A.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』抜粋(1955.2.15)

 ということで、今日は手塚治虫が言及している(悪書追放運動に関する手塚治虫の1969年における回想(『ぼくはマンガ家』から))、

“悪書追放”は、主に青年向きの三流雑誌が対象だったが、やがて矛先が子供漫画に向けられてきた。それがどうも、さっぱり要領を得ないつるし上げであった。たまたま、アメリカのジャーナリスト、A・E・カーン氏が「死のゲーム」という本を出し、日本にも紹介された。それによると、
「漫画の影響は冷たい戦争の必要によく合致している。なぜならば、何百万というアメリカの子供たちを、暴力・蛮行・突然死という概念に慣らしているからである」
 と言うのだが、それは、たしかに同意できるとしても、PTAや教育者の子供漫画のいびり方は、まるで重箱の隅をせせるようなやり方であった。

 このA.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』の話をします。
 しかし、この本が1955年当時の「悪書追放運動」にどのような影響を与えたかは、皆目わかりません
 なぜなら、A.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』に関する話をしているのは、今まで読んだテキストの中では手塚治虫のテキストだけなんです
 邦訳が刊行されたのは、奥付によると1955年2月15日、多分2月のはじめぐらいなんで、ここまで無視されるのがおかしいぐらいのテキストなんですけどね。
 ちなみに、原文は英語だったら全文読めます
Shunpiking History WAR ON THE MIND ALBERT E KAHN, The Game of Death.
 内容そのものは、副題が示している通り、米ソ冷戦時代の子供に関する興味深いテキストで、別に漫画・悪書のことに限定したものではないんですが、手塚治虫が紹介しているテキストがあるっぽい第5章を紹介しておきます。
 英文テキストはこちら。
Shunpiking History V. NIAGARA OF HORROR ALBERT E KAHN, The Game of Death.
 アメリカのほうでも同時期に同じような悪書追放運動がありましたが、まあそれは「ワーサム(フレデリック・ワーサム)」とかで検索してみてください。
 ということで、
The Game of Death: Effects of the Cold War on Our Children (1953)
A.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』1955.2.15 小宮一郎・訳 理論社 p103-128

第五章 恐怖のナイヤガラ
 
われわれの文化においては、子供を堕落させることが一つの企業になっている。
ガーソン・レグマン「子供に与えるな」より
 
一 殺せ、殺せ、殺せ!
 
 一九五二年、一月二三日のライフ誌は、作家になってまだ五年しかたたないのに、アメリカの他のどの作家より広く読まれていると思われる若いアメリカ作家の驚異的な経歴を特種記事として掲載した。この作家はミッキイ・スピレーンという探偵小説作家である。ライフ誌によると、スピレーンの「性と殺人を扱った六冊の本は一三〇〇万部以上売られている」
 いみじくも「死の金髪の男」と題されたライフ誌の記事はつぎのように述べている。全部で四十八人の人間が、そのうちには「犯罪人」も含まれるが、今日までにスピレーンの小説のおかげで堕落してしまっている。このような急激な堕落に匹敵するものは、数の上から言ってかれの小説の主人公である「残忍な刑事マイク・ハマー」によって堕落させられたか、あるいは自ら堕落した「婦人のリスト」だけである。このスピレーン小説の主人公の功績についてライフ誌はつぎのように説明している。

 荒っぽい治安判事を自任するマイクが一九四七年に『私は陪審員』(注:邦題『裁くのは俺だ」)に初めて登場して以来、彼はニューヨークを洗いきよめようとしている。この小説で、彼は、女友達の精神病医が彼の親友を殺したことを発見する。激怒したマイクは全裸の彼女の腹部にピストルをうちこむ。……次は『俺のピストルは素速いぞ』(注:邦題『俺の拳銃は素早い』)で、マイクは悪漢を燃え上る家の中に追いつめ、焼け死のうとする中で冷静にも悪漢をピストルで殺す。最近の『燃える接吻を』(注:邦題 『燃える接吻』)では、マイクは片眼で他の悪漢のうごきをみながら悪漢の一人をもう一方の眼でうちころす。

『ある淋しい夜』(注:邦題『寂しい夜の出来事』)では、この最新式の探偵はアメリカにおける『赤の脅威』にたいして強烈なる一人十字軍をやっている。過激な市民を追跡する単純な方法を次のようにハマーは提案する。

「やつらには突然の死の味を味わせろ。やつらをとっつかまえて、逃れ道のない道に、案内してやれ。そうすれば腐った精神をもったうじ虫どもも観念するだろう。死というものはおかしなものだ。人は死を恐れる。片端しからやつらを殺せ。われわれがそれほど意気地なしではないことを示してやれ。殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!

 ライフ誌に載ったミッキイ・スピレーンの伝記資料によると、彼は「性とサディズム」の文学形式を発展させるために理想的修行をへて来た。探偵作家になる前のスピレーンは、漫画物語りの作家であったのである。(註)

(註)漫画物語りを卒業して探偵小説にうつっても、スピレーンは彼の読物を青年の中にうしなわぬであろう。スピレーンの小説は大人と同様、数えきれぬほどの十代の熱烈な愛読者を獲得している。アメリカ軍隊内におけるスピレーンの非常な流行について、ライフ誌のしるすところによると、「フランクフルトでは、スピレーンの売れ行きが非常なものなので、軍隊内の好ましからぬ読書傾向が表沙汰にならないようにと、司令官は実際の数字を発表するのを拒否した。」数十万のアメリカ青年は程なくスピレーンの小説の映画化にお目にかかるであろう。現在かれの六つの作品が、ある映画会社によって製作されている。この会社は、約二五万ドルを権利金としてスピレーンに支払うことになっている。

「漫画物語り出版企業は、第二次大戦後、いまではアメリカの雑誌のうちで最大の発行部数を獲得するに至った」と一九五一年のニューヨーク州議会の調査は報告している。
 一九五二年には、一億以上の漫画の本が毎月アメリカで売られた。----一年間ではゆうに十億部以上に達した。
 アメリカの子供の九八パーセントが、漫画本の定期購読者であって、平均一人の子供が一ヵ月に二〇冊から二五冊の漫画を読んでいるといろいろの調査で指摘されている。(註)

(註)最近レディス・ホーム・ジャーナル誌によって全国的に子供の調査をしたところ、州知事の名前を答えたものはわずかに五〇%であった。大統領の名前の答えられたのは九三%であった。ところがディック・トレイシイという漫画の主人公になると、九七%の子供が答えている。
 漫画本の読者はもちろん子供だけとは限らない。およそ五〇〇〇万の大人の読者がいると考えられる。

 クイーンズ・ジェネラル病院の精神衛生科の部長でニューヨーク・クエイカーの応急施設のラファージ病院の院長であるフレデリック・ウェアサム博士の言葉によると、

 漫画本は歴史上最大の出版の成功であり、子供たちにたいして最大の影響をあたえている。

 しかも漫画本の影響は冷い戦争の必要によく合致している。なぜならば、それらは何百万というアメリカの子供たちを、暴力、蛮行、突然の死という概念に慣らしているからである……。
「漫画本(コミック・ブック)」という名称は正しくない。漫画の本の圧倒的大多数は、ユーモラスな性格などはほとんど持っておらず、暴行、殺人、性的倒錯とサディズムと身の毛もよだつ冒険、犯罪、残忍性と血もこおる恐怖にみたされている。けばけばしい色彩で安っぽく描かれ、パルプ紙に雑誌大に安印刷されて、一部一〇セントで売られるこれらの出版物は醜悪と野獣性のとめどない奔流となってアメリカの子供たちの心をのみこんでいる。それらは人間を極悪な堕落者にえがき、筋骨隆々とした「超人」のリンチ行為を美化し、力と暴力の使用をほめそやし、死の苦しみを頓着ない日常茶飯の事としている。(註)

(註)犯罪、暴力漫画の主人公は超人的探偵、超人的警官、超人的カウボーイその他もろもろの超人であるのが普通である。主人公は、自然と人間の法則を無視しながら、一切の法をその手ににぎって、シカゴ・デーリイ・ニューズのスターリング・ノースの表現のごとく「頭巾をかぶった正義」をおこなっている。「暗黒の騎士」「キャプテン・アメリカ」「キャプテン真夜中」「ロケット・マン」「驚異人間」などという名前の主人公は、もっとも力の強い人間がもっとも高貴な人間であるという漫画の中心テーマを象徴している。しかもごていねいなことに、大抵の超人たちは、特別の神秘的な徽章のついたナチスの突撃隊ばりの制服を着用におよんでいる。
「指導者」の原理と力の賛美をこのように強調することの必然的結果は、漫画の中にあらわれた文化と学問にたいする嘲笑となっている。それゆえ、常套的登場人物は世界の破壊をたくらむ気狂い科学者や、髪を長くした気のふれた知識人となってあらわれる。

『子供に与えるな』と題する漫画の本についての辛辣なエッセイで、ガーソン・レグマンは一九四九年に述べている。「かりに一ページに一枚の暴力的さしえがあるとして----普通はこれ以上であるが----絵のわかる年令になった子供が一ヵ月あるいは一〇日に漫画の本を一回読むとしても、最低三百のなぐりあい、ピストルのうちあい、絞め殺し、苦悶と流血の光景を提供している……。このようにくりかえしてゆけば、子供になんでも教えることができる。……と同時に暴力は英雄的行為であり、殺人は熱のこもったスリルであるということを子供に教えるためにも利用されている」
 一九五一年に九二冊の漫画の本を分析したところ、つぎのような内容が報告されている。

大犯罪…216。サディスト的行為…86。小犯罪…309。反社会的行為…287。卑俗行為…186。肉体的障害…522。詳細な殺人の技術…14。

 つぎのようなものは漫画の本では普通にみられるところだ。焼きゴテで胸を焼かれる婦人。野獣の中に放りこまれたり、撃ち殺ろされたり、絞め殺されたり、火傷で死んだりする人々。両手を切断されたり、歯を引き抜かれたり、両眼に針をさされたりする人。
 典型的な物語りがクライム・サスペンス・ストーリー誌の一九五二年の六月〜七月号に掲載された。それは、ある医学校の教授が妻を殺して、証拠湮滅のため死体を切断し、そのあと、学生の解剖用においてある実験室の他の死体の中に一緒につるしてしまう物語りである。教授が妻を絞殺する場面を生ま生ましく描いた絵にはつぎの説明が読まれる。

「どれだけ長くたたかったか知らない。しかし不吉な静けさが私を冷静にさせる。彼女の肉体はぐったりとしている。眼はくびの廻りをしめつける私の指の圧力でとびだしている。台所用ナイフできざんでしまえば、彼女ということを全く湮滅できる。そうして、歯を引き抜き、宝石や着物をはいでしまえば妻だということは全然判らない。」

 つぎにおよそ五百の漫画本の代表的表題を示そう。大体が月刊で、現在アメリカの子供の読んでいるものである。

 恐怖への冒険。有名犯罪。実話犯罪。実話警察事件。ブラック・マジック。気を付けろ--恐怖。犯罪漫画。犯罪診療所。犯罪神秘。犯罪緊張物語。暗黒の神秘。デッド・エンド犯罪物語。妖怪。有名ギャング。ギャング・バスター。銃煙。恐怖の巣窟。恐怖への旅。無法者。殺人鬼ギャング。完全犯罪。迷宮犯罪。感化院の少女たち。地下室からの話。恐怖の墓。スリル犯罪事件。警察漫画。警察の列。驚異物語。神秘の蜘蛛の巣。運命の幻想。運命のスリラー。恐怖の世界。

 漫画のうちもっぱら戦争を扱ったものの数もどんどん増えてきている。例えば----

 原子力時代戦争。戦場の男。原子戦。戦場のわが軍。戦闘行為。スパイ事件。戦場の叫び。スパイ戦。戦場便り。スパイ狩り。戦争物語。これが戦争だ。戦線。アメリカ落下傘部隊。作戦部隊。アメリカ戦車隊。戦う海兵隊。戦争の冒険。戦争物語。戦争漫画。戦争の英雄。GIジョー。戦線の若者。

 大部分を朝鮮戦争に取材した狂暴な血なまぐさい戦争や、破壊的空襲、白兵戦を内容とした戦争漫画には、獣のような形相をした中国兵や北鮮兵の頭を、ライフル銃の台尻で粉砕しているものすごい顔をしたアメリカ兵の絵や、手榴弾で相手をふきとばしたり、機関銃や銃剣や火焔放射気で殺戮している絵がみちみちている。『戦線』の一九五二年八月号にのった典型的な表紙には、アメリカ兵が北鮮兵の腹部に銃剣を突き刺している絵が描かれ、つぎの説明の文句がみられる。「俺か敵かのどちらかがこうなるのだ。俺は前にとびこんだ。冷い鋼鉄の銃剣に敵の胃袋の破裂するのを感じた」この『戦線』の巻頭言にはつぎのようにかかれている。

 真実を知れ! 生きた戦争の現実をみよ。激烈な戦争が迫るごとく一ページ毎にスリルが爆発している……。
 戦闘の歴史! 恐怖と緊張の瞬間にあふれた栄光と血の塊りの物語り……。
 きつね穴の勇気、一発の砲弾毎に死は金切声で叫ぶ。
 真実。行動。歴史。勇気。スリル。緊張。活劇が『戦線』の中で展開される。

 漫画を通じて全国の子供の感じ易い心の中に大規模に詰め込まれているのは、このような堕落した人間と戦争の映像である。
「世界の歴史において、このような文学が、特に子供のための文学が、かつて存在したことはない」とガーソン・レグマンは述べている。(註)

(註)すべての漫画が犯罪、性、腐敗、戦争をあつかっているわけではない。聖書や文学古典に取材したものもある。また動物が主人公の漫画もある。しかしほとんど例外なく動物漫画はサディズムと暴力でみたされている。古典に取材した漫画でも恐ろしい。残酷なエピソードに重点をおいている。
 進歩的性格をもった漫画もいくつかあるが、これらは差別とたたかうことの重要なこととか、そのほか民主的概念を強調している。しかし、こうした漫画の数は、恐怖や犯罪、戦争の漫画にくらべると微々たるものである。
 漫画を建設的教育の目的に使用している例として全米電機ラジオ機械工労働組合で発行している『チャッグ・チャッグ』がある。これは労働組合運動が個々の家庭および社会全般にもたらした利益を絵入りで子供のために解説したものである。ところで一九五三年のはじめにマサチューセッツ州議会でエドモンド・J・ドンラン議員は『チャッグ・チャッグ』を「容共的」だと攻撃し、発行者の組織は、「階級憎悪の宣伝」を拡げているから審査せねばならないと主張した。これは時代の風潮を象徴するにふさわしい。

 ますます多くのアメリカ人が子供たちにたいする漫画本の有害な影響について、大きな関心を示してきている。あるところでは市民が犯罪や戦争、恐怖をえがいた漫画本を新聞販売所が取扱うのに反対して、不買同盟を組織した。いくつかの町では新聞販売所自ら、「犯罪を謳歌する漫画本」を自発的に禁止した。与論の圧力によって、漫画本の検閲を要求する法律がいくつかの州議会に提出された。
 上院特別委員会によって一九五二年の冬にワシントンで開かれた公聴会で、牧師、教育家、児童問題専門家、公職者たちは、「漫画本は子供の心を害し、潜在的麻薬吸飲の手引にもなり、実際に犯罪を青年が犯す場合の青写真にもなる」といって、強く漫画本を非難した。証言者の中には、強盗を働いてガソリンスタンドの給油係りを刺し殺してミシガンで死刑に附されている一七才の息子の母親もいた。漫画本は禁止せよ、と主張しながら、この母親は息子について、つぎのように証言した。

 あの子はいつも良い子でした。人と争ったこともありませんでした。ところがこんなものを読み始めました。……見つけ次第買いこみました。……床に横になって漫画を読んでいるか、天井を見つめるようになりました。……あんまりこれらの漫画の刺戟が強かったので、夢にうなされるようになりました。本に書かれている与太者のようなしゃべり方をするようになりました。おかげで酒も飲み始めました。……こんな本に取りつかれるまでは、本当に良い子供でしたが。……

 しかしある人々は、漫画本は子供に有害であると熱心に反対しないばかりか、漫画本に積極的価値をさえみいだしている。いく人かの児童心理学者や精神衛生学者は----かれらの意見は、かれらが雇われている漫画出版者に積極的影響を与えている----漫画本は、子供らの生れつきの侵略性を開放させる」すぐれた媒介者であり、「幻想の世界に心のうちの敵意を放出する」に役立つと主張している。
 この考え方を反映して、アメリカ児童教育研究協会の幹部で『子供のための本とラジオにかんする教育連合』のメンバーのジョゼット・フランクは『漫画、ラジオ、映画と子供』という小冊子につぎのようにかいている。

 多数の漫画本が犯罪をあつかっていたり、少くとも一、二種類の暴力をあつかっている事実は、子供も含めた多数の人のもっている犯罪又は暴力について読みたいという欲望を反映しているものである。これは新しいことではない。いつの時代でも偉大な文学には、暴力的行為が沢山ふくまれている。このことは、その時代々々において、人々の内心の深い欲望を反映したのである。将来においてもまたそうなるであろう。

 漫画の出版社自身は----この企業は一年に一千万ドルも利益を上げている----当然のことながら、かれらの出版物のもっとも熱心な擁護者である。
 かれらに言わせると、漫画本は国内にあって冷い戦争の道徳を維持する上で大きな愛国的役割を果しているばかりでなく、外国にたいして「アメリカ的生活様式」を知らせる上で生き生きとした役割を果していると言う。その出版社の一つであるレヴレット・グリーンソン社は、一九五一年の秋に、「国務省は特別冒険物語でロシヤの子供を洗脳してやるため、漫画本を大量にロシヤの子供に注ぎこむべきである」と主張した。(註)

(註)しかしながら外国の市民はかれらの子供らがアメリカ漫画の氾らんの中に生活することを決してのぞんではいない。
 二四ヵ国の代表が集ってユネスコ主催のもとにイタリーで開かれた最近の会議では、「流血と性」の漫画のために青少年が犯罪をおかしたり、潜在的犯罪者に変ってきていること、このため「発育成長過程の子供たちに有害な影響をおよぼしがちな」出版物の禁止を各国政府に訴えるため、国際的機関が設置されねばならないと論じられている。スエーデンでは「残虐な内容をもち子供の道徳的発育に危害をおよぼす」子供のための出版物を禁止する法律が作られた。英国では、「有害、残虐的で人類的偏見を助長したり、野蛮な犯罪的残虐行為を賛美する」アメリカ漫画の販売を政府で禁止しなければならないと教師や父兄たちが要求している。
「こうした漫画はヒットラーがドイツの青少年に教えこもうとした主題と全く一致してはいないか。その結果はどうなったか、すでにはっきりしているところではないか」これはカナダのトロントの教育局でのべられた漫画に対する意見である。カナダでは多くの地方で、犯罪、暴力、性をあつかった漫画は法律によって禁止されている。
 レヴレット・グリーゾンがいくら強調したところで、ソ同盟の両親や子供たちがアメリカ漫画を歓迎するとはとても考えられない。この点については、最近ソ同盟を訪れたイギリスの著名な作家のジェイムス・アルドリッジがソ同盟の青少年文学について語った言葉を引用しておこう。「私は特に児童文学に興味をおぼえ、数百冊に眼をとおした。しかしただの一冊でも、暴力に少しでもふれたものはなかった。人間の尊厳、愛国心、教養、他の人間にたいする親切以外のものを強調した本は一冊もなかった」

 有名な精神衛生学者のフレデリックワーサム博士の意見によると、漫画本出版社は「かれらの出版物の人物たち」に似ており「脅迫者のような心をもっている」。漫画の子供に与える影響について、かれ自身の病院における観察にもとづいて数年間詳細な研究をおこなったワーサム博士は次のように報告している。

 ……漫画の影響を研究すると、未成年者の犯罪に関する典拠ある一つの根本原因に到達する。もし漫画の病原体的影響を考慮にいれなければ、現今の未成年者犯罪を理解することはできない。
 ……漫画の本はあわれみや、残酷とか暴力にたいして、あらゆる世代を免疫にしている。(註)

(註)一九四九年のカナダ下院における演説の中で、E・D・フルトンは合衆国刑務局長ジェイムス・ベネットの「ある刑務所に一人の少年がいるが、この少年は漫画本でよんだ通りをまねて児童誘拐を犯した」という言葉を引用し、さらに一九四八年の秋カナダでおこった十二才と十三才の少年の殺人事件の例をあげている。
「この二少年の公判で、少年の心が犯罪漫画の影響に全くおかされていることが判明した。一人の少年は一週間に五〇冊の漫画をよんでおり、他の一人も三〇冊を読んでいたことを申し立ててている。」さらにフルトンのあげた例では「モントリオールで十二才の少年が睡眠中の母親を殴り殺しているが、この子供も漫画でこのようなことを読んだのだと言っている。ロスアンゼルスでは十四才の少年が五十才の老婆を毒殺したが、この子も漫画の暗示をうけており、さらに毒薬の処方まで漫画から学んでいた。また同じくロスアンゼルスで、十三才の少年がガレージの中で首をつって死んでいたが、その足もとには同じ首つりの絵がかかれた漫画が開かれてあった。」
 もちろん、アメリカの青少年犯罪の増加が漫画の影響のみによると言うことはできない。漫画の与えている影響は、テレビやラジオ・映画がおよぼしている同じような影響の一部分である。さらにまたこれらは冷い戦争のもたらした犯罪と腐敗、残虐行為とシニシズムのなかで考えられねばならぬものである。

 さらに博士はつけ加えて、

 半分はナチの突撃隊みたいな、半分は盲目的勇気を持った大砲のえじきになる兵隊の世代を望むならば、漫画は役に立つ。事実、完全でさえある。

 この意見に反応するかのごとくガーソン・レグマンも観察している。

 意図はどうあれ、結果からみれば、二千万の未成年の世代、引金をひかないだけのことで、何千回となく殺人の昂奮と激情を感得している世代を育てあげているのだ。そして本の裏に広告されたおもちゃの鉄砲----かんしゃく玉鉄砲、B-Bライフル、……二丁拳銃、旋回トミー銃、六インチのキャノン、一フィート半の光を放射する殺人光線----が足りないものを補充している。これは精神にたいする一般軍事訓練である。

 
二 流血と砲声
 
 アメリカにおいて漫画本はじつにたくさん発行されているが、子供にあたえる影響の程度において、これに匹敵する、そしてこれよりももっと新しく発達したマス・コミュニケイションの媒体はテレビジョンである。
 一九五二年末までにテレビのある過程は、二千百万戸以上に達した。
「テレビジョンは自動車の出現以来の影響を国民の習慣にあたえている」とニューヨーク・タイムズ紙のラジオ・テレビ担当のジャック・ゴウルドは言っている。かれによると、テレビは「公衆が余暇をついやす仕方、政治を感じたりおこなう仕方、どの位読書するかということ、どれだけ子供のしつけを考えているかということ」にたいしてはかり知れない深刻な影響を与えている。
 アメリカの子供をしつける上でテレビのあたえる影響がどんなものであるかは、ダラス・スミス博士----教育放送全国協会の研究部長----の皮肉な批評からうかがえるであろう----

 ハリウッド映画の典型的テーマは「男と女」Boy meets Girlであるがテレビの典型的テーマは「男と肉体」Boy meets Bodyである----それもむごたらしい死体が普通である。

 一九五一年の一月と、一九五二年の一月の二回、スミス博士は、ニューヨーク市の一週間のテレビ番組の研究を指導した。かれは、市のテレビ放送局一つ一つについて全番組を分類した。とくに子供のために割当てられた番組全部のうちで、八%が「教育放送」の部類に入り、六〇%が「ドラマ」の範疇に入っていた。後者について、スミス博士は、「ドラマ番組のうちで一番多いものは犯罪ドラマであった」と報じている。
 太平洋沿岸地方でおこなわれた同様な調査の結果が、ハリウッドでだされているTVマガジン誌の一九五一年六月号に注目すべき記事として掲載された。その雑誌の編集長フランク・オームの書いたその記事は、ロスアンゼルス市における子供向テレビ番組の一週間の要約がのっている。
 それによると「七つのロスアンゼルス市の放送局によって、千ちかい犯罪ものが、一九五一年五月の第一週に子供向テレビとして放送された。」調査の結果のうち若干を示すと----

 スポンサーや放送局は、この地域のテレビの定期聴視者である一二歳以下の八〇万以上の子供たちの注意をひきつけるために、殺人や傷害、苦悶をうす気味悪く、くわしくみせている。
 これらの子供たちには、アメリカの男性の典型は、人生のすべての問題を固い拳や六連発のピストルで解決する、力の強い、引金気狂いの馬鹿者であるかのように印象づけられている。
 テレビ番組の七〇%は犯罪ものであり、全番組のうちで暴力行為の写った八二%は、子供向番組のなかでおこなわれている。

 子供番組にかんする特徴的エピソードとして、オームの記事にはつぎのようなことがのっている。

 一人の男が金切声を上げて燃えている穴の中に落ちてゆく。
 縛られた男がごく近距離から射ち殺される。
 少女がギャングに射殺される。
 一六才の若者が街の銃撃戦に参加する。かれは一人を射ち殺し、喜びの微笑をもらし、また別の男を射つ。
 ギャングがある男の足を焼いてその男を苦しめる。男は汗を流し金切声で悲鳴を上げる。
 一人の老人がむごたらしく殺され、小さな孫娘が老人にとりすがっている。
 殺人者が嫉妬から少女を殺す。カメラはふるえる彼女の手を大写しにし、それから船室の壁に沿ってゆっくりと崩れてゆくところを大写しにする。

 青少年の教化のためにそのようなテレビ番組を独占しているのがロスアンゼルスやニューヨークだけではないことは、一九五二年のクリスマスの季節に、ジャック・マブレイによっておこなわれた調査に示されている。かれはシカゴ・デーリイ・ニューズ紙のテレビ欄担当記者である。つぎにあるのはマブレイの記事のいくつかの見出しである。

 子供向けテレビ日曜特別番組。殺人事件だ----四日間で七七件の人殺し----毒殺、鉄拳の乱闘、児童誘拐者が未成年者を血の湯槽にひたす。
 テレビが子供にあたえる犯罪の恐ろしい餌----恐るべき統計、四つのテレビ放送局は一年間に二五〇〇種の犯罪を子供にあたえている----親たちは驚く、暴力がすべてを制する。
 テレビの馬鹿さわぎを親たちはどうして防ぐか----人殺ろしや誘拐やピストルの暴力に酔っぱらっているやつにパンチを喰わせろ。
 テレビは一週に九三の人殺しをする----一三四の番組に二九三の犯罪がおりこまれている。

 全国を通じて、このような気味の悪い番組は、子供向けのテレビ放送にだけ限ったことではなく、それが普通になっているのである。毎時毎分また毎日毎日、数百万のアメリカの家庭において、数えきれぬ程の子供たちが催眠術にかかったように、目を丸くしてテレビの画面に見入っている。その画面では、暴力と流血と残虐と犯罪の場面がいつ果てるともなく連続してなまなましく演じられている。巧みなテレビの技術を通じて、殺人と傷害はアメリカの家庭生活の普通の構成要素となってしまったのだ。
「このマス・コミュニケーションの媒体が若い世代にたいして、時間を浪費する強い影響をあたえていることは、いろいろの調査に示されている。これらの調査によると、五才から六才の子供もきまった聴視者であり、一日に、四時間からそれ以上もテレビを見ることがしばしばある。七才から一七才までの生徒の間では、平均日に三時間で、なかには、教室ですごす時間に殆ど匹敵する一週二七時間もテレビをながめているものもある。テレビの犯罪恐怖番組が子供の影響にあたえる影響はますます多くなっており、親たちや教師、医者の大きな心配の源になっている」これは最近のジャーナル・オブ・アメリカン・メディカル・アソシエイション誌の社説の言葉である。
 アメリカで現在テレビをみている二千万以上の子供たちを犯している害がどのくらい大きいかということは、ヴァラエティ誌の一九五一年七月十一日号によって暗示されている。テレビの犯罪もの番組をとりあつかったこの記事は、テレビ番組とナチ支配下の文化のタイプとを比較した有名な教育者たちの意見を引用していた。ドイツ国民が「文学、映画、劇に残虐行為がたえずおりこまれることによって、次第にそれを受け入れるように慣らされていった」ことを想起しながら、その教育者はつぎのように指摘している。「一つ一つのテレビのサスペンス物語りが、ますます血にうえたものになるにつれ、また人殺しがますます多くなり、偏執狂じみたものになって行くにつれ、テレビをみるものはだんだんにこれらの錯乱行為をうけいれるようになる。そうして眼の玉をえぐるような堕落した殺人事件を毎日みている未成年者は、戦争の残虐性にたやすくおどろかされたり、それに抗議するようなことはなくなるであろう」
 だが一方において、ある人々にとっては、このような状態は、全く役に立つものと考えられているのである。ロスアンゼルス・ヘラルド・エクスプレス紙のラジオ・テレビ欄担当のオウエン・カリンの言葉によると----

 犯罪と暴力を伴った殆どすべての番組が「立派な」成功を収めていることは記憶されねばならぬ。生活それ自身はバラの床ではない。若ものたちが成長したときに直面するであろう事物を、早くから知らされることは、ためになることであろう。若いうちに徐々に慣らされていなかったならば、ある犯罪や暴力について知ったときにもっとひどいショックをうけるかもしれない時まで、かれらを保護してやる理由が何処にあるのか。そうして結局のところ、朝鮮にでも送られねばならないとすれば、そのときにはかれらが直面することに少くともある知識をもっているということは、かれらにとって有益無害ではなかろうか。

 将来戦場において「直面する事物についてのある知識」を青年にさずけるように、犯罪と暴力の行為に青年を慣れさせるということになると、ラジオは明らかにテレビよりも不利である。強盗や拷問、暴行、殺人の眼にみえる演技は、単なる言葉や音響効果によってそうした現象を再現しようとするよりも、当然、もっと正確でなまなましい。このハンディキャップを自覚して、ラジオ・ドラマの製作者は熱心にその欠陥を補おうとして、血も凍る叫び声や突然の射ち合い、狂った笑い声、暴発の大音響、拷問に苦しむあえぎ声や、うめき声といったすべてを利用している。いくつかのラジオ放送では、悪魔の笑い声や機関銃の銃撃の音響を始めと終りの商標に採用している。ますます多くのラジオ・ドラマが、精神病院の武装暴動の騒動の録音に似てきている……。
 テレビと同じく、ラジオ番組も歌と物語りとバラエティ・ショーその他、同様な企画を子供のための特別番組にしている。「しかしながら、一番おおくの聴取者が流血と砲声の冒険連続物にひきつけられているということは間違いない」と『アメリカ児童研究協会』のジゼット・フランクは書いている。「こうした連続物は、多くの学童たちに時計がわりになっている番組である」
 現在の流行と歩調を合せて、ラジオ・ドラマは、どたばた犯罪ものや人殺しものに集中するばかりでなく、FBIや軍事情報官や政府のスパイの向うみずな冒険にも熱心である。「逆スパイ」「危険な仕事」「戦争と平和におけるFBI」「アメリカの手先」といった番組で放送はいっぱいになっている。これらの放送では、主人公たちは、アメリカにいる「共産主義者の第五列」を熱狂的に追跡したり、絶滅しようとしたり、「鉄のカーテンの向うの」不敵なスパイ活動やサボタージュを指揮したりする。探偵物語の尊敬すべき主人公のモトー氏はいま「中国の赤い海軍」のおこなっている阿片密輸とたたかうという国際的冒険に取り組んでいる。またジャック・アームストロング----昔、アメリカ中の少年のあこがれの的であった----はSBIすなわち検察科学局の一員となっている。
 ラジオ・テレビ会社の熟慮された判断では、かれらは犯罪や暴力をあつかった番組を提供することで重大な社会的義務を果しているのである。最近だされたラジオ・テレビ放送全国協会の規定では、その「児童に対する責任」の条項においてつぎのごとくのべられている。

 子供の教育には、かれらに広い世界について教えることが含まれる。犯罪と暴力と性とは、彼らが出会う世界の一部分である。ゆえに、こうしたものを正しく一定量あたえることは、子供を社会環境に慣らす上で有益である。

 犯罪と暴力とがアメリカの子供の社会環境の不可欠な一部分として、このように考えられねばならぬということは、冷い戦争によって生みだされた環境に対する適切な評言である。
 
三 ハリウッドの伝説
 
 アメリカの子供の大衆娯楽には、ラジオとテレビのほかに映画がある。しかしラジオやテレビとちがって、映画産業は特に子供のためのものを作ってはいない。およそ二千万の子供たちが毎週映画を見にゆくにもかかわらず、商業映画には、どれ一つとして特に子供のために企画されたものはない。子供たちだけのために作られた映画はきまって観客を制限するし、したがって勿論のこと、利潤を制限するだろうというのが映画会社の意見である。(註)

(註)映画に比較してラジオ、テレビ会社が児童用のものを多く作っているという事実は、決してラジオ、テレビ会社が児童の幸福により関心をもっているということではない。この事実は子供向けプログラムのスポンサーが大抵の場合に、オートミールなどの製造業者で、これらの商品を子供のために送り込もうと宣伝している結果あらわれたものである。映画会社はこのように販売する商品がないから、特に子供のための映画をつくることをしないのである。

 にもかかわらず、今日上映される映画の内容は、本質的にいってラジオやテレビのそれと同じである。常に規模を大にしながら、けた外れの技術と設備をもったハリウッド映画は暗黒街のメロドラマや、殺人物語や人殺しで充満した西部劇を大量生産している。警官とたたかうギャングや犯罪者、インディアンを虐殺するカウボーイ、敵兵を殺戮するアメリカGI、「モスクワからのスパイ」を射殺するFBI、次々と犠牲者を殺してゆく殺人狂、妻を殺す夫、夫を殺す妻、こうした場面が果てしなく走馬燈のごとくに、全国の映画をみる青少年の凝視の前にくりひろげられている。ほとんど例外なく、これら血だらけの映画の主人公は、誰よりも獰猛であり、誰よりもピストルを素早く的確にうつことができ、拳闘やレスリングや格闘や柔道に熟達している。彼らが他の登場人物よりもすぐれているのはその点だけである。(註)劇のクライマックスはきまって、強力なアーリア族の主人公が、悪漢を殺す場面かぺしゃんこに殴りたおす場面で、悪漢はたいてい外国人か共産主義者か、東洋人か、さもなければ植民地の土着民ということになっている。

(註)主人公の特徴的性格はきまって、性的魅力の持主で、しかも単純な精神の持主だということだ。

 中心人物が一流のギャングか、ごろつき、殺人の熟練者である映画がすくなくない。この特殊のタイプの映画をよく説明している映画に『白熱』がある。この映画はヂェイムス・キャグニイが主演である。ライフ誌にのった「キャグニイ再び殺す」というこの映画の解説では、「暴力と狂気のまざりあった野性的昂奮と……キャグニイは野獣のような殺人者を演じる、……両手、両足で社会になぐり込みをかけ、口を開けば獰猛にいがみつく」と評した。(註)

(註)トーキー漫画の動物までが昨今では残虐性を帯びてきている。映画監督のジョン・ハウスマンは「私の記憶するところでは、かつてはディズニイもその他の漫画製作者も、蜜蜂や小鳥やその他の小動物の可愛いい習性に関心をよせ、『生の歓び』というのが中心になっていた。……しかし今は全く変ってしまって、ファンタジイは残虐に赤を追いかける。漫画映画は一種の流血の戦場と化して、野蛮冷酷な人間が互に追跡しあい、強奪やペテンをおこない、サディスティックにきづつけあうのである。」

 映画会社がその製作物の身の毛もよだつようなサディスト的側面を認めるようになっても、映画会社の偽善的良心は責められはしない。毎日次のような映画広告が全国の新聞の「娯楽欄」をうめつくしている。

『ねらいうつ男』----ゆっくりと、彼は彼女に照準を合せた。
『悪魔が二人を』----犯罪と情熱と陰謀のMGM作品。ドイツに戻ったアメリカ兵と暗黒街の少女。
『悪名の牧場』----彼女はお客の罪をかくすため牧場へと逃れる。----客ののどのかわきをいやしてやる----女を裏切る----男の背中にナイフが----賭金のために。
『キャプテン・ブラック・ジャック』----モロッコシンガポールマジョルカ、何処でも男は裏切り者だ、女達は人殺しへ誘惑する。
原子力の町』----パラマウント社年一度の超大作。爆発的昂奮。「よそものにはしゃべるな」の掟につながれた人々。ここでは子供たちは「もし大人になれたら」とはいうが、「大人になったら」とはいわないのだ。

 つぎに示すものはキュー誌に載った映画の短評であるが、同様な映画は、一九五〇-一九五二年の間に子供たちの----勿論大人もみるが----教育・娯楽用としてアメリカで無数に上映された。

アスファルト・ジャングル』----テンポの早い息づまるようなメロドラマ。殺人と脅迫とロマンス。
『国境の事件』----残忍なメロドラマ、アメリカ=メキシコ国境監視員は、リオグランデ沿いに不法入国者や殺人犯たちを捕える。

 このような種類の映画の大量生産について、ナチス出現以前からナチス支配下にかけてのドイツ映画を研究した『カリガリ博士からヒットラーまで』の著者であるジーグフリード・クラカウエルはつぎのように観察している。

 恐怖やサディズムにあふれた映画がこのように大量にハリウッドで作られるのが当り前になってしまった。ナチス支配の下でそうであったような、不気味な、仮面をかぶったような生活の不安定さが現在ではアメリカに生じている。不吉な陰謀が隣の室でもくろまれている。どんな信用のおける隣人も悪魔に変ってしまうかもしれない。このヒットラー治下に似た生活の恐しさは決して偶然ではない。サディズムファシズムがその種類からいってもまた必然性からいっても類似している点を抜きにしても、現在われわれの社会に広汎にみられるサディスト的エネルギーは、ファシズムに特に好都合な燃料を供給することとなるであろう。危険が存在するのはこうしたエネルギー、このようなファシズムを助ける気分的準備である。

 フィルム・センス誌一九五二年の七、八月号にでた次の主張は、ハリウッド映画が冷い戦争の中で欠くことのできない役割を果していることを物語っている。

 暴力とサディズムの映画は、国防省国務省、それに巨額の「防衛」予算から利益を引きだしている資本家たちの必要に合致している。フィルムの上でのミッキー・スピレーン的精神状態は、アメリカ国民を心理的に「機動作戦」あるいはナパーム弾に、そして原爆戦争の「非人間性」に慣らせるに役立つ。サディズムや殺戮場面を絶えずみせつけられた数百万の映画観客は、実際の生活においても残虐行為や流血に対して無感覚になり宿命的にならざるを得ない。

 ますます多くのアメリカ映画が直接戦争をテーマにしたものをあつかっている。一九五〇年以来ハリウッドは、四十以上の戦争映画を、製作している。さらに現在三〇余りの同様な映画を準備している。殆ど例外なしに、これらの映画は国防省の指導と援助のもとに作られている。一九五二年十月二九日のヴァライェティ誌によると「戦争映画を重要な宣伝手段と考えている国防省の意向をくんで、政府による全面的協力が申し出されている。この援助には人力はもちろん、ロケ用地まで提供されている」
 過去においてもハリウッドは戦争映画を作った。しかし冷い戦争の時代の戦争映画は、非常に特殊な性質のものである。反戦映画は全く存在しない。反対に現代の戦争映画は、積極的に戦争を賛美している。この点にたって考えると、ごく僅かの映画が朝鮮戦争をあつかっているのに反し、圧倒的大多数の映画が第二次大戦をあつかっていることには深い訳がある。この事実について、アカデミー賞シナリオ作家のマイケル・ウィルソンはハリウッド・レヴュー誌の一九五三年一月号で、つぎのように述べている。

 朝鮮戦争の映画の製作を困難にしているのは、宣伝の性質の問題である。軍事的に考えると、映画製作者の戦術的使命は、人気のない戦争を、アメリカ国民の口に合うものにすることである。戦略的使命は、朝鮮における戦火がたまたま止んでも、消えることのない軍隊精神を教えこむことである。

 朝鮮戦争に関した「戦争賛美」の映画を作ることは、「朝鮮におけるアメリカ軍についてのみじめな混乱とシニシズムの周知の事実」のため非常に困難になっているのだとウィルソンは言っている。

 こういう訳で製作者の多くは主題を第二次大戦に求めている。巧みに修正されたノルマンディや沖縄作戦の映画が、中年の観客の愛国的記憶をかきたて、あるいは、ドイツおよび日本のファシストに対する正義の戦いに参加しなかった若い世代に輝けるあこがれをいだかせることがかりにできたとしても、この物語りからは反ファシスト的内容は抜き去られているであろう。
 ……映画そのものは社会的目的もなしに朝鮮戦争に必要な概念----盲目的服従、人殺しの本能、犠牲的な死などといった概念を美化することに夢中になっているのである。
 現代では戦争は当り前のこととして受け入れられるように、さかんに宣伝されている。もしアメリカ国民が映画でみている大量的死に慣らされてしまうと、彼らはそれが人生では不可避的なことのように容易にうけいれてしまうであろう。

 しかしながら、現におこなわれている宣伝の影響するところはこれに止まらない。
 アメリカの青少年たちが毎日毎晩、映画、テレビ、ラジオ、漫画本を通じて浸されている、ナイヤガラの瀑布のような恐怖と死の氾濫は、かれらに残虐行為や暴力や殺人についてそれが日常茶飯事のように思いこませるに役立つばかりでなく、実際にそのような行為を犯させるようにしているのである。

「シカゴ・デーリイ・ニューズのスターリング・ノース」というのは多分、1940年5月8日の「A National Disgrace (And a challenge to American Parents)」のことですかね。アメリカの悪書追放運動に関しては、以下の本に目を通しておくといいです。

有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り

有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り

 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク