図書新聞1954年8月14日『子どもの講談 少年ケニヤを語る』(山川惣治)
今回は漫画ではなく絵物語の作者・山川惣治の話をします。
どういう作家なのか、今はあまり語られることはない人になってしまいましたが、戦後の児童文化、だけじゃなくて娯楽文化を語る際には欠かせない人であります。まあ俺も実物、あまり読んだことないんですけど。
図書新聞という、日本読書新聞と同じ系統の、本の紹介をする新聞形式の書評紙に掲載されたものです。対談です。
子どもの講談 少年ケニヤを語る
産業経済新聞に連載中の山川惣治作・画の『少年ケニヤ』は、単行本としても、すでに七巻を重ね、子どもの間に異常な反響をよんでいるが、本紙では、今回、この作品が、どうしてこういう評判を得ているのか、また、一口に子どもの講談といわれるこの種の冒険活劇ものは、どういう点で批判されねばならないかを、児童文学研究者の滑川道夫氏と同書の作者山川惣治氏の対談という形で提供することにした。
出席者
成蹊学園小学部理事 滑川道夫氏
絵物語作家 山川惣治氏
巻を追って発展
模倣者ますます刺激的
滑川 山川さんの『少年ケニヤ』を読んで感心したのはね、いわゆる黒人というものの人間性を非常に尊重していらっしゃる。つまり今まで多く行われ、又現に行われている、活劇や冒険・探偵ものでは大抵黒人の犠牲において白人が勝利を得る----そういうものが多いんだけれども、あなたの本は土人を無暗に殺していないし、人間性尊重というようなものが感じられます。
山川 わたくしなりに、これはいいとか、いかんとかいう定義を自分で持っていますし、それに向かって一生懸命精進するわけです。しかし、一つの例として、ぼくの絵話が一番本当に受けたのは、例の『少年王者』ですが、あれが受けたとなると、たちまちに新聞雑誌にみな絵話が登場する。わたくし自身がそう沢山書けないので、じゃあというので、いきなり新人を引張って来るんですね。そうするといきおい競争になって、ものがいいとか悪いとかいうのではなく受けさせるためにはもっと凄くしたらいいんじゃないかということで、そのために無理ができる。そしてそれは決していい方向に向かない。
滑川 たしかにそういう傾向がありますね。つまり、あなたの作品というものは、非常に発展してきていると思うんですよ。『少年王者』『少年ケニヤ』と。しかも『少年ケニヤ』というのは、巻を追ってわたくし共の考えている正義の観念が現われてきている。ところがあなたを模ほうする作家が非常に刺激的になっているんですよ。
山川 そういう場合に、やっぱり実際書評をお書きになる方はいやになると思いますでしょうね。しかし、滑川先生やなんかが新聞やいろいろな機関を通じて、そういう批評を発表してくれますとね、反省することはずいぶんあります。いろいろ理屈はありますがね。
滑川 大いに出してもらいたいですね。
山川 よくいってるんですがね、しかしわたくしなどは両方の面があるんですね。大体ぼくは感謝してそうだと思うんですよ。現によまれている少年雑誌ですね、そういうものを特に対象にして繰返し繰返したたいてもなんでもいいから問題にしてもらうことですね。それがやはりなんといっても日本の児童ものが少しでも向上する道だと思いますね。
滑川 とにかく、あんまりひどいものが多過ぎるので、子供たちの代弁をしなければならんのじゃないかという気にもなっているわけなんですがね。
山川 そうなんでしょうね。ぼくらにいわせれば、やはり一番の問題は雑誌社の編集者の見識の問題だと思うんですよ。
滑川 一つにはね。
山川 ところが、見識とはいいながら、編集者が一つの見識をもっていても、結局売れなければ困るので、売るためにやる。あるいは、やらせられる。そうなると資本家の問題ということになりますかな。
滑川 そうそう、子供の興味の低い方へもって行く。そういう傾向はたしかに編集者に反省してもらわなければならないな。それでいて、あなたの書いているこの『銀星』の本なんか、一発もピストルなんか撃っていない。そういうものが十分子どもの興味をひいているという事実があるんですからね。
山川 これが少年雑誌に西部物がでたはじめてのものでしてね。“これで受けているのか、おれならピストルをバンバン撃てばもっと受ける”----まあそういうことになるんじゃないかと思いますね。
編集部 『少年王者』や『少年ケニヤ』がこんなに受けている理由をどうみられますか。滑川先生。
滑川 子どものこれを読む年令層というのは、中学生以上ですよ。四年生以上になるとやっぱり英雄を信仰するといいますか、英雄的な行動に憧れる時期ですね。そういう時にはこの主人公のワタルとか、女の子、土人のゼガのああいう行動に対して非常に憧れを持ちますからね。そういう衝動がこれで満足されるのではないでしょうかね。そういう心理が一つあると思いますね。
それから、いろんな前世紀的な怪獣が大いに出てくるでしょう。相当調べて書かれていると思いますがね、そういう、やはり一つの活劇ですよ。そういう興味でしょうね、主に子どもが惹かれているのは。
『少年ケニヤ』の持つストーリーの面白さ、これは山川さんのオリジナルでしょうね。つまり名作物語とか、なにかを翻訳したんじゃなくて、やっぱり創造的なものですね。
忙しい山川工場
監督のミスで右心臓
滑川 絵については、ぼくは不満があるんだ、小さい絵の方がちょっと粗末な感じがするんですよ。これは大量に印刷するから、印刷の効果という問題もあるんですが、黒人なんかの絵が特に醜悪な感じがする場面があるということなんですよ。やっぱり絵物語というのは、絵と文章と両方が合唱するような効果を狙わなければならんでしょう。
山川 それはまあそういうふうにやりますよ。一歩一歩築いてゆくんですね。
滑川 やっぱりそうですね。
山川 なにしろいそがしくって…。いまやっている仕事は十月号から始まる『明星』のもの、それから産経に毎日連さいの『少年ケニヤ』をいれると、結局七本です。全部話が違うんですから…。
滑川 そこで山川工場といわれる所以が出てくるんですね。
山川 そうなんです。しまいにはこんなに頼まれて、聞かなければならないが、どうしたら書くことができるか。それでぼくは、自分がそれをやるために、非常に画きなぐるよりは、ある程度のことは我慢しても外の人が誠実に画いてくれた方がいい。それでまあぼくは助手を使うことにしたんですがね。ぼく自身は一つ一つ参考書を調べて材料があるわけです。どんな小さな場面でも、その材料を集めて構想を練り、その構想図を鉛筆で画く、主要人物の顔とか体の動きというものは自分で画くんですが、あとは材料があるから、その材料によってこういうふうに仕上げてくれといって渡す。なおそれをぼくが丁寧に画くと、今画いている分の三分の一も書けないでしょうね。ぼくが画くとすると非常に雑な画になるわけです。ところがこの人達が画くと非常に丁寧にやってくれるが、自分の味という点がすっかり犠牲になるわけで、誠に作家としては申訳ない。しかしぼくとしては、今の急場を間に合わせるのにこれより他になかった。けれども不満はあるわけです。ぼく自身が全部かけば、ここはさっと抜いてかかない、ここはうんと、ちみつにかく、というところが、ぎゃくになったりすることもあるわけで、それは実に申訳ないことです。
ただぼくとしては、バックをいい加減にシャッシャッと画くよりは、その人が非常に誠実に画いてくれれば、その方がいいと思ったんです。これは画家としては非常に辛いことです。なんといわれても仕方がないという一つの度胸ですね。(笑声)
滑川 いや、そこまで本音を吐かれたら、もうなにもいえなくなりますけれどもね、しかしそれをね、もちろんあなたが指導監督されていらっしゃるんでしょうが、例えば三巻かに、悪い黒人の心臓に槍が刺さる場面がある。ところが槍が右の肺の方に突き刺さっている。つまり、心臓は右の方にあることになる。文章を見ると心臓ということになっているんですね。ああいうのは、やっぱり神経をおつかいになった方がいい。それを画く人にもよるんですがね。
山川 それはわたしの方の全然間違いですね。それはぼくの監督のミスで申訳ないです。
滑川 それから山川さん、あなたの文章は非常に洗練されて来ていると思うんですが、あなたを真似する人達の文章というのは、ちょっとえげつないですね。昔の立川文庫調になったりね。やっぱり文章なんで、画の説明じゃないんでしょうからね。文章として独立したもので、絵でものをいい、文章でものをいって、両方でまたもう一つものをいうような構成が必要だと思うんですがね。そういう場合にね、あなたの『ケニヤ』の何巻かにあったと思いますが、「まさに風前の燈」というようないい方ですね、ああいうのや止めてもらいたいと思いますね、わたしは。
山川 なる程ね。研究します。
滑川 それからもう一つ、あなたのものばかりじゃなしに、こういうものは全部総ルビでしょう。ところが、木とか、山とか、石とか、子供の「子」とか、人とか、そういうものはいくらなんでもルビはすべきじゃないと思うんです。これは印刷上の技術もあるんでしょうけどね。
そういう子供を甘やかすような抵抗なしに文章が読めるというのはいけないと思うんですよ。これはまあ出版の方の問題ですが、出版社側に対して啓蒙して欲しいと思いますね。
強い知識人の不信
漫画はオヤツとして…
滑川 最近の山川さんのものは、一般に薦めてもいいと思うんですが、一般的にいえば、まだまだこういうものに対する知識人の不信というものは、相当に根強いと思いますよ。
山川 そうですよ。こういうものばかり読んで困りますというんですね。
滑川 だから漫画のおやつ論というのを唱えて相当反響を呼びましたが、やはりおやつ程度ですね。その外にやっぱり偉人とか天才の伝記とか、自然科学的のものとか、人文科学的なものも読んでもらいたいし、いろいろ子どもには読んでもらいたいですよ。特に基礎教育の時代ですからね。そういうもののバランスの問題なんです。いろいろ読んでおれば、非科学的なことは子どもにはすぐ分るんですからね。
編集部 その科学性という点からみたら、この本はどうですか。
滑川 それは科学的じゃないと思いますね。たとえば光が出て来て、豹かなんかが忽ち骨になってしまうところがあるんですよ。ぼくはそういうことはないと思うんです。ただ、非合理的な点があっても、これは読みものとして、こういう話だと思って受取ったらいいんじゃないですか。
山川 前世紀の怪物が今ごろ出て来ることがないんでね。こういうのが、昔いたことがあったんだという、それだけのことですね。このことをもって科学的だといわないですよ。非常に非科学的なものです。これはぼく自身が認めることです。しかし、その時少くともブロントザウルス、ティラノザウルスとか、そういうことを子どもが結構覚えて喜ぶんです。もともとああいうのは小さい子どもにはなかなか覚えられないですが、ああいうのを読んでいて、覚えたことが大人になってひょっと出て来るんですね。それだけでも何か役に立つんじゃないかと思いますね。
滑川 そうそう、そういうものが出ていいと思うんです。ところで、これは本当に山川さんにお願いしたいんですがね……まず、ワニが出て来て、それを逃れて底なしの沼に行くと、河馬が出て来るとか、へびが出て来るとか、次々に出て来るのですが、そういう中でも、文章で淡々となにか子どもに考えさせるような場面ね、そういうものが欲しいと思います。そういうものの連続じゃなしに、二か所でも三か所でも、たとえ一か所でもいいんですがね、それがやっぱり文章の力だと思うんです。絵も、同じような大きさの絵が並んで、同じようなスペースの文章があるんじゃなくて、ある時は絵がなくて一頁全部文章であるような、それでも子どもに興味を感じさせ、ひきつけるようなね。
避けたい“悪事の手段”
出来ぬのは作家の敗北
山川 ぼくが、これからやることは、仕事は一生懸命にやるけれども、少しの時間でも割いてものを学ぶことです。それだけです。一作ごとに、出す一方です。だからのべつ補給しなければならない。しかしただ補給することじゃなくて、本当に基本的ななにかを補給しなければならぬ。だからぼくは非常に貪欲になろうと思う。その意味でぼくはなんでもあらゆるものを直ぐ摂取して使う。余りいい例じゃありませんが、ストリップがはやると、やっぱり一ぺん行って、見ておく。それも子どものすんでいる社会の一部ですから。どんな悪でも一応見ておく。
滑川 その山川さんのいう悪事を書いてもね、例えば物を盗むとか人を殺すとかということを、その殺す手段を喜々として説明することはいけないと思いますよ。そういうことは非常に子どもに行動的に影響を与えると思いますね。例えば人の家に泥棒に入るといってもその侵入する手段を詳しく書く、そういうのはいけないんじゃないかと思うんですがね。それは避けることですね。避けて興味がつかないというのは、それは作家として敗北だと思うんです。やっぱりそういう場面を使わないとしても効果はあがるはずです。
編集部 広い読者をつかんでしまったということは、大変な強味ですね。
滑川 そうですよ。
山川 ぼくはそういうファンをつかんだということに、非常に責任を感じていますよ。本当にこれから勉強しますよ。ぼくはいつもそう思っています。
「そう」とか「そのような」とか、漠然とした代名詞っぽいものが多くて、ちょっとまとまり悪いですが、もう少し編集すると話の内容は面白いので、何とかなったんじゃないかなと思いました。
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