「集団自決」の命令に関する伝聞情報的証言について
以下の記事から。
→「集団自決」生涯忘れず 宮平春子さん証言(琉球新報)
「集団自決」生涯忘れず 宮平春子さん証言
「集団自決」のあった座間味島を視察で訪れた県議会文教厚生委員会の委員らに対し、座間味村阿佐の宮平春子さん(80)は6日、当時助役を務めていた兄の宮里盛秀さんが米軍の上陸が目前に迫った時、父の盛永さんに「軍から玉砕するように言われている」と伝えていたことを証言した。宮平さんは教科書からの「集団自決」の日本軍関与削除について「あの悲しみ、苦しみは私にとって一生涯忘れることができない。それを(教科書から)なくすのはおかしいのではないか。戦があったら悲しいし、苦しい。平和である教育をしてほしい」と訴えた。
米軍の激しい艦砲射撃があった1945年3月25日。春子さんは盛永さんや親類ら約30人と壕に避難していた。夜になって盛秀さんが壕に来た。盛秀さんは、父の盛永さんに「軍から米軍が上陸するのは間違いないので敵の手に取られないように玉砕するよう命令があった。だから潔く死のう」と話したという。
びっくりする盛永さんに、盛秀さんは「いろいろ生きている間は親孝行できなかったけどあの世に行って孝行する」と伝えた。
春子さんは「兄が4歳から7歳までのわが子3人を抱きしめ、涙を流しながら『こんなに大きく育てて、軍の命令でなくすというのは生まないほうがよかったのか。お父さんが一緒にいるからね』と語り掛けていた。今でもあの姿を思い出すと涙が出る」と述べ、兄の無念さを思い出し、言葉を詰まらせた。
盛永さんは、盛秀さんに最後の別れとして水杯を勧め交わしたという。
集合時間の午後11時半に合わせ、春子さんらは盛秀さんに続いて集合場所の忠魂碑に向かった。しかしそこに照明弾が落ちたことを知らされ「集団自決」で多くの犠牲者が出た産業組合壕に移動した。
組合壕にはすでに多くの住民がおり、中に入ることができなかった春子さんらは生き延びたが、壕の中にいた盛秀さん家族はそこで「集団自決」で亡くなった。
教科書検定問題については「みんな苦しんで犠牲になった。(記述を)なくしてはならない」と訴えた。(7/7 10:15)
この「宮里盛秀」さんが本当に、「軍の命令」を伝えていたのか、ということが争点で、今のところ「宮平春子」さんの証言は、軍の命令を聞いた、という直接の証言ではありません。
裁判の準備書面では、こんな感じ。
→原告準備書面(5)の要旨 第6回口頭弁論H18.11.10(金) -沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
座間味島では、確かに援護法以前から、《隊長命令神話》が風説としてありました。それはなぜでしょうか。
住民の手記や宮村盛永氏の『自叙伝』などの資料をみますと、多くが「忠魂碑前での玉砕」に向けた集合命令を受けたことを証言しています。しかし、そこには命令の主体が書かれていません。ただ、多くの村民は、「忠魂碑前に集合し玉砕する」という命令を、軍命令と受け取り、それが後に風説のもととなったと考えられるのです。宮城晴美さんは『母の遺したもの』においてこう解説します。
「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令と思った。というのも、これまで軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからある。」
宮城初枝さんが「真実の歴史を残す為には此れから私のやるべきことが残っております。」として原告梅澤さんに宛てた手紙の中で、「忠魂碑前の集合は、住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。」と述べ、住民の誤解と村の方針のために虚偽に加担したことを梅澤さんに謝罪し、こう結びます。「お許し下さいませ。すべてが戦争のでき事ですもの」と。
真実、玉砕命令を下したのは梅澤部隊長でも軍でもありませんでした。
それを明らかにしたのが、まさに宮城初枝さんの勇気ある証言でした。その証言をもとにして娘の晴美さんが書いた『母の遺したもの』には、自決のための弾薬をもらいに行ったところ梅澤部隊長に「お帰り下さい」とはっきりと断られた助役の宮里盛秀氏らが、次にどういう決断をしたかが、こう語られています。
「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。
盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」
宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです。
これもまぁ、証言にすぎないのでぼくには判断のしようが難しいところです。
しかし、裁判の争点になっている「証言」の、一方だけを報道する琉球新報の姿勢には恣意的なものを感じます。