日本読書新聞1955年5月2日の記事「児童雑誌の実態 その四」(良いものを探す)
悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
日本読書新聞1955年5月2日より。
前のテキストはこちら。
→日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」
→日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)
→日本読書新聞1955年4月18日の記事「児童マンガの実態 その三 マンガ・ふろく・言葉など」
児童雑誌の実態その四
この特集もすでに三回、今日の児童雑誌の実態として、欠点の指摘を中心にすすめてきたが、今回は、どこかに良い点はないか、すくなくとも“良い芽”は見られないか、という立場から検討してみた。
本誌の記事は各方面の共感と反響を呼び、各界も活発な動きをみせはじめているが、これは一時の流行に終らせてはならないものだ。業界の反省はもとより、すべての親たち、現場の教師たちが、強い愛情とたゆまぬ努力によって、子どもたちに即して、この問題を解決してゆくほかない。
そこで、では具体的にどうすればよいのか、実地に当ってどういう方法が可能なのか--実態調査と二、三の指導実例をあげて、考えてみることにした。
本号は従来通り本誌学校図書館欄担当の各氏(菱沼太郎、森久保仙太郎、久保田浩、菅忠道、真船和夫、岡田日出士)のほか、藤田博(野方小学校)藤本一郎(京橋小学校)両氏の協力をえて本紙編集部がまとめた。なお、今回は特に全国各地から様々の資料、意見などを沢山の方々からお寄せいただいたので、それを使わせていただいた。
マンガと子ども
大阪氏の某小学校の調査(同市指導主事尾原淳夫氏提供)によると、
▽マンガに対する家族の見方
「叱る」三〇名、「とめる」六六名、「無関心」一五四名、「ほめる」七名。▽好きなマンガの内容
/ 一年 二年 三年 四年 五年 六年 計 冒険もの 12 26 11 20 27 7 103 探偵もの 15 20 20 22 29 14 120 怪奇もの 1 1 3 13 9 0 27 架空もの 3 1 7 4 5 10 30 ユーモア 12 1 14 11 9 2 49 頓智もの 5 14 17 19 31 2 88 お伽もの 6 7 6 4 14 0 37 友情もの 2 2 2 6 14 5 31 悲劇もの 4 11 14 20 18 19 76 風刺もの 0 6 1 1 1 1 10 生活もの 2 3 2 8 10 3 28 歴史もの 5 9 9 23 23 23 79
どのように導くか
現場教師の記録
現場の教師の記録を見る前に、読者の投書から二つの意見を紹介しよう----
「小学校の女先生も母親も、学習雑誌という名に信頼して子どもに与えっぱなしにしているが、それでよいのか」(山口県岩国市・葛原白葉氏)という声。もう一つは「最近東京近郊で急激な流行を見せている貸本屋と、地域子供会とが手をつなぎ、一体となって読書指導をしていったらどうだろう」(三鷹市・秋山礼孝氏)という提言。--前者は世の母親・教師たちがもっと子どもの雑誌に関心をもって“手にとって読んでほしい”ということを、後者は貸本屋さんたちの反省と協力を切望している。いずれも真剣に考えるべき問題であろう。
東京神田の淡路小学校六年生の児童に、これらの雑誌を読ませてその感想からまとめてみると----1・恐迫感がある 2・妄想癖をつくる 3・絵に対する美感をゆがませる 4・映画スター・流行歌手へのアコガレを抱かせる 5・服装をマネたがる 6・類型的な割り切った見方をうえつける(事実を曲げて小説的にみるようになる)----というような心配されている通りの結果が出た。
計画的な読書指導
三重県亀山市亀山小学校の松村安雄先生の場合----
「本校において男子の最も好むものはマンガである。マンガのうちでも西部劇は余り好まれず時代物、柔道、レスリングのマンガが特に好まれている。女子の最も好むものは少女小説である。男子、女子ともに、どちらも物語の筋などは大して問題でない。子どもの言うのには、全体を読み返すということはまずないらしい。しかしええとこだけは何べんも読むというのである。ええとことはチャンバラの場面、化ける場面、類型的な感情を煽ることば、といったところである。……子どもが、マンガや少女小説から高度なものに進むきっかけは、母姉兄が買ってきた、読書会に出席するための準備によみだした理由のものが多い。結局、家庭の教育的関心と、学校における読書会等の計画的な読書指導のための方法が、大きな役割をしているといえる」。(なおこの先生からは六年の児童三人に「読書の歩み」を書かれて送られてきたが、これはいずれ紙面に掲載したい=編集部)
漫画から脱け出る
望みたいたゆまぬ努力
千葉県松戸市の高木第二小学校の鈴木喜代春先生の場合----
マンガを足場に子どもの読書を高めてゆこうとして、まず子どもたちと一しょにマンガ本をどんどん読み、ついに子供たちも「うあ、このあいだ見たのと同じだな」といった調子で、マンガに対して批判的な空気を教室内に作っていった。そして一年たらずのうちに、この先生のクラスの子たちは、雑誌『青い鳥』(季刊児童文学雑誌・福音館書店発行)をつぶすなという声とともに「青い鳥子ども会」をつくった。そして二十一人の児童が『青い鳥』を買うようになった。そして読書会が生れ、めざましい発展をとげつつある。そして鈴木先生はいう----
「マンガ----まったくおそろしいことです。でもマンガでも読んでくれたら望みがあります。出発はここからです。それにしても、あまりにもひどい商業主義にあきれます。より子どもに親しまれるような作品、子どもを勇気づけるような作品の、本当に少ないことを痛感します。しかし、これらはお互いにせめあうのではなく、現場の教師と、作家と、手をとりあっていくこと。現場の教師は商業主義に負けずに、子どもを守り、もうければよいという方々も、反省してもらいたいものだと思います。お互にケンカにつらなり、取締法などの法律では、ものを解決したくないものです。」(なお、本号六面「本を読んで」欄参照のこと)
教師に望むこと
出版界の反省を求めることが第一だが、教育者の力にまつところも極めて大きい。そして教師として考えねばならないことは----
1・社会悪の結果だから仕方がない、われわれは毎日の教室での学科の学習にせい一ぱいだ、などと言わずに、現状に対して少しでも抵抗していく態度をとること。
2・そのために教室で読書指導を計画的に、先ずやること。継続してやれば、必ず効果があがる。
3・ただ感想文を書かせるというように形式にとらわれず、いま子どもが一番多く接している雑誌やマンガなどをどう読むかということを、実物について学習させること。
4・教師対児童の教室内の学習活動として限定せず、母親たちと協力する方法をとり、大人の問題に発展させることで、PTAの組織など忘れてはならない。
しかし、どんなに努力しても、クラスの中にいる一〇-一五人位の読書力のおくれた子は、雑誌やマンガから離れられない。その子どもたちのためにも“本当によいマンガや雑誌がほしい”と願わずにはいられない。
伸ばしたい良い芽
余りにも少いが
三十誌をこえる児童雑誌の中から賞めるべき作品や記事を探すのはなかなかむつかしい。この特集を始めた当初から、そのつもりで各誌を見てきたのだが、正直にいって、良い点を見出すのに苦労した。以下紙面のゆるす限り拾ってみた。
低学年に良いもの
いわゆる“学習雑誌”と自他ともにゆるしている小学館の学年別雑誌を見てみよう。
『小学二年生』『小学三年生』などの低学年向は全体として大体よいといえよう。『二年生』のつづきどうわ「ろばものがたり」(西山敏夫文・沢井一三郎画)は二年生にもわかるようかけており、絵も良いが、色の工夫がさらにほしい。童話「あめさんふっとくれ」(住井すえ)は、畠と田で働く農家の母と、雨とをむすんで、農業の仕事を教えながら、母の日の心を語りえていよう。つづきえものがたり「いえなき子」(槙本楠郎文・谷俊彦画)は、色の美しい絵でこの名作をやさしくよませる。りかどうわ「いもむし」(平井芳夫文・安泰画)は童話の形式をもって、自然に対する目を開かせうると思う。
『小学三年生』では、四月号のめいさくよみもの「きえたせん人」(槙本楠郎・井口文秀画)は芥川の「杜子春」の話を絵を中心としてかいており、大体あやまりなく子どもに杜子春を印象づける。スチーブンソンのおはなし「山のはつめい少年」(白木茂文・沢井一三郎画)は三年生むきの伝記として清潔である。しかしほんの小さなエピソードで、一号分では、伝記として断片的によまれすぎよう。連載第一回「とおい北国のはなし」(小川未明文・松野一夫画)は、めずらしいほど純粋な物語といえるが、三年生が果して、これに興味がもてるか(子どもむきの私小説的作品の今後はどうか)という疑問が出る。それは「そらのおうし」(和田伝文・武田まさみ画)も同じだ。四月号の短編「三ちゃんのケンカぐも」(北川千代文・黒崎義介画)は中間童話といったものだが、こんな段階から純化へむかうのもよいと思う。あまり観念的・高踏的なものより、まずこの辺から、という感じである。
マンガにはこれといって良いものがない中で、「ししがりのタルタランさん」(せんば太郎)は新しい形式で注目されよう、色はよくないが、コマにしばられないところがよい。
この雑誌では「ホロホロチョウのまだらはなぜできた」(八波直則文・森やすじ画)、中国むかしばなし「ありの国」(平井芳夫文・林義雄画)、つづきよみもの「トムのぼうけん」(西山敏夫文・谷俊彦画)なども比較的よいものだ。
『小学四年生』では、世界名作絵物語「アラビアのガラスつぼ」(土家由岐雄文・池田和夫画)は文章にケレン味がなくてよい、絵もまずまずといえる。文芸読物「おかあさん物語」(鶴田知也文・滝田要吉画)は清らかで美しい話だが四年生に感動を与えうるかどうか疑問。朝鮮昔話「ほととぎすになった男」(平井芳夫文・花野原芳明画)はおもしろいものになりそうな作品。同じく四月号の友情小説「星はいつまでも」(園田てる子文・松野一夫画)は清潔で面白い。
『小学五年生』では、連載小説「良太とみちる」(田中澄江文・沢田重隆画)は意欲のある本格的な少年少女小説といえよう。だが純粋ということは子どもにとって高踏的になり易い、どこかに生活とそれを結びつけるカギはないものか。連載小説「火を吐く富士」(沙羅双樹文・伊藤彦造画)は上代に取材した注目される作品。名作絵物語「コーカサスのとりこ」(平井芳夫文・池田かずお画)、キュリー夫人伝「四等車のマリー」(大屋典一文・石井達治画)、映画物語「路傍の石」など、まずまずというところ。四月号のユーモア小説「ヨタじいさんのヨタばなし」(平塚武二文・鈴木信太郎画)は良かった。
おもしろくする工夫
さてここで、学習的な記事について触れてみよう。『小学五年生』四月号を例としてあげると、「楽しい名画展」「目で見る社会科」「絵で見る日本史」などであるが、これらはいずれもぜひ育てて行きたい企画である。目でみる社会科「火山の国日本」は七頁にわたる記事だが、もう少し生活の面を出してほしかった(火山地帯の村の生活など)。こうしたページが、あまりに事典的になるので、子どもたちが興味をもたないのだ。絵で見る日本史「ほろびゆくマンモスと生きる人間」は、良い試みだが、五年生になったばかりの子にはむずかしすぎる。
マンガや小説にアッピールすることを一生懸命に考えている編集者たちが、こうしたページになると急に子どもの興味や理解度に無神経になるのはどうしたことだろう。
特集読物「私たちの児童会」もおもしろい試みで賛成できる。だが、以上あげたようなページは、このままでは子どもが喰いついて来ないだろう。マンガや小説のページに比べて、ずっと読みづらい(組方、割付、頁数などの点)おもしろくするために、いろいろな工夫をしてほしいところだ。
生活の問題に切込め
『女学生の友』にゆくと同じ小学館と思えぬくらいガラリと変る。『中学生の友』では、時の話題、世界の話題、科学の目、日本の文化のあゆみ、国旗の知識、科学の話題などがあるが、いずれも二頁みひらきで、おそえものの観。これだけがいいというのではないが、突っこめば、もっと正しく中学生にアッピールするのではなかろうか。“知識の袋”ではなく、生活の問題に切りこみ、面白くしてゆけば、科学記事などは殊に喜ばれると思う。
希望もてる紹介ぶり
学習研究社の『一年ブック』では、特に取りあげるものはないが、マンガ「らんどせる」(秋玲二)は軽いユーモアでよいが画面がくらい。にほんむかしばなし「おいもころころ」(鈴木寿雄画)で、日本昔話をこのぐらいに紹介できるなら、間もなく子どもに入ってゆけそうだ。『三年ブック』では残念ながら賞めたい頁はない。
美しい実話など
講談社の『少年クラブ』五月号では、少年感動小説「ラッパの亀」(氏原大作文・林唯一画)と、ほんとうにあった話「感謝の捕物」(高村暢文・矢車涼画)の二つがとれるものといえよう。前者は、頭のおかしくなった亀という男が、比較的ヒューマンに書かれており、後者は美しい実話で、もっとくわしく紹介してもよかったのではなかろうか。
その他では連載「風雲児義経」(沙羅双樹文・山口将吉画)は、山口の絵は古いし、文も闘いを中心にしているが、義経を中心として、まっとうな戦記ものである。しかし特に推奨するほどのものではない。少年詩「ぼくらの五月」(サトウ・ハチロー)も清潔だが、コトバのリズムに流されないようにしてもらいたい。プロレス「遠藤幸吉選手物語」(永見七郎)は半生の概要が比較的要領よく紹介されており、生活の上でも強さと正義をもつことが押し出されている。
偕成社の『少女サロン』ではユーモア小説「コケコッコ物語」(森いたる分・武田将美画)と連載明朗絵物語「ペコちゃん」(北町一郎文・かじかんいち画)、マンガでは「おねえさん」(若月てつ)の三つが、比較的いいものとして推せる。
光文社の『少年』では中扉の「○月の絵ごよみ」がいい。少年映画館「一五〇〇メートル快勝」「ふろたき大将」はもっと大きく取り上げても良いのではなかろうか。
一応成功した読物
『少女』の「私のグチ日記」(森いたる文・石田英助画)は健全な読物といえよう。生活の中の、ありそうな事実に親しみを感じさせ、一応ユーモア(言葉の)も成功している。実際に子どもたちに読ませて見たところ、「読んでいて気持がいい」という感想が多かった。これは“健全さ”への子どもの関心の現われと見ることができよう。この作品の言葉のユーモアには、たぶんに駄ジャレ的な面もあるが、一般マンガよりはいい。実際に子どもたちが面白がったところを左にあげてみると----
「綿貫先生のアドバルーンみたいなおかおながめて…」。電車が混んで「おまんじゅうだったら、とっくに、アンコがはみだしててよ」。忙しく夕食の支度をするところで、「お米といでちょうだい」「おとうふ、買ってきてね。それから…」。主人公の愛子が女中さんと間違われて怒り、スリコギを振りあげたら「ワァ、おそろしく、気のつよい女中だ」……。赤ちゃんのため、オムツをぬってあげたら「まあこれじゃ、ぞうきんだわ」と、ねえさんに笑われ、「じぶんだって、ざぶとんみたいなおむつ、つくってるくせに」。
こうしてほしい
以上を検討してきて、結論めいたことを言ってみれば----
1・北条誠、大林清、小松崎茂などの既成作家に編集者がよりかかりすぎているのが欠陥である。意欲的な新人にある程度の紙面を解放してはどうだろう。
2・映画物語などは決して悪いものではない。取り上げ方に工夫がいる。映画会社の広告(予告篇)じみた取上げ方から脱して、長いもの(相当ある)を、もっと丁寧に取上げるべきだろう。できれば鑑賞のカン所なども取上げて見ては?
3・学園ものが、あまりにも学習くさい。先生根性がまる出しであり、しかも子どもの現状に不感性である。
4・全体の編集に統一がないのが問題だ。もっと企画に力を入れ、子どもたちのものにすべきである(現状では編集者の勉強不足が明らかだ)。
各界の反省たかまる
批判に応えて努力
「児童雑誌編集者会」誕生
児童雑誌批判の声が十把ひとからげの域から具体的なものになるにおよんで、雑誌編集者側もようやく具体的に動き出した。組織的な動きとしては日本児童雑誌編集者会(代表・小学館浅野次郎氏)の誕生があげられる。同会では今後、雑誌をよくして行くために大いに反省勉強し、評論家に編集者側の意見もきいてもらうようにして行くという。
この会としての動きは今後にあるわけだが、すでに各社の編集者たちは、それぞれの編集会議において反撥したい批難はあるにしても反省、自重しなければならない点は大いにあることを認め、何とか努力しようという動きをみせている。秋田書店などは、滑川道夫氏を囲んで研究会を開くという熱心さである。
編集者の意見
また「東京児童マンガ会」の編集者と話しあう会、「日本子どもを守る会」主催の出版社、母親、作家の懇談会(四月二十日)や、「七日会」主催で行われた編集者、さしえ画家、絵物語作家の懇談会にも、各社編集者は多数出席、いろいろ意見をのべている。二十日の会で出た編集者側の主な意見をひろってみると----
グロテスクな絵、ちなまぐさい絵はできる限り書きなおしをしてもらうようにしているし、一般に、画家の選定には慎重を期している。(集英社・石橋氏)
わるいものを駆逐できなかったのは、よいものを出し、よいものを育てる努力が足りなかったのだと反省している。編集者、作家、批評家の三者が一致して、面白さにおいて、現在の強い刺激に十分代わり得るようなものを育てて行きたい。(小学館・長田氏)
批評家に不良文化財と烙印を押されることより、子どもがどう受けとっているかがわれわれの問題で、子どもが満足しているならそれでいい。現在の傾向はやはり、社会的環境から来ている。面白さは必要だ。ただ娯楽ものを読むためにあまり時間をとるのは心配だ。フロクをへらして、よいものをつくって行く努力など、協定すればできると思う。(秋田書店・森田氏)
編集者としてもいやな仕事をしなければならないこともあるが、現状では一社だけよくしたらつぶれてしまう。ひんぱんに、こういう懇談会をひらいて欲しい。(少年画報社・山部氏)
「子どもがとびつくものであれば子どもに支持されているので、それだけが児童雑誌の身上である」という考え方がまだあるのは遺憾だが、とにかく現状ではいけない、何とかいいものにして行こうという気持を全部が持っていることは、それだけでも心強いことだ。
積極的に動き出す
五日後に開かれた「七日会」の懇談会では、編集者側は一様に、こんど、本紙をはじめ全国のジャーナリズムが児童文化を多くとりあげはじめたことを、非常にいいことであり、むしろおそかったといっている。批難への説諭や希望はあるが、批評の対象になり得なかったことが低俗化を招いたことを思えば、対象にされはじめたことは喜ぶべきことだ。今後とも文化時評的にとりあげてほしい。たたくばかりでなくほめることもしてほしい。マンガや絵物語、時代もの、冒険ものはみんな悪いというのではなく、テーマが問題なのだから、面白さの質を研究しあって向上させて行きたい。編集者の集りもできたし、団結して行き過ぎにあたって行きたい。等々、よい方向へ持って行くために建設的な批評を望む積極的な態度がみられた。
もっと意識を高めよう
教師・父兄・子供の話しあいを
父兄、母親の関心もようやくたかまり、編集者、作家との懇親会では、お母さん方が編集者の痛いところを突いたし、地域によっては“買わない”運動もおこり出しているが、一般には、母親の意識はまだ低い。ひどい絵やことばにびっくりして、すぐ法で取締ってくれと云い出す母親が多い。「残虐ものには顔をしかめても、スターものや戦争ものは悪いと思わない人もいる」(志水慶子氏)という。
「雑誌は今の社会の子どもには必要なものとして存在している。この認識の上にたって、母親が手を結ばなければどうにもならないということ、学校でも学習時間に雑誌をとりあげてほしいなどの声が出はじめた。
教師への大きな期待
この父兄の希望に応え得る教師はどれだけいるだろうか。不幸にして読書指導はまだまだ“課外”という観念しか持たない教師が多いようだ。まして一番よまれている雑誌をとりあげて正しく指導している教師は非常に少いのが現状だ。
日教組の「第四次教育研究全国集会」でも雑誌や、マンガの読書指導の体験から討論が行われ、具体的に子どもは何に心をうばわれているかを知り、親も含めて、目を開かせるためにねばり強く話しあいを重ねなければいけないという反省が出た。
職人根性を捨てよう
絵物語・挿絵画家も動く
作家側では、まずさしえ、絵物語作家の集り、「七日会」の動きがあげられる。同会では二十五日編集者との話しあいを行ったが、会員外の無関心な画家にも呼びかけ、職人的な気持をすて、芸術家として、人類の明日の幸福につながるよい仕事、独自性ある仕事をして行こう(鈴木御水氏)という反省と共に、やはり具体的な批評がくり返しなされることを望んでいる。(山川惣治氏)逆コース、戦争への道には断固反対すべきだという声(永松健夫氏)も出ている。
漫画家も反省
「東京児童漫画会」では、現状について、編集者にも罪があるという見解にたって、謙虚に意見をきき、編集者との協力で雑誌の質を向上させようと、四月十一日各社編集者との懇談を行った。続けて、漫画家同志遠慮のない批判ができるような空気をつくり、学校の子どもや先生の意見もきく機会をつくりたいといっている。
その他、作家松井みつよし氏は「刀やピストルが出てくるから問題なのでなく、取材がよいところにあることが問題である」と発言。加太こうじ氏も「執筆者に無関心な者があまりにも多く、再軍備につらなる好戦ものを書くのもこういう人だから、無関心派を批判すると共に、反対に、逆コースに抵抗、努力している者には励ましを与えてほしい」といっている。
【七日会】会員約五十名。主要メンバーは山川惣治、梁川陽一、清水御水、水松健夫、古賀亜十夫、中村猛男、前谷惟光、中村英夫、武田将美氏ら。
【東京児童漫画会】会員四十名、会長・島田啓三、福会長・秋玲二、原やすお。主要メンバーは入江しげる、馬場のぼる、太田二郎、福原芳明、山根一二三、松下井知夫、手塚治虫、吉沢日出夫。
各団体の動き
東京都出版物小売業商組合中野杉並支部では、小売商といえどもやはり売れればいいではすまされない、文化指導の一端を担うものとしてすすんで、よいものを店頭に並べお客にすすめたい、あまりひどいものは“売らない”運動にまでもって行きたい、という声が出ている。
また出版団体連合会を中心として出版倫理化委員会ができ、出版社、取次店、小売店の三者が一体となり、近く出版物浄化の声明を出すというし、全国出版物卸商業協同組合(理事長・松木善吉)では浄化声明を出し、「エロ・グロ的艶笑雑誌の絶滅を期し、発行責任者の住所と氏名を明記していないものは取り扱わない」旨発表。
中央青少年問題協議会に設けられた「青少年に有害な出版物、映画等対策専門委員会」では、関係各界の自粛運動と、よいものを育成する運動をおこすこととし、今回は取締立法化は今後の研究課題として、見送ることに決定する見込み。
…なんかあんまり「良いもの(作品)」で読みたいもの、ない…。
今となっては俗悪とされていたものも、良書として推奨されていたものも、そのほとんどが消えてますけどね。
日本読書新聞の話は、もうあと少しで終わります。
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
→1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク