マンガの神様=手塚治虫の起源
多分これじゃないかと思う。週刊朝日1964年2月21日号の開高健のテキスト。誤字とか読み間違いはお許しください。
連載ルポルタージュ「ずばり東京」の21回目。
現在読める(書籍化されている)『ずばり東京』(光文社文庫版)には入ってない。多分「東京」ネタじゃないんで外したんですかね? 他にも書籍化・再編集の段階で何本か抜かされたりしていると思うけど、いちいち調べるのは面倒くさい。
ちなみに、この時代の編集長は、10年前に手塚治虫を取材した足田輝一さんだったみたいです。手塚治虫の漫画作中でもかなりひどい顔に描かれてます。
マンガの神様・手塚治虫
大人がすでに忘れた言葉で
子供たちに答えてくれる男
開高健
ここ一週間ほど、私は毎日マンガ本ばかり読んでいた。傑作も駄作もおかまいなく、手あたり次第に読んだ。机や寝床のまわりに散らばっているのを積みあげてみると七十四冊になった。そのうち手塚治虫さんのだけでも二十六冊ある。
おかげで仕事らしい仕事はなにも手がつかず、頭がすこしボワッとなった。おでん屋で人を待つあいだも徳利にマンガ本をたてかけて読んでいた。あまり夢中だったので、いくらか気味わるがられたらしく、
「お酒おくれ」
というと、
「いいんですか、お客さん」
おっさんがこちらの眼をしげしげとのぞきこむようにするので、薄弱者と思われかけている*1のがわかった。私はだまって千エン札を徳利のあいだにおき、おっさんを安心させておいて、マンガを読みつづけた。
忍者物、家庭物、宇宙物、少女物、チャンバラ物、野球物、柔道物、戦記物、西部物、ギャング物、三国志物、戦国物、ありったけ読んでみたが、九〇%までが愚作、駄作、凡作、劣作であった。読後の感触はおびただしい浪費感と、ぬれたボロ雑巾で顔を逆撫でされたような気持だった。絵具と擬音調のぬかるみに首までつかったような気がした。ガーッ。ダダダダッ。ギャアオッ。ハッ。トウッ。ドカン。ギュウ。ボイーン。ピシッ。ヒャアッ。ズズズズズウン。ヒタヒタ。BANG! BOON! ムギュ。ウーッ……。
読者にツメアトは残さない
大人の世界で流行したものが半年おくれて子供の世界で流行するのだそうだ。かならずそうなるという。柴田錬三郎や五味康祐の剣豪小説がヒットしてから『赤胴鈴之助』がヒットした。『ララミー牧場』があってから西部物が流行した。プロレスがあたってからイガグリ君が登場した。宇宙物がしばらく不振の時期があったがガガーリンで浮きあがった。子供マンガの作者は週刊誌をよく読んでなにが流行しているかを観察し、半年さきを目あてに作品を準備するようにしたら、だいたいまちがいがないとのこと。そして一つの流行は三年を周期として回転しているという。(文壇では十年周期説になっている)
パルプ週刊誌が身のほども知らぬおごそかな口調でしきりに劣悪マンガの流行に警告を発している*2が、自分を切ることをとんと忘却つかまつっているので、お子様にバカにされるだけである。目苦素が鼻苦素を笑うという図ではないかと思う。私はもともとマンガ無害論者である。子供は吸収力が速いのとおなじ程度に排泄力も速い。忘れっぽい。弾力性に富んで新陳代謝がはげしい。劣悪マンガにひっかかってクヨクヨ考えこむのは、たいてい大脳皮質が象皮病になりかけた大人だけである。
御多分に漏れず私もマンガでうつつをぬかした。のらくろ。冒険ダン吉。タンクタンクロー。仔グマのころ助*3。団子串助。蛸の八ちゃん。長靴三銃士。夜も昼もなく読みふけりアメ玉やメンコ(大阪では“ペッタン”といった)と交換に友達を口説きおとすのに苦心工夫をこらしたのである。けれど、現在、私の内部にそれら愛すべき空想と行動と哀愁の小英雄たちがどれくらい影をおとしていることだろうか。
むしろマンガの影響がのこらないということをこそ嘆きたいようなものである。子供マンガの影響が大人になってものこるくらい澄明な社会でこそマンガの善悪についての議論が空論でなくなるだろうが、現代日本ではほとんどとるに足らないことではないかと思うのである。よいマンガもわるいマンガとおなじように泡となって消えてゆくのだから、困るのではないか。どの国どの時代でもマンガは一種の“時代の歌”とでもいうべきものであろう。傑作であれ劣作であれ、読者にはほとんど爪跡や後遺症というものをマンガはのこさない。とどのつまりマンガは作者の血と汗にもかかわらず“読みすて”られる。
東京を震源地とする劣悪マンガの大津波に日本の子供は砕かれ、流されてしまっただろうか。パルプ週刊誌や象皮病教育家たちのおごそかな糾弾にもかかわらず、ここに一人、手塚治虫さんは十数年間たえず選ばれつづけた神様であった。無数のけたたましい泡の群れのなかで、彼は消えることがなかった。つねに求められ、選ばれ投票されつづけてきた。この事実が、なによりも雄弁に子供の軽薄きわまる嗜好の変化のうらにひめられた鑑賞力と識別力の鋭敏さを語っているように、私には思えるのである。
つねに一貫した主題
子供マンガの人気の消長というものは大人の文壇や画壇や学界とちがって、作者の資質と実力だけがモノをいう世界であるらしい。むきだしギリギリに純粋で冷酷であることは勝負師やスポーツ選手と同じである。おつきあい、先輩後輩、義理人情、出版者に対する思惑、仲間ぼめ、肚芸、打算、挨拶、文士劇、ゴマすりなど、にやにや脂ぎって酒臭くヤニ臭い、あるいはキラキラと澄んで速くうごく利口な眼ざし、博学、同情、気まぐれの暗示など、なにひとつとして通用しない。たった一つのキメ手は子供が買うか買わないかということ。それだけで決せられる。目もなく耳もない、多頭多足の子供大衆という怪物が相手なのである。猥雑で、軽薄で、冷酷でまったく自由であり、鋭敏である怪物である。それを相手に十六年間たえず首位を占めつづけてきた手塚さんの何十万枚という努力は私などには異様なものに感じられる。“天才”というほかないのではないか。(『ジャングル大帝』七巻だけでもじつに十六万枚になるのである!……*4)
彼の作品を二十六冊もまとめて読むのは、はじめてのことであった。子供が友達から借りてきたものや床屋や医者の待合室などにころがっているものなどをちょいちょい盗み読みしておぼろげに楽しいものだと思って感心していたのだったが、今度通読してみて、あらためて感嘆させられた。そしてまた、ほかの無数のマンガと読みくらべてみて、どれだけ彼が傑出した人であるかということもよくわかった。
『ジャングル大帝』、『Oマン』、『ロック冒険記』、『ナンバー7』、『宇宙空港』、『白骨船長』、『狂った国境』、『おれは猿飛だ』、『鉄腕アトム』、そのほか、いくつとなく彼の長編を読んでみると主題がつねに一貫していることに私は気がつく。
それは、ひとことでいえば“対立”である。強国と強国、強民族と強民族、人間と機械、文明と文化、原始と現代、機構と個人、空間と時間、人口と面積、理想と現実、科学と道徳、父と子、すべてのものがそれぞれの衝動において局部肥大して対立しあい、抗争しあう。核実験競争や国境紛争やクーデターや資本の謀略や陰謀者同士の内部分裂や人種偏見や未来時代の楢山*5や官僚主義や独裁制や奴隷制や植民地収奪などがさまざまのイメージを変えつつこの“対立”の表現となってあらわれてくる。つねに対立と機構は避けようなく陰謀と打算を生みつつ肥大し、発展し、破局的な大衝突にいたる。
人類はついに賢い愚行の果てに自滅しあうであろう。強者はつねにたがいを試しあってたがいに殺しあうであろう。そして小さな中立者をもかならずその破滅の淵にひきずりこまずにはおかぬであろう。変れば変るほどいよいよおなじである。ノアの洪水時代も、鬼子母神の古代インドも、イソップのギリシャも、つねにおなじであった。一九六〇年代も、未来もまたおなじであろうか。
彼のマンガは複雑怪奇きわまる冷戦と軍拡競争と謀略と植民地主義と大量虐殺の大人の二十世紀をそのまま描きだすのである。要素化し、単純化し、奔放な空想において黙示録の破滅を描きだす。そして大破滅の戦前か戦後かに、ごくごくひとにぎりの子供や動物や人間の弱さに価値をおく科学者などが危機一発*6、地球を脱出して新しい衛星に向うか、陰謀者と機械の群れを破壊するかで、九死に一生の救済を得るのである。誇りと偏見と機械とにとりかこまれた大人たちの硬直の世界のなかで、子供たちはつねにシジフォスの役を負わされる。たえまなくころがりおちつづける石を山頂へ運びあげようと永遠の徒労をかさねつづける。優しい心を持った、孤独な苦役人が手塚治虫のマンガの主人公である。
チャプリン*7や、ハックスリーや、オーウェルなどを眺め読むように、私は彼の漫画を、眺め、また、読むのである。
この世の原理原則をえがく
人種偏見のない世界、国境のない世界、資本の謀略のない世界、人を殺す機械のない世界、人を殺す理論のない世界、階級のない世界、国家のない地球、小国の積極的中立主義の生きる世界、誇りの硬直のない世界、愚者と弱者が賢者や権力者や強者と同格で肩を並べられる世界、寛容と同情の世界それが彼の主張する世界像なのである。お読みになってごらんなさい。大人の世界では石器時代以前にとっくに御破算になってしまったこれらさまざまな理想の言葉を彼がどれだけ率直に、簡潔に、むきだしに、誰憚ることなく、機智と哀愁と人生智をもって語っていることか。
私たち“大人”が複雑さと分裂に疲れ果てて率直に語る勇気を失ってしまったことを彼は一人で子供マンガの世界でぶちまけているのである。子供マンガの世界でしかそれらが述べられていないという事実に私たちはあらためて自身の象皮病の深さを発見するのではないだろうか。両親や兄姉たちが口ごもって答えてくれないことを彼一人が子供たちに答えてやっているのだ。しかも大人の言葉で、本気になって、親身で、うちこんで、答えてやっているのである。そしておどろくべきことには、じつに十六年間、何十万枚となく、えんえんと彼は一貫して描きつづけてきたのである。剣豪物ブームだの、柔道物ブームだの忍者物ブームだのという泡の群れとはなんの関係もなく、ただ彼は、中野重治風にいえば“もっぱら腹の足しになる”、そして大人たちが慢性下痢を起してただくだしにくだしてしまっているところのものを、この世の原理原則というものを、汗水流して描きつづけてきたのであった。
以上は私が読んだ彼の二十六冊の本(彼の全著作ではない)について、その主題の発想であり、骨組であり、構造である。けれど、この世には、美しい感情をもって書かれた退屈な作品というものも無数に存在するのである。手塚治虫の感情がどれほどすぐれていても彼の描く絵や色の意味が理解され、すぐれていなければ、どんな立派な思想も骸骨の骨格見本でしかないだろうと思う。
子供たちが彼のマンガを選ぶのはこの世界の現状についての大人たちの説明のいいかげんさに絶望する気持と、もう一つは、彼の描きだす線そのものの持つ楽しみや、くつろぎや機智や、爽快さからなのである。
この部分はつねに説明不足で、暗黙のうちに理解されており、“批評”では重視されず、愛着の最初のものであり最後のものでありながら、誰も口にだそうとしないものである。教育家たちの批評のしらじらしさは、たいていそこからでてくるようである。人間をレントゲン写真で眺めて鬼の首でもとったみたいな気持でいるいい気さかげんが、私をしらじらしくさせバカバカしいとも思わせてしまうのである。
ユーモアをもっている「線」
彼とならぶ人気を持つといわれる白土三平の『忍者武芸帳』や横山光輝の忍者物や石森章太郎の作品などとくらべてみると、クッキリとめだつ相違が一つある。三平は荒乱陰湿、光輝は流暢軽快、それぞれの差がある。ウデの上下はしばらくおくとしよう。けれどこれらの人びとと治虫の描きだす線とのあいだには、クッキリとめだつ一つの相違がある。それは、ひとことでいえば「ユーモア」である。手塚治虫は線そのもののなかにすでにユーモアを持っているのだ。ほかの人たちは、ほかのダイナミズムとか秩序感などで彼よりすぐれた美質を部分部分で持ってはいるものの、この一点をまったく欠いている。私にいわせれば「ユーモア」の感覚は人間の本能の知恵なのである。この知恵を汲むことのできない人びとは、ほかのあらゆる美質にもかかわらず私を和ませないことで能力ひくく洞察力またひくい人であると思わせられる。ユーモアは現象を分析すると同時に一瞬に総合して批評の決裁をくだす知恵である。手塚さんの描く線にはどの一瞬にもそれがこめられているので私はうっとりしておでん屋で我を忘れてしまったのである。くそまじめな日本の陰湿な風土ではこれがひどく育ちにくいこと、文学界、学界、すべて同様である。(まじめであることと、くそまじめであることは全く別物である。これがあまりにしばしば混同されるので私は憂鬱である)
手塚治虫さんがマンガを発表しはじめてからもう十六年になる。この十六年間に日本の子供たちは何十人のマンガ家を生み、育て、殺していったことだろうか。その貪欲さと軽薄さはこれに乗じて失敗したり成功したりアミーバー状脳細胞の出版社員の嘆きや畏れと私はおなじである。子供は冷酷である。けれど、それと同時につねに彼を選び求めてきた、大人に犯されない嗅覚の鋭さという一点で私は拍手を送りたい気もするのである。低能マンガは華々しくバカバカしい。けれど、ついにそれらは、泡にすぎないのだ。子供のほうが大人よりよく知っているのだ。
手塚治虫さんよ。
ガンバッてくださいね。
誰も眼をキョロキョロさせて口にだすのをはばかっていることをあなた一人が叫んできました。地上にあなたの世界はしばらくありませんけれど、叫ぶことはやめないでください。
あなたは儲けることをあまり考えないで儲けてしまったのですけれど、そんなこと、どうでもよろしい。昔のような作品をどんどん書きつづけてくださいね。あなたは私に会ったとき、“もう筑波山の上から見おろしているような気持ですよ”と早口にマンガ界の現状に対する自分の位置を述べましたが、そんな老けたことはいわないでください。私は自分の子供にあなたの作品を読むことだけすすめたのです。
16年で神様ですか。CLAMPも23年ぐらいやってるんで、神々様(女神々様)と呼んでもいいですかね? 日本は多神教の国なんで、手塚治虫以外に複数神様いてもいいと思う。
個人的にはこれ、開高健にしてはちょっと物足りない。漫画について何か言うことって難しいですね。
あと、手塚治虫の「ユーモア」というか、ギャグの入れ具合って、今の漫画に慣れてる人にはつらいかもしれない。昭和30年代の漫才ぐらいの感覚だと思う。
ということで、光文社文庫版にリンク。
- 作者: 開高健
- 出版社/メーカー: 光文社
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- メディア: 文庫
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