25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・1

 ということで、以下の本のうち、「沖縄戦」に関する部分だけを読んでみたんですが、
→時野谷滋、『家永教科書裁判と南京事件 文部省担当者は証言する』、日本教文社
 以下のところにある江口圭一氏という「教科書検定を受けた側」の人の言い分と微妙に違っていて興味深かったです。
25年前の争点に戻すべきではないか - bat99の日記
 まず注意しなければならないのは、「時野谷滋氏がこう言った」と江口圭一氏が語っているのは、別の人間を間にはさんだ「伝聞情報」なんですね。
 つまり、時野谷滋→編集担当者→江口圭一、という形で情報が流れるわけで。そうなるとこのテキストも、

 編集担当者は、時野谷調査官が『沖縄県史』は体験談を集めたもので一級の資料ではない*2、書くならちゃんとした学者の研究書を使ってほしいといった趣旨のことを述べ、さらに「検定制度を取りちがえていませんか」といった旨を伝えてきた。
 どのように表現を変えようと、日本軍による県民殺害の事実を書いてはならないという文部省の強固な意志は、もはやまったく明瞭であった。また、合格をえるためのタイムリミットが迫っており、私は日本軍による県民殺害の記述を断念するほかなかった。私はつぎの文章を提出して、ようやく合格した。

 ちょっと伝聞にムキになっている江口圭一さんと、情報が正確に伝わらなかった時野谷滋さんとの問題がありそうな様子。
 で、時野谷滋氏の主張を読んで驚いてしまった。
「どのように表現を変えようと、日本軍による県民殺害の事実を書いてはならないという文部省の強固な意志」と書かれると、「文部省の強固な意志、ひでぇ」って感じになるんですが、資料・史料として文部省を納得・説得できるものを提示することをせず(提示することができず)、「表現だけを変えて」検定を通そうと思う江口圭一氏も、それなりにひでぇ、と思ったのがぼくの感想です。
 『家永教科書裁判と南京事件 文部省担当者は証言する』p217-248、「10・沖縄戦の記述と教科書問題」を引用してみます。特に指定のない太字は、ぼく=愛蔵太によるものです。
 例によってまた、けっこう長い引用になってしまうんで、何回かに分けることにします。

(1)検定意見の趣旨は資料提出
 
 前章の沖縄戦における住民の犠牲の問題について、若干の補説をしておきたい。というのは、家永氏が昭和63年(1988)12月13日に東京地裁に提出された準備書面で、この問題に関する主張を展開されている中に、「本件に先立つ検定例に見られる露骨な意図」という小見出で述べているところがあり、それにかなりの比重をかけているようにも思えるので、例の昭和57年(982)の教科書問題ともからめて、一通り説明しておくことが必要であろう、と考えるからである。
 まず家永氏の最終準備書面はこう述べている。

 本件における検定意見の真の意図は、日本軍による住民虐殺の事実についての記述をできるだけ弱めるところにあったということができるが、このことは本件検定の前年の昭和57年の江口圭一教授の執筆による実教出版発行の高校日本史に関する検定を見ればより明らかである。因みに、この江口教授の教科書の検定を担当したのも、本件と同じく時野谷調査官であった。

 確かにこの実教本の主査が私であったことは間違いないが、このときの検定意見の趣旨は、後で繰返し述べるように、あくまでその記述を裏付ける資料の提出を求めることであった。
 続いて準備書面はことの起りについて次のように記している。

 江口教授の白表紙本の原稿記述は、(1945)「四月にはアメリカ軍は沖縄本島に上陸した」という本文の脚注として、次の記述をしたものであった。
「六月まで続いた戦闘で、戦闘員約10万人、民間人約20万人が死んだ。鉄血勤皇隊ひめゆり部隊などに編成された少年少女も犠牲になった。また、戦闘の邪魔になるなどの理由で、約800人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。
 これに対して、時野谷調査官は、右の10万人や20万人の根拠が不正確、日本軍による住民殺害の800人にも根拠がない、戦闘のじゃまという理由で同胞を殺害したとは考えがたい、等の意見を述べたうえ、修正意見を付した。

 この私の告知内容は事実と異なる。この内容について、江口氏自身がいろいろなものに書いておられるが、例えば同氏が前にも引用した『歴史家はなぜ”侵略”にこだわるか』に寄せた「理不尽な検定の内幕」は次のように記している。

 しかしこの脚注の記述にたいしても、修正意見が付されました。検定の席で調査官は、まず10万人、20万人という数字が不正確であると指摘し、沖縄県発表の数字や『沖縄県史』所載の数字をあげて、”修正”を求めました。また日本軍による県民殺害については、800人という数字は確実なものとはおもわれないし、「戦闘のじゃまになるという理由で、同胞を殺すなんていうことは、いかに当時であっても考えがたいですね」と述べました。私が「たとえばスパイという嫌疑をかけて、殺害したという有名な事実がございますけれども、それも広くとれば戦闘のじゃまになるという……」と意義を申し立てると、調査官は「それであればちゃんとスパイということでお書きになればよろしいので、それも戦闘のじゃまになるということで一括するというのは、やはりちょっと乱暴な書き方ではないですか」と発言し、「とにかく確実な資料によってのみお書きいただきたいということですから、ここはAで処置をお願いします」としめくくりました。このAというのは修正意見の略号です。

 沖縄戦についてはもちろんのこと、広島・長崎の原爆の犠牲者についても、正確な数は不明というほかないのであるから、その数を教科書に載せるときは、ともかく公的機関が発表しているそれに拠ってほしい、というのが一貫した審議会意見であったし、今も変りないと思う。その意味で修正を求めただけである。また「戦闘のじゃまになる」云々については、私が歴史学研究会編『太平洋戦争史(5)』をあげて、その中に「スパイという嫌疑をかけて」云々とあるけれども、単に「じゃまになる」というだけで殺害したとは考え難い、という趣旨を述べ、それに対して江口氏が「それも広くとれば……」という「異議を申し立て」られたように記憶している。ともかく検定意見の趣旨はこの件については、この記述を支える「確実な資料」を求めることであったのである。
 家永氏の準備書面は続いてこう述べている。

 このため江口教授は、内閣本で次のように改めた。
「六月まで続いた戦闘にまきこまれて、十数万人の沖縄県民が死んだ。鉄血勤皇隊ひめゆり部隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また、スパイ行為をしたなどの理由で、日本軍の手で殺害された例もあった。」
 しかし、これに対しても調査官は、後段の記述が確かな資料による記述ではないとしたので、江口教授はさらに沖縄県立平和祈念資料館の展示パネルの文章をもとに、後段部分を「また、混乱をきわめた戦場では、友軍による犠牲者も少なくなかった」と書き改めた。
 だが、これに対しても調査官は、「パネル」をもとにしたのでは駄目という理由で認めなかった。

 最初のボタンを掛け違えると、このように、次々、すれ違いが起るのである。繰返していうけれども、検定意見は資料の提出を求める趣旨であったのである。こういうこともときどきあったのであって、その記述は執筆者が、どういう資料ないし学説等に基づいて書いたものかを尋ね、その根拠が権威あるものであれば、それに見合う範囲の記述は認める、ということである。そうすると執筆者は拠り所とした資料を提出し、調査官との間で、原稿記述と照らし合わせて、いわゆる内閲調整に入るわけである。そして、或る場合はほぼ原稿記述のままで、或る場合はかなり修正して、内閲本合格ということになるのである。が、いずれにしても、その結果は審議会に対して責任を負うことができる範囲に達していなければならない。

 これは以下の日記に続きます。
25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・2