笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その1)

これは以下の日記の続きです。
ユダヤ人団体をあおっている(=情報を提供している?)日本の団体について(2006年1月16日)
「バターン死の行進」に関する文芸春秋テキストへの、サイモン・ウィーゼンタール・センターの抗議についてもう少し掘ってみる(2006年1月17日)
「日本の市民団体が外国の人たちを煽っている」と書かれるのが嫌いな人たち (2006年2月19日)
要するに、
1・笹幸恵氏が文藝春秋2005年12月号に「「バターン死の行進」女一人で踏破」という記事を書いた
2・それを日本の市民団体が、要約したテキストをネット上で公開した
3・そのテキストを読んだ戦時捕虜のレスター・テニー氏とユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が抗議した
(レスター・テニー氏はその後、抗議の前に全文の英訳を読んでいる、という情報がある)
4・文藝春秋はその抗議を受け、謝罪とレスターテニー氏によるテキストを掲載した
とりあえずネット上では以下のものがあります。
SURVIVORS OF THE INFAMOUS 1942 BATAAN DEATH MARCH PROTEST BUNGEI SHUNJU MAGAZINE ARTICLE DENIGRATING THE DEATHS AND SUFFERING OF THE VICTIMSサイモン・ウィーゼンタール・センターの記事)
Letter from: Lester Tenney, Ph.D., Former POW of the Japanese and a survivor of the infamous Bataan Death March - Simon Wiesenthal Center(レスター・テニー氏の抗議の手紙)
A Woman Retraced the Entire Route of the Bataan Death March Alone - Simon Wiesenthal Center文芸春秋に載ったテキストの英文概略)
Article on the Bataan Death March Published in Japan's Premier Magazine, Bungei Shunju(POWという団体のサイトに要約された笹幸恵氏のテキスト)
US-Japan Dialogueからメールを頂きました(それを翻訳した人による事情説明)
最後のものを除くと英語のテキストばかりで、少し読むのが大変だと思います。
おまけに、肝心の元テキスト(「「バターン死の行進」女一人で踏破」)をネットで読むことはできません。
そこで、俺がどう思ったか、みたいなことを書きながら、元テキストを全部引用してみたいと思います。
さらに、文藝春秋に載ったレスター・テニー氏のテキストも掲載してみます。
いろいろ面白いことと、少し調べるだけではわからないことなどがたくさん出てきたりしたのです。
少し長いので、何回かに分けることにします。
 
バターン死の行進」女一人で踏破(笹幸恵文藝春秋2005年12月号)

十二月八日を真珠湾攻撃の日と知る日本人は多い。しかし、四月九日を記憶する日本人はほとんどいない。
一九四二年四月九日、日本軍による総攻撃の後、バターン半島の米比軍は降伏した。そして、彼らはこの日を「降伏」ではなく、「バターン死の行進(DEATH MARCH)」がはじまった記念日として、今も記憶し続けている。フィリピンでは、この日はかつて「バターン・デー」と称され、現在では「武勇の日」として祝日になっている。

調べることのメモ。
「武勇の日」とは現地名でどう呼ばれ、それはどのように普通のフィリピン人の間では記憶されているのか。

だが本当は、日本人にとっても四月九日は、十二月八日同様に重要な意味を持っている。
騙し討ち(真珠湾)に加えて捕虜虐待(バターン)。この二つの事件が米軍をして、本土空襲・原爆投下という女性・子供を含む非戦闘員への無差別殺戮を弁解させる理由となっているからだ。

調べることのメモ。
そのような理由で「非戦闘員への無差別殺戮」を弁解している米軍関係者は誰で、どのようなことを言っている記録があるのか。「米軍」ということなので、「米軍兵士・士官の一個人的な意見」レベルではなく、公式にそのようなことを述べた記録は存在するのか。【重要】

ところが、真珠湾攻撃には詳細な研究があるが、バターンに関しては驚くほど資料が少ない。戦後三十年を過ぎてから生まれ、まだ三十歳でしかない私が、数少ない資料を読み漁りながら、それでも気がついたことが一つだけあった。

調べることのメモ。
真珠湾攻撃」と「バターン」との、研究・資料文献の量の違いについて。

九万人近くの兵士や難民が行進し、二万人近い人間がその途中に消えた道。炎天下、死屍累々だったはずの街道を歩き抜いたジャーナリストがいまだない、ということだ。

調べることのメモ。
行進した人数・死亡した人数の正式な数(公的記録)。その道を歩いた人間(ジャーナリスト)は本当に今までいなかったのか。

十月十三日、私はバターン半島の先端・マリベレスに立っていた。とにかく炎熱の街道を歩き抜こうという覚悟で。
バターン半島は、東京湾を扼する房総半島のイメージに近い。首都メトロマニラとマニラ湾を挟んで向かい合う南北約五十キロ、東西約三十キロの半島である。
当時、このマリベレスから、八万とも九万ともいわれる米比軍人や民間人が白旗を掲げて投降した。彼らは日本軍によって、半島からやや内陸に位置する町、サンフェルナンドまで、水も食料もろくに与えられず、炎天下を徒歩で移動させられた。第十四軍司令官だった本間雅晴中将は戦後、この「死の行進」の罪を問われ、銃殺刑に処せられている。起訴状によれば、死亡・行方不明となったアメリカ人捕虜は約千二百名、フィリピン人捕虜は一万六千名に上る。

調べることのメモ。
本間雅晴中将に関する起訴状を見る(一次資料の確認)。【重要】

行進の出発地点であったマリベレスは現在、「経済区」として外資系企業や工業団地などが立ち並んでいる。そして半島東岸を走る道路には、「DEATH MARCH」と記された高さ二メートルほどの三角の道標が、一キロごとに道なりに建てられている。どの道標にも、うなだれ、倒れ掛かる人をデザインしたプレートがはめ込まれている。もともとは、現地を再訪した生還者や海援隊の有志たちが一九五〇年代初頭から道標を設置するプロジェクトを開始していたが、現在ではNPO団体「FAME」(FILIPINO-AMERICAN-MEMORIAL-ENDOWMENT)が募金によって順次、三角碑に改修している。

調べることのメモ。
NPO団体「FAME」の活動の実態。公式サイトはあるのか(ちょっと検索してみたんだけど、それらしいところは見当たりませんでした)。
 
と、ここまでで序章(はじめの約1ページ分)。あと9ページ分に加えて、さらにレスター・テニー氏のテキストがあります。これは長いよ。ひー。
 
これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060501#p1