米軍機墜落事故で亡くなられたかたのドキュメントを泣きながら読む

以下のテキストから。
↓米軍機墜落事故の損害賠償は?(JANJAN
http://www.janjan.jp/area/0410/0409309364/1.php

【横浜の米軍ジェット機墜落事故】
 1977年(昭和52年)9月27日、相模湾沖を航行中の空母「ミッドウェー」に向かい米海軍厚木基地を離陸した米海兵隊所属RF-4Bファントムジェット偵察機が、エンジン火災を起こし、神奈川県横浜市緑区(現・青葉区荏田町の住宅街に墜落し、2人の幼児を含む9人の重軽傷者の被災者が出ました。

 自衛隊の救難ヘリコプターは、大火傷を負って救助を求めている被災者を助けることなく、墜落前にパラシュートで脱出し、ほとんど無傷で降下していた2人の米軍パイロットを乗せて厚木基地に帰還、ふたたび飛んでくることは無かった。
政府は、「その救難の活動の事態といたしましては、十分ではないにしろ一応の任務を果した 」と答弁。(1978年<昭和53>4月14日 、 参ー決算委員会、安武洋子委員への答弁)

 その夜、「おばあちゃん、パパ、ママ、バイバイ……」の声を残して裕一郎君が 、「ポッポッポ」と鳩ポッポの歌をかすかに歌いながら、翌日未明に、弟の康弘君 が幼い生命を閉じ、その後、二人のお母さんの和枝さんの度重なる治療についての訴えや抗議の電話に、国はまともに受けないばかりか、和枝さんを精神病者扱いにし、精神病患者だけを収容する国立武蔵療養所に強要転院した。その後まもなくの1982年(昭和57年)1月26日に窒息死した。

これを反・リベラル的に批判するのなら「旧ソ連やその他の共産圏諸国、自由な言論の存在しない国なんかじゃ、ジェット機が落ちたことすら報道されないよな。日本はいい国だよなぁアヒャヒャ」みたいな言いかたも、ひょっとしたら可能かもしれません。しかしこれに関する関係者の記録を読んだ俺にとって、そのような姿勢ははこの米軍機事故を「米軍基地がなかったら、土志田(林)和枝さんとその子供たちは死ななかっただろう。アメリカと安保許すまじ」みたいに反米プロパガンダ的に扱うことと同じぐらいにばかげたことに思えました。これは、理不尽な事故(事件)によって、普通の家族が違う家族になり、崩壊するという、何というか「文学」的以外には扱うことが難しい物語なのです。
参考にしたテキストは、文芸春秋1982年4月号、「米軍機墜落事故で死んだ妻と共に闘った四年間」(林一久)という、和枝さんの元・夫による手記(なんで離婚したかについては、後述します)、もうひとつは『あふれる愛に』(土志田和枝・新声社)という、和枝さんの死後にその日記その他をまとめた遺稿集です。
引用したJANJANの記事は、事実の省略や記者の主観が入りすぎているので(捏造・歪曲という程ではありません)、書かれていないことを中心に、元テキストから事実別の物語を記述します。
まず、事故が起きたのは1977年9月27日の午後1時すぎ。2人の子供はその日の深夜から翌朝にかけてなくなります。
和枝さんはその後、その事実を知らされないまま治療とリハビリにはげみます。事実が告げられるのは昭和54年(1979年)の1月末、つまり事故が起きてから1年4か月後のことです。この、事実を知る前後と、それをどうやって隠していたか、に関するエピソード部分が一番泣かせます。
で、1978年5月から、和枝さんは呼吸困難のために声が出せず、「カニューレ」というものをつけていたのですが、
カニューレgoogleで検索)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&q=%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AC
1981年9月にノドを縫合して、自分で思う通りに声が出せるようになります。
そこから和枝さんとその周りの人間が大変になります
1981年の10月、今まで車椅子を使って移動していた和枝さんは、それからほぼひと月のトレーニングで「整形外科のK先生」の協力もあって、杖だけで歩けるようになります。しかしそのトレーニングによるストレスと、今まで声が出せない分溜まっていたストレスが爆発します。爆発の対象は、墜落事故の責任窓口として機能していた「防衛施設庁」の施設局職員に向けられます。
防衛施設庁
http://www.dfaa.go.jp/
以下、『あふれる愛に』から引用。P252-253。

 K先生が家族に「初めは荒れるかも知れませんよ」と言った言葉通り、他人から見れば、「異常な」と思われる行動となって現れてきた。それは、施設局にはどんなに怒りをぶつけてもよい、とK先生に言われていたから、和枝さんの不満は、まず施設局にむけられていった。
「どうして家政婦さんをつけないの、先生がだめだって言っても私が必要なの」
「私のところに来たら、家政婦さんの代わりをしなさい」
 と用をどんどん言いつける。どんなに言っても足りないような気がする。
「私がこんなに苦しんでいるんだから、夜通し私と同じように苦しんでよ」
 局の職員が帰る時間になっても帰さない。
 十月の中頃には、施設局の人とロビーで話していた和枝さんは、突然大きな声で
「私は、米軍機墜落の被害を受けた林和枝です。私の隣にいる人は、私の子供を殺した悪い人です
 前にいた若い男性三人はびっくりし、施設局職員はあわててその場から逃れた。
 夜、和枝さんの部屋を訪れた勇さん(引用者注:和枝さんの父親)に、「私、若い男の人三人の前で言ってやったわよ」と、昼の小事件を楽しそうに話していた。

(太字は引用者=俺)
ここらへん以降の展開を見ると、和枝さんのストレスのすさまじさもさることながら、なんか「K先生」のアドバイスとか心理療法面での治癒方法が間違っているような気がしてきます。
引用を続けます。P253。

 それ以来、施設局の職員の足が遠のき、なかなか病院に来てくれない。せっかく声が出るようになったのに、話相手もいない。和枝さんの不満はつのる一方だった。十円玉をたくさん用意し、毎日、何回も何十回も施設局に「今日は来なさい」「長官を見舞いによこしなさい」と電話をかけた。
 十一月五日、土志田勇さん(引用者注:和枝さんの父親)と病院の要請もあって、防衛施設庁長官が見舞いにやってきた。長官がドアを開けて部屋に入ると、いきなりけわしい表情をした和枝さんは、
「私が来てほしい、と言ったときにこないで、そちらの都合でこられてもうれしくない」
 はげしい口調で言い放った。

かなり迷惑な人になっています。せめて子供が亡くなっていなければ、もう少し行動に自制ができたような気もするんですが…。
引用を続けます。P254。

 K先生のリハビリの特長は、心理療法をとり入れ、そこに相当の比重をかけたことである。和枝さんが一日でも早く、少なくとも一カ月以内に歩けるように、心理学の専門家の力を借りた。
 リハビリに当たって、まず基本方針とそれぞれの役割が決められた。
 和枝さんは、施設局にはいくらあたってもいい。ただし、K先生の言うことは必ず聞くこと。次にお父さんの勇さんはやさしく、夫の一久さんはきびしく和枝さんに接する、という家族の協力態勢がしかれた。和枝さんの知らないところで、一つの舞台ができあがっていった。

ところが、ああ何ということでしょう(江戸川乱歩調)、リハビリが進むにつれてK先生と和枝さんが「疑似恋愛関係」になると同時に、治療がうまく進んでいることを信じてあまり病院には顔を出さなくなる夫の一久さんとの関係がこじれてきてしまいます(毎日は顔を出さなくなる、という意味で、全然顔を出さないわけじゃないんですよ)。
で、あれこれあって、和枝さんはその年の11月20日に、夫・一久さんと離婚してしまいます。
はっきり言って、心理療法失敗してます
話は前後しますが、和枝さんが退院したのは11月9日。そのあたりをまた引用してみます。P269-270。

 K先生のリハビリが終わって実家に退院してきた和枝さんは、夜になると毎晩呼吸が苦しくなってくる。深夜の一時、二時にはもう家族では手に負えない程の苦しみで、父親の勇さんが車で病院につれて行き、加湿器で吸入してもらう。
 退院した十一月九日から、勇さんの深夜の病院通いが始まった。それは毎晩だった。呼吸が苦しくなってせき込み、どんなに楽にさせようとしても、かえって苦しくなってしまう。せき込む和枝さんを、必死に背負って車に乗せ、病院までつれて行く。
 病院の急患室からも、あまり毎晩のことなので「和枝さんに連日こられると困ります」と苦情を言われるようになった。
 十一月二十五日、病院から呼び出しを受けた勇さんは、一階相談室でK先生から、
「和枝さんは、精神科で一度みていただくことをおすすめします」
 信じられないような忠告を受けた。
 その時初めて、心理療法のリハビリで精神的にゆきすぎたという、K先生の言葉を聞いた。

まぁ今の時代なら、精神が病んでいるようなら精神科に行って、治療薬をもらう、なんてのは特にどうってことないんですが、この時代はかなり深刻な宣告だったのかもしれません。
さらに、11月28日には和枝さんは高熱を出して昭和大藤が丘病院に再入院するんですが、そこで病院から転院の話が持ち出されます。
はっきり言って昭和大藤が丘病院、和枝さんを持て余している様子
そこで父の勇さんは、聖マリアンナ医大病院の岩井助教授という精神科の医師を知り合いから紹介してもらいます。P272-273。

 十二月一日、聖マリアンナに施設局職員二人と出かけた勇さんは、岩井助教授と会って、和枝さんの様子をことこまかに説明した。岩井助教授の診断によると、和枝さんは心因性神経症だという。心因性神経症は、精神病とは根本的に違っていて、大きな打撃を心に受けると神経に異常をきたすという病気である。この治療のためには、精神科の病棟には入院させないで、外来で通院するのが一番適切と話してくれた。
「病院は、最初から和枝さんを治療し現在も入院している昭和大に、幸い精神科もあることだし、そちらに通わせるのが一番でしょう」
 岩井助教授のアドバイスであった。

岩井助教授はいい人です(多分)。引用を続けます。P273。

 その夜、藤が丘病院に聖マリアンナの岩井助教授から受けたアドバイスを報告した勇さんに、
とにかく私共の病院からは出ていってもらいたいんですよ。昭和大の精神科は烏山にありますが、今はいっぱいです。それにうちの病院はきたないですし」
 という強硬な事務長の態度であった。

藤が丘病院はひどい病院です(多分)。まぁ、このテキストそのものはどこまで事実を正確に伝えているか、みたいなところがありますが。
でその後、和枝さんの父・勇さんは、八王子の多摩病院(肺炎をおこしている、という理由で断られる)、自衛隊病院その他もだめ、入院している藤が丘病院のほうでは、転院のリミットとして12月9日が定められて、総合病院の国立久里浜療養所を頼りにしてみたが、そこも転院をことわられる、ということで、結局12月の16日、という年末の押し迫った時期に、国立武蔵療養所という、単科の精神科に入院させることになります。この時点では和枝さんは、肺炎をおこしたあとで、のどを再び切開して、一度外したカニューレを再び入れています。勇さんがその病院の問題点に気づいたのは、転院依頼をしてから後のことでした。
で、和枝さんがその病院で死を迎えるのは、翌年の1月22日にカニューレの抜去をおこなってから間もない25日のことでした。24日の午後から呼吸が苦しくなった和枝さんは、しきりに呼吸困難を訴えながらも、武蔵療養所が総合病院ではないため、対応が遅れた、という事情がありました。P307-308。

 なぜ、和枝があれほど苦しいと訴えたにもかかわらず、カニューレを入れて欲しいという願いを無視し、「放置」したのか。明らかに呼吸困難による症状が出ているのに、放置したのは、なぜなのか。
 なぜ、カニューレを抜くとき、患者及家族の強い要望を無視して、耳鼻咽喉科も内科もない療養所で抜いたのか。肺炎後遺症が認められたのに、なぜ性急にカニューレを抜かなければならなかったのか。
 なぜ、皮膚科も内科も耳鼻咽喉科もない単科病院(精神病院)に、なかば強引に転院させたのか。
 なぜ、被害者である、たった一人の患者を国の力で国立総合病院に入院させることができないのか。

この、和枝さんの最後の死における遺族のかたの「なぜ」は、俺も感じるところが多いです。精神的に不安定な和枝さんが苦痛を訴えるたびに(ほとんど毎晩)行くことになった藤が丘病院側は、多分とても迷惑に感じて、本来なら自宅から「外来で通院」する形で充分に対応できるはずの「心因性神経症」の和枝さんを、嫌な言いかたですが切る(見切る)ことにしたとしか思えません。
『あふれる愛に』という本が提供する物語は、和枝さんの不幸のそもそもの原因である米軍ジェット機の墜落事故や、それにともなう施設局の対応についての非難・批判ではありません。もちろんすべては事故からはじまり、それがなければ多分亡くなられた子供は今は三十代で、和枝さんも孫がいるおばあちゃんの年になっています(←追記:すみませんこのあたりの記述、年齢換算のミスがありました。以下の日記参照→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041017#p1)。俺にとってこの事件で考えさせられたことは、治療に成功しない医師と、それが招く最終的な不幸の大きさ・重さでした。
もう一度JANJANの記事の、後半部分を引用してみます。

(二人の子供が亡くなられた)その後、二人のお母さんの和枝さんの度重なる治療についての訴えや抗議の電話に、国はまともに受けないばかりか、和枝さんを精神病者扱いにし、精神病患者だけを収容する国立武蔵療養所に強要転院した。その後まもなくの1982年(昭和57年)1月26日に窒息死した。

これは俺が手に入れたテキストにもとづく解釈とは、だいぶ異なる部分があります。
1・「度重なる治療についての訴えや抗議の電話」は、心理療法として医師がしかけたもので、国(施設局の職員)の対応は「まともに受けない」といった感じではありませんでした。
2・「和枝さんを精神病者扱いにし」たのは、というか、そもそも心因性神経症にしたのは藤が丘病院です。
3・「精神病患者だけを収容する国立武蔵療養所に強要転院」した(されることになった)のも、藤が丘病院の都合です。
4・窒息死を招いたのは、様々な病院側の医療・治療ミス(病状への不適切な対応)です。
どうもこの記事を書かれたJANJANの記者は、少し国をワルモノにしすぎているように、俺には感じられました。
↓以下の日記につづきます
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041011#p1