25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・4
これは以下の日記の続きです。
→25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・3
引き続き『家永教科書裁判と南京事件 文部省担当者は証言する』(時野谷滋、日本教文社)からの引用を続けます。
今日は、「10・沖縄戦の記述と教科書問題」のうち、「(5)「約800人」の資料」「(6)検定意見の再確認」を引用してみます。
以下のところも参考にお読みください。
→25年前の争点に戻すべきではないか - bat99の日記
(5)「約800人」の資料
この実教本原稿の江口氏執筆部分における、記述と資料との関係を最も端的に示すのは、前掲の「約800人」という数字の扱い方であろう。江口氏は再三触れてきたように第一次訴訟の控訴審に証人として、昭和58年(1983)10月3日と12月19日の二回にわたって東京高裁に出廷されたのであるが、まず、10月3日に家永氏側代理人の主尋問に対して「歴史学研究会編『太平洋戦争史(5)』からこの部分の数字をとりました」と答えられた後、更に次のような問答を重ねておられる。(代理人)「約800人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された」と、この数字800人は『太平洋戦争史(5)』に出ておりますが、この出典はどこにあるのでしょうか。
(江口氏)この本はかなり広い読者を予想しておりましたので、一々典拠を注で示しておりませんので、私の引用した時点では確かめておりませんでしたけれども、その後問題になりましたので確かめたところ、これは沖縄教職員組合が行なった「旧日本軍による戦争犯罪」という詳細な記録がありまして、これに基づくものであることはほぼ間違いないものと思われます。これに約800人という数字が記載されております。
(代理人)沖縄教職員組合が独自に調査をしたその結果に基づいているということでしょうか。
(江口氏)そのように判断しました。ともかく、「広い読者を予想し」て、「一々典拠を注で示して」いない本から、その中に記されている数字を確かめもせずにそのまま採った、そして問題になったので初めて確かめた、その結果、沖縄教職員組合が行った調査に基づくものに「ほぼ間違いない」と判断した、といわれるのである。こういうことが学問的態度として許されるであろうか。それとも教科書などはこの程度でよいとされるのであろうか。もしそうであるとすれば、それこそ「検定制度を取り違えてはいないか」ということになろう。
結論を前に述べることになってしまったが、この問題に関する国側の反対尋問は12月19日に行われた。その際に、江口氏は国側代理人との間で次のような問答を交しておられる。(代理人)800人という数字の出典について、沖縄教職員組合が行った日本軍による戦争犯罪でほぼ間違いないと前回証言されましたが、沖縄教職員組合の調査というのは、いつ、どのような方法で行なわれたか。
(江口氏)詳しくは存じませんが、1971年か72年に全島あげて教職員の組織を通じて特別のチームをつくって、調査をしたようです。
(代理人)あなたは確かめられていない?
(江口氏)直接その調査にあたったわけではありませんので、わかりません。
(代理人)キチンと確かめられないことを教科書に書くということは問題じゃないですか。
(江口氏)それから直接引用したわけではなくて、歴史学研究会編『太平洋戦争史(5)』の記述に基づいて書いたわけです。後で問題になっていろいろ調べた結果、「太平洋戦争史」というのは一般の読者を予想して書いておりまして、一々出典を明記していないので、引用した時点ではどういうものかわかりませんでした。その後調査官から条件指示でA意見を付けられて調べたところ、「太平洋戦争史」の記述はそれに立脚しているのにまず間違いないだろうというふうに確かめたわけです。要するに「キチンと確かめられないことを教科書に書くということは問題」ではないかという質問に対する江口氏の答えは、答えになっていないのである。こういう答えが研究者の口から出ようとは誰も予想しなかったであろう。
また前述のパネルの文章についても、次のように問答しておられる。(代理人)証人はパネルの文章について何のチェックもせずに教科書に引用するということになったわけですか。
(江口氏)パネルの文章をそのまま引用したのではなくて、それに立脚して私なりの文章を更につくったわけです。
(代理人)パネルの文章というのは資料に照らして正確かどうかチェックされたのですか。
(江口氏)平和祈念資料館には住民殺害に関して、もう一つ展示があって、具体例が展示してありました。収容所襲撃など幾つかの例が書かれております。沖縄県史その他の文献で、沖縄県における日本軍による住民殺害というのは幾つかの事実が確認されておりまして、単にパネルの文章だけに基づいて何か論証しようとかそういうことをしたわけではありません。調査官になんとか認めていただきたいものですから、そういう公共施設の現に小・中学生にも公開しているようなパネルの文章であれば、高校日本史の教科書で当然認められるのではなかろうかという、検定をパスさせていただくための一つの手段としてそういう公共施設の文章を借用したということです。
(代理人)パネルの文章そのものを更に資料に照らしてチェックするということはしなかったということですか。
(江口氏)私の認知している沖縄戦の実態からいってパネルの文章は大変総合的に住民殺害のことを簡潔に書き出しているというふうに考えました。繰返しになるけれども、江口氏が「沖縄県史その他の文献」で「事実が確認」されていると判断する根拠、同氏が「認知している沖縄戦の実態」という、その認知の根拠となっている資料ないし論拠、それを提出してほしいという検定意見に、正対することを、ここでも避けておられるのである。それはなぜか。理由はほぼ察せられよう。
歴史研究者は、確実な史料ないし論拠に基づいて、はじめてその文献に記述されている内容が信用に堪え得るものかどうかを判断し、確実な史料に拠ることによってのみ、ある事件の実態を認知することができるのである。検定側が求めたのは、その資料ないし論拠を提示することであったのである。
どうも「800人」の住民が虐殺された、という証拠は存在しないみたいです。
あと、観光名所の案内みたいなパネルに書かれているテキストは、資料じゃない、というわけで。
那須与一が扇を打ち落とした、なんて有名な話も、日本史の教科書では習った覚えがないので、まぁそんなものか。
引用を続けます。
(6)検定意見の再確認
ところで審議会の修正意見は、念のために繰返すと、記述の裏付けとなっている資料の提出を求め、その資料に見合う範囲の記述になるよう修正してもらうこと、という趣旨であった。そして前述のように、すでに久米島事件については国会でも取り上げられ、政府もこれも認め、やがて弔慰金も出ることになったのであるから、住民殺害事件については、扱い方は慎重を期さねばならないし、そこまでに至った事情も述べる必要があるとしても、確かな資料によって裏書することが可能な範囲の記述は認めていくことになろう、ということであったのである。
これを協議した際、主として参考にしたのは、学校図書の『中学校社会 歴史的分野』の、昭和55年(1980)度検定に出された「関東大震災と朝鮮人」という特設ページの例であった。つまり高橋硯一氏が幼児の体験談として、「朝鮮人らしい男性を、自警団がつかまえ」て軍隊のところへ引きずっていったといい、「群集は、許可がでたぞといわんばかりに、竹やりでつつくなど残酷なことをしました。こわくてあとは見ていられませんでした」と述べておられる文を載せた原稿本を提出したのに対して、「当時、小学校五年生で横浜に住んでいた高橋硯一さんは、50数年前の子供のときの記憶だがとことわりながら、つぎのように肩っている」という前書きをつけることで、内閲合格になったのである。もちろん、前述の51年(1976)度の東京書籍『新しい社会』の場合における『沖縄戦記録』の扱い方も参考にした。また、当然、特定の事項を特別に強調することのないようにするという、検定基準に留意することが大切であることも再確認していたのである。
しかしながら、実教本の江口氏執筆の沖縄戦の注は、前述のような経過をたどり、住民殺害の記述は消える結果になった。そして、このことは、昭和57年(1982)の例の教科書問題の際、国際関係で大きく取り上げられることになった。まず「毎日新聞」が検定結果発表の翌日の6月27日の社説で扱い、その後も一貫して紙面に載せた。一方、沖縄県内各紙は、7月4日の「沖縄タイムス」が「日本軍による住民虐殺」が「高校教科書から前面削除」と報道し、「琉球新報」はじめ各紙が二箇月余にわたって、連日、取り上げた。
後で沖縄県に行って聞いたところでは、それまで載っていたものが、この時、前面削除されたかのように誤解されていたという。いうまでもないが、住民虐殺が教科書原稿に載ったのは、この時が最初であり、従って検定側に前例の蓄積がなく、資料提出というような意見にもなったのである。今も触れた東京書籍の例は、前にも述べたようにいわゆる壕提供に関するものであった。
このあたりから、マスコミ→政府、という、政治問題に「住民虐殺」「集団自決」をどう扱うか、という話はなってくる様子です。
これは以下の日記に続きます。
→25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・5