日本読書新聞1955年4月18日の記事「児童マンガの実態 その三 マンガ・ふろく・言葉など」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 日本読書新聞1955年4月18日より。
 前のテキストはこちら。
日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」
日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)
 今回は「児童マンガの実態」となってますが、元記事の通りです。

児童マンガの実態 その三
マンガ・ふろく・言葉など
 
“児童雑誌の実態”は残虐・戦争もの(三月二十一日号掲載)および少女もの(四月四日号掲載)に続き、今回はマンガ・ふろく・言葉その他の点についてその実態を分析してみた。例によって本紙学校図書館欄担当の各氏の協力と読者諸氏の投書を参考にして本紙編集部がまとめた。
 次回(五月二日号)では、これら低俗化した児童雑誌からいかに子どもを守ったらよいか、その対策について実例を挙げて考えてみる予定である。読者の皆さんからの資料・意見の提供と協力をお願いします。
 
推せん者の責任も
 
 児童雑誌の中の二、三には、大学教授などの推せん文がのっている。ひどく抽象的な推せん文だが、おそらく具体的に内容を検討した上での推せんではあるまい。児童雑誌をここまでに低俗化させてしまった責任は、こういう大学教授の態度にみられる大人たち、教育界全般の、無関心さにもあったことを、商業主義を責める前にもう一度反省してほしい。
 
漫画でない漫画
量も多いが内容がひどい
 
 まずマンガが本誌(ふろくは別として)総頁中のどの位の量を占めているかは左表の通りである。(いずれも五月号)マンガ専門誌とうたっている『漫画少年』は別としても、多いのになると『二年ブック』五五・四%、『三年ブック』四四%、『一年ブック』四二・三%がマンガ頁となっており、(最も少ない『少女サロン』が一一・七%)児童雑誌全体で平均をとると、マンガ頁が全誌面の二割以上を占め(四月号は二五%)各誌平均一〇篇のマンガが入っていることになる。
 
育てよう良いマンガ
 
 しかしマンガで問題になるのは今の場合量よりも内容だ。(量が多いことは必然的に作家の乱作という結果を招く訳だが=別項参照)。例えば大部分がマンガの『漫画少年』(学童社)には、残虐・殺人・闘争ものはほとんど見あたらないし、読者のマンガ投稿の頁も豊富でいいものを集めており、何でもマンガ物語にしてしまう近頃の傾向を廃して読者と共に健全な、おもしろいマンガを育てようと努力しているのは注目していいことだ。
 マンガという形式そのものは、元来排撃すべきものではなく、むしろ視覚教育の点からもっと有効に使われていいはずのものだが、現在児童雑誌にみられるマンガはマンガの良いところをまるで失っている。マンガの特長である“誇張”を悪用して、極端な破壊・暴力を痛快にすりかえていること、絵物語と同じように熱血・闘争もの、時代ものが圧倒的であること、どんな物語もたちまちマンガ化されているなど、今やマンガ本来の面白さとは全くかけはなれた低級なマンガがはんらんしている。
 
考える力を奪う
 
 マンガで、絵の側に説明・会話が書いてある形式は、ほとんどなくなり、みんな“吹き出し”(絵の中の人物が吹き出している形式)になっている。その方が苦労なしに読めるからだが、これと一しょにあげられるのは、マンガ絵に説明の擬音が多いことだ。キセルでたばこをすっている画面には「プカリ」という語、ころんだ絵には必ず「ステン」しょげた態度として「シオシオ」にらみ合った二人の視線がぶつかり、星が出て「カチッ」馬がはしっていれば「パカパカ」矢がとべば「ヒョーッ」ひきずっていけば「ズルズル」投げた弾があたれば「ボーン」当てられた方は「ぶあ」切りあいや格闘の場では必ず「やー」「トーッ」「タッ!」
 これはもちろん絵のまずさを補うものでもあるが、こうして何一つ考えずに安易に読めるマンガばかり見ている子どもたちに説明のない絵をみて理解する力、考える力が養われるはずはない。事実、サイレント・マンガ「クリちゃん」の面白さを理解できるのは五、六年生でも少いという。
 
貧困さをごまかす
 
 さし絵、マンガに盛んにみられるクローズアップは、やはり物語の盛り上りではなく、絵のものすごさで内容の貧困を補おうとするものだといえる。クローズアップのほかにも、マンガには映画の手法-カメラアングルやカットバックが盛んにとりいれられている。
 絵の問題ではほかにもある。一般にあくどい色彩、顔をそむけたくなるグロテスクな絵が多いことはすでにのべたが、アメリカ通信社との特約で、原色のひどい絵の闘争ものをのせているのがある。(『漫画王』『太陽少年』)アメリカの子どもたちがこれらの読みもののために、どんなに害われているかは、アメリカでも問題になっている時、“特約”“提供”と得意げにひどいものを輸入してもらいたくないものだ。現に輸入もののまねとみられる類の絵が一番ひどい。ピストル・殺人の原色絵を外国から買うより、こちらのいいものを育てる努力こそ必要ではないだろうか。
 
怖るべき時代マンガ
 
 マンガの中、時代ものの占める量は相当なものだが、特にマンガの場合は、時代ものといっても服装や道具だての一部だけがチョンマゲ時代で、ほとんどがパチンコ屋を登場させたり、城を出て行くさむらいが電気アイロンやラジオをかついでいたり、空にはロケットが飛んでいたり、トニー谷が一しょに槍持ちと歩いていたり----そういう時代ものでも現代でもない“無時代もの”だ。家康とか、秀吉とか、歴史上の人物が登場するものがたまにあっても、ただ筋を進行させる道具として登場させているだけで、史実とは何の関係もない。
 例えば、まぼろし城に家康がのりこんで、まぼろし党を味方にし、白頭巾が活躍する。大阪方は何もしらない。「天下をねらう家康の魔手はのびる----パチンコ姫、よわいのすけのかつやくは?」という具合である--『痛快ブック』四月号「パチンコ姫」若月てつ--
 トニー調や、パチンコなどで時代ものマンガも、まるで現代の感覚だし、スムースに子どもの中に入るだけに、子どもたちはチョンマゲを現代のものとしてうけとっている。西部劇に出てくることが現在もあるのだと思っている子どももたくさんいるというから、あまりにふざけた時代マンガの洪水にはバカにできないものがある。
 
名作マンガの弊害
 
たけくらべ」「家なき子」「二十四の瞳」「ああ無情」など多くの名作が、マンガになっている。ある名作マンガ「家なき子」の一こまに、母を探し歩いている子どもが街角でバナナの皮にすべってステンところぶ場面があったところ、「『家なき子』のお話を知っていますか?」という先生の問に「ああ、バナナをふんでステンところぶお話でしょう」と答えた子どもがいるという。
「名作マンガ」については、それを糸口に子どもが名作に親しんで行くというのが出版者のいい分だが、あまりに末梢的な部分のみ印象的にした名作マンガから、どれだけ原作に近いものを受けとれるか疑問だし、事実、一度、マンガで名作に接した子どもたちは、長い作品にとり組む意欲をなくし、あの話はもう知っているといって、リライトされたものでさえ読もうとしないのが大部分である。父兄はまた名作ものならば有害なものとは認めず安心して与えているのだから、安易な名作のマンガ化は考えてほしい問題だ。
 
ふまじめな生活態度
荒唐無稽・非科学性はザラ
 
 荒唐無稽、非科学的な箇所もかなりある。例えば、アメリカのフォード会社製のどれい型ロボットが、若がえりのガスをぬすみに工場へ侵入したり、薬をのんだサルが、往来でローラーをさしあげてなげたり、原子薬Bをのんだ類人猿まがいの原子男が出てきたり、ガマが胃袋を出して洗ったり、目をつぶされた浮寝丸がネコの目を入れたら夜でもみえたり、----こういう類は無数にある。
『少年』連載「少年ザンバ」(阿部和助・四月号では別冊ふろく)はアマゾンにすむ日本の少年がビラモン山にあるインカ神殿にどれいとなっている。そしてそこに出てくる動物はみんな中生代のものだが、これだけ道具だてがそろっていると、本当にアマゾンにおこっていることと思いこむおそれもある。
 現に東南アジア、アフリカ諸国に対する認識は“未開地一般”というものでしかない児童が多いのは「少年ザンバ」に類する読みものからの知識によっているのだ。
 猛獣密林もの、空想科学・冒険ものに多い無国籍ものも、子どもの日本と外国に対する正しい認識をさまたげている。
 
ふざけた生活意識
 
 ふまじめな生活態度は至るところにみられるが、『小学五年生』四月号「パピプペポちゃん」(入江しげる)では、五年生になった女の子が「かおりたかきロマンチックな本」を読もうと志し、「クラスのあこがれのまと」になることをめざす。「もう弟などとはあそべないのエヘン」という古い年齢意識をひけらかし「おしとやかに」なろうと気どって歩く。オセンチな詩をかく。そして制服をきて髪をおさげにすることをもって女学生(作者は女学生という今やふるめかしいことばをつかっている)の理想としているかのごとく感じさせる場面を出し、ひとに笑われて「まるで悲劇の主人公みたい」となげく。「やさしくなぐさめてくれるおねえさまがほしい」という。こういうたぐいのものは少女ものにかなりある。何ともなげかわしい生活態度が多すぎるのは、みのがせない問題だ。
 このほか、貧乏な主人公が、じみちに働いてお金を手に入れようとはしないで、賞金をあてにして拳闘に出、もらったお金であわれな子どもを救う話、家が貧乏だからスターになってお金持になる話も多い。
 買収されて客にしびれ薬をのませた茶屋の娘は、小判をもらって「オッホッホ ちょいとやって小判が一枚か、わるくないわね」といっている。----『痛快ブック』五月号「鬼面山谷五郎」(武内つなよし)----
 強くなる薬をのんで柔道や拳闘の試合に勝ったり、試合場の下から釘をうち、それで相手をひるまして「チャンスざんすね」とうちこむ「トニー谷の拳闘王」などフェアでない態度も沢山みられる。
 児童雑誌の中に正業にたずさわっている人間、現実の生活の中で生活している人間を見出すことはまず無い。
 少女ものに見られる“あこがれのお姉さま”式の、上級生との関係は、中学が義務教育となり、大部分が共学の現在、まさに、少女雑誌のためにだけある感がある。
 共学の中学が舞台になっているマンガが少なく“女学生”が沢山登場するのは、現実生活に根をもっていないマンガの姿をよく示している。
 
ここにもトニー調
逆行する「ことば」の問題
 
「ことば」の問題では、まずヤクザ言葉、トニー谷調の言葉が、あまりにひどくとり入れられていることと、それにもからまるが、問題をまともに考えることをさせないで、事実からそむけさせるような言葉のもてあそびが多くみられることが指摘できる。
「フン 大きな口をきくじゃねえか、だれだ、てめえは」「こどもあいてにドスをぬくようなチンピラどもに名のるひつようはないようだな」「フフフ 松、手をひくんならいまだぞ」----『痛快ブック』連載マンガ「パンチくん」(福田福助)----「おーい、みんな手をかせ、玉が逃げたぞう」「ほざきやがるな」----『野球少年』連載小説「ぼくらは負けない」(田村泰次郎)----
「げんこつ和尚」(夢野凡天『野球少年』)という時代もの連載マンガにはトニー谷が登場する。志水港をおとずれたげんこつ和尚と槍持とトニーは、次郎長のところでマンガ家にあう----「先生、あっしもわすれちゃいやザンス」。先生は同誌連載マンガ「森の石松」をかくのでいそがしい、じゃまにならぬよう帰れと言われて、
「おやまかちょいちょいゆであずき」「だんなあすこの宿へとまるこそよけれけれ」「ここが石松のうまれた家ざんしてね」「アチャ」。
 トニー谷は登場しなくてもトニー調は盛んに使われている。例えば
「やつを買収することはできんか」「おだめざんすね、アトムはあれでしっかりしていますからねえ」----『少年』連載マンガ「鉄腕アトム手塚治虫)----
 しかし一番ひどいのはやはり『少年画報』四月号別冊ふろく「トニー谷の拳闘王」(前谷惟光)だろう。これはザンス調だけでなく他にも沢山の問題をもっている。拳闘でフラフラになっているのに「つらいざんすね……ホホホ、だいじょうび。」投げられて塀を突き破って頭から出てきたトニーは、まだ止まらないまま「おこんばんわ----ここはどこざんす」といった調子。
 
新語・珍語ぞくぞく
 
『小学四年生』四月号別冊ふろく「松山たぬき合戦」(えとう・ふみお)の中では、税金にあえぐ民家のやせた子どもの一人が言う。「あさおかゆ、ひるもかゆ、ばんもかゆ、それであたしはやせたのかゆ?」
 驚くことにぶつかっても、おどろいている人間のセリフは「ヒャーツなんじゃらほい」とか「アジャア」とか「おどろきもものきさんしょのき」といった式である。「ござりやす」「おそかりしか」「あじゃ」「フギャーざんねん!」というようなものも実に多い。
 このほか『野球少年』五月号の「風の弥太郎」(竹内つなよし)には葡萄の新しい技として「たつまきなげ」という語を、『少年』五月号「ダルマくん」(田中正雄)では「つじなげ」という語を作っている(つじなげというのは明治時代の柔術がよくやった柔道のつじぎりのようなものだと説明している)。
「かくてちちうえは、ひごうのさいごを…」「ジュン真ヒゾク」というような今の子どもには解らないような古い言葉も(しかもカナ書きにして)見うけられる。
 人間の解放は言葉の解放とともにあるという線で、戦後の教育は素朴な感動を言葉にすることに力をそそいできたはずなのに、一方こういう言葉遣いが雑誌の中にはんらんしているのでは情けない。
 
影響は現れている
 
 こうした言葉の影響は、読者のページや、連載ものに寄せられた子どもの投書に、さかんに現われている。
「『花いつの日に』を読むたびにかなしくなってないちゃうんだけどやめられないわ」
「二月号のふろくの“人気スター劇場”よかったわ。大好きな中村の錦ちゃんや東のおにいちゃまが沢山出ているんですもの。一ぺんでいいから錦ちゃんにだいてもらいたいナー。アジャーネ(エヘヘ……)」----『少女の友』四月号より----
「ぼくは、まぼろし天狗が大好きです。悪人をやっつけるあのかつやくぶりはすごいですね。」
「ぼくは柔道三段で黒帯です。『一二の三太』がんばれ!!」
「百太郎がんばれ!うしお先生がんばれ!漫画王もがんばれ!」----『漫画王』五月号より----
 
付録は“別冊”の全盛
 
 児童雑誌というとすぐ「ふろく」が問題とされるが、ひところ騒がれた金属性のデタラメな玩具などはさすがに(鉄道輸送制限などのためもあって)影をひそめ、それに代って「別冊」全盛時代となった。二九誌のふろく数の合計と、そのうち別冊の占める数は次の通り。
     ふろく  別冊
四月号……九一点……五一冊
五月号……八八点……五〇冊
「ふろく」すなわち「別冊」である。一誌あたり三-四点のふろくをつけるのが普通だ。(ただし例外として『漫画少年』の如く皆無のものもある)。
 ここで見逃すことのできないのは、子供たちがなぜ「ふろく」に惹かれるか、ということだ。第一に別冊ふろくには驚くほど立派なもの(外見)がある。例えば『ぼくら』の長編漫画「川上選手物語」『なかよし』の名作まんが物語「牧場の少女」『少年クラブ』の怪獣映画絵物語ゴジラの逆襲」『少女クラブ』の世界名作「家なき子」(以上全部五月号)など、すべて堅表紙で単行本なら市価一〇〇円はするほどのシロモノだ。これが“本誌つき”で一〇〇円前後で買えるのだからたしかに安い。だから子どもたちの間で別冊ふろくの売買が行われるという事態を生じてくるわけである。
 
罪ふかい玩具フロク
 
「ふろく」には別冊以外にどんな種類のものがあるか----。
 ブローチ、スター・ブロマイド、時間表、壁かけ、カード、きりぬき、双眼鏡、組立カメラ、紙かばん、ボール紙製ピストル、忍術巻物、マンガ巻物、シネラマ・ブック、三色ノート、がくぶち、ボール紙製モデル・ピアノ…。
 といったぐあい。題名だけだと一寸したものに思えるが、手にとって見るとガッカリするようなものばかりだ。組立式のものは、大てい“出来ない工作”ものであり、全く駄菓子屋のオマケと変らないといわれても仕方のないような“子どもダマシ”ものが大部分だ。
 表面だけを飾りたてた〈イミテイション文化の象徴〉ものを、粗略にあつかう習性を子どもに植えつけてゆく、という悪い影響も考えられる。一、二度使うと壊れてしまうような安手な玩具などは最も非教育的で、メンコや忍術巻物などよりも、かえって罪がふかいともいえよう。
 
学習フロクにも問題
 
 学習的なふろくにしても、その意図は一応わかるが、それらを検討してみると色々問題がある。特に社会科ものについては次のような点が指摘できる。
1・逆コース的な社会科の主張にいちはやく便乗し、子どもにものしりになることが社会科の学習だと考えさすようなものを作ったり(地理・歴史のダイジェストもの) 2・誤れる現状肯定の社会解説をしたり 3・古い資料を平気でのせたり 4・まちがった統計表をのせたり 5・不正確な地図やグラフを粗製したりしているものがほとんどである。ことにこれに○○大学や国立付属の先生が執筆(?)しているのが大問題である。
 いずれにしても、これだけの努力と資材を本誌にまわして、本誌自体を立派なものにしてほしいという意見は正しい、という結論にならざるをえない。
 
マンガ頁の占める割合
各誌とも五月号(「漫画少年」を除く)
 

誌名 総頁数 マンガ頁 篇数 総頁数とマンガ頁との%
一年ブック 78 38 8 42.3
二年ブック 148 82 17 55.5
三年ブック 182 80 19 44.0
小学一年生 128 23 4 18.0
小学二年生 182 30 6 16.5
小学三年生 252 57 7 22.6
小学四年生 296 51 10 17.2
小学五年生 338 63 8 18.6
小学六年生 346 49 8 14.2
幼年クラブ 202 56 10 27.7
ぼくら 224 49 11 21.9
なかよし 220 46 8 20.9
少年 250 65 26 26.0
少女 248 40 11 16.1
おもしろブック 256 56 12 22.7
冒険王 234 55 9 23.5
野球少年 220 38 9 17.3
漫画王 218 65 15 29.8
少年画報 254 50 9 19.7
痛快ブック 216 49 11 22.7
太陽少年 200 34 6 17.0
少年クラブ 350 71 12 20.3
少女クラブ 278 54 11 19.4
少女の友 272 42 7 15.4
少女サロン 274 32 6 11.7
少女ブック 246 46 11 18.7
女学生の友 306 39 6 12.7
中学生の友 340 43 5 12.6

『パチンコ姫』『少年ザンバ』『トニー谷の拳闘王』ちょっと読みたいです。しかしトニー谷、当時はそんなに人気あったのか。
 このあたりの『鉄腕アトム』というと、「1955/02-1955/09 若返りガスの巻(原題:生きている隕石の巻)」かな?
 アメリカで低俗児童文化を思想的に批判したテキストとして、手塚治虫が挙げているものに、A・E・カーン『死のゲーム』というのがあるんですが…。
 なんと、元テキスト(英語)全文が以下のところで読めます。
Shunpiking History WAR ON THE MIND ALBERT E KAHN, The Game of Death.
 
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