「不良出版物」に関する1955年5月12日の正宗白鳥の意見

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 朝日新聞1955年5月12日より。

不良出版物の排斥 正宗白鳥
 
 このごろ、不良出版物排斥の声がかまびすしい。少年時代に読むもの、見るもの、聞くものから受ける感化は、一生ぬぐい難いほどに強烈なのだから、警戒を要するのである。不良物排斥不良物取締りは当然である。
 私などの少年時代には、少年のための読物はまだ出現していなかった。私などは娯楽物としても大人の読むものを、早くから読んでいたのであった。芝居のような聞くものでも、大人同様に見聞きしていたのだ。保護者がむとんじゃくなためであったが、私はそのために精神的害毒を受けたこと少なくなかったと思っている。幼い頭で「梅暦」でも「怪談」でも、戦争物でも読んでいた。残忍な残虐行為や、今日の舞台では見られないほどのいんわいな態度を、田舎の小屋掛芝居で見たのであった。今日の少年向きの漫画がどんなに不良であるか、私はまだ見たことがないので比較されないが、私が、まだ心の純白だった幼少時代に読んだり見たりしたものよりも、不良振りが激しいようには思われない
 読む者観るものばかりではない。少年の実際の社会生活そのものがいけなかった。生れつきの強気な少年は、動物虐待を好み、戦争の真似をしたがり、弱いものいじめを楽しみ、弱気な少年は、強者にこび、そのごきげんを取って戦々キョウキョウ、生存を保っていたのだ。私は早くから実人生の真相をそこに見たごとくに回顧するのである。弱気で卑屈な少年でも強いがき大将にいじめられながら、自分で進んで動物虐待仲間に入ったり、陸軍大将をどうけいしたりした。私自身も西郷隆盛なんかを崇拝したことがあったのだと思うとこっけいな感じがする。
 良書不良書の区別はどこにあるか。私は子供の時分に読んだ書物を回顧すると、大抵は不良であったと思う。仮りに私に年少の子女があったとすると、私が少年時代に読んだものの多くを読ませたくない。それとともに、今日の書物の多くを読ませたくないように思う。殊に小説なんかは、知名の作家のものでも読ませたくない。しかし、そういう小説のたぐいの好きな年少者は人目を忍んででも読むだろうと思われる。何が不良書かというと、多分殺人行為冒険行為いんわい行為などを、むき出しに、あるいはおぼろ気に描いたものであろうが、万物の霊長である人間も、こういう事には最も興味を感ずるのだから、傍からそれを撲滅しようたって、つまりは不可能であるはずで、クソ真面目にそんな事を考えている人間がバカに見えそうである。
 それに取締り方法は、昔と違い面倒になっているのじゃないか。徹底的取締りをしようとすると、当り障りがあって、傍から苦情が出るにちがいない。どこらで良と不良の区別をしていいか、だれにもはっきり分るはずはないので、議論粉出して止まる所を知らぬ有様になるだろう。
 私は昔不良書をデキ(溺)読したことを回顧して、老後の今日、読書欲の著るしく衰えたことを感ずる。刺激のつよい不良書のすべてが面白くなくなったのだ。「中間雑誌」として公認されている程度の雑誌を採って、そこに居を占めている多くの小説のあれこれを走り読みしても、汚らしいことを、こせこせと書込んでいるのに接すると気持悪くなるのである。快感なんかちっともなく、むしろおおとを催すのである。それ等雑誌が、小説以外にも、あくせくとして不良記事をほのめかさんとしている感じのするのは老人の思い過しででもあるか。下々の不良雑誌でなくっても「中間的不良雑誌」が案外多いのではあるまいか。
 しかし、翻って考うるに、不良ものに興味を感ずるのは、少年期以来の人間の本性であり、そこに人間性のはつらつたるものを読むべきで、私などのように、不良記事や不良見せ物などに、真のけんおを覚えるようになったのは、そこに人間としての心身の衰えを見るべきであろう。(作家)

 元不良少年で現在回顧老人の作家・正宗白鳥さんらしい意見ですが、このテキストは漫画には全然触れてませんね?
 ちなみにこの当時正宗白鳥さん76歳。
 
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