えるほど。世界の頭脳を沖縄から生み出そう』とアピール。実現性を疑われ、相手にもされなかった」と当時の状況を説明。「大学院大学の開学が決まり、訴え続けることの大切さをかみしめた」と感慨深い様子。
 妻美代子さん(64)には「経営する工場の閉鎖や選挙など苦労をかけた。妻の助力があって、今がある」とねぎらう。モットーは「誠心誠意」。三男一女で、孫は十一人。南風原町出身。六十九歳。(与那原良彦)

 
 これは以下の日記に続きます。
「集団自決」は日本軍の「関与」があったという感じで落ちつきそうな予感