沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(1)

ということで、『裁かれた沖縄戦』に掲載されている、1988年2月10日の「沖縄出張裁判」における安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化してみることにします。
なにぶんテキストが長いので、毎日コツコツ少しずつやってみるのです。
元テキストは、『裁かれた沖縄戦』(安仁屋政昭編・晩聲社・1989/11)p23-124を使用します。
原文の「注(頭中)」も、注釈として掲載します。
ただ引用しているだけではナニなので、ときどきぼく自身の意見や疑問点なども書くことにします。
安仁屋政昭証言テキスト・1

※以下に収録した尋問調書は裁判所の書記官によって記録されたものであるが、本書収録にあたっては旧字は新字に、明らかな誤記・誤植は正しい表記に編者の責任において改めた。また各尋問調書・意見書につけられた注は、本書収録にあたって編者がつけたものである。
※沖縄出張裁判は、一九八八年二月九日・一〇日の両日、那覇地方裁判所で行なわれた。原告側証人として大田昌秀琉球大学教授、金城重明・沖縄キリスト教短大教授、山川宗秀・普天高校教諭、それに編者の四人が法廷に立ち証言した。ここに収録した編者・安仁屋政昭の証言は、二月一〇日に行なわれたものである。
 
速記禄 昭和六三年二月一〇日 証拠調 原本番号 昭和六一年民一八六〇号の三〇
事件番号 昭和五九年(ワ)第三四八号 証人氏名 安仁屋政昭
 
原告代理人(伊志嶺)
後に提出する甲二九五号証を示す
1・この意見書は、証人が作成されたものですか。
 そのとおりです。
2・後ろに添付されている経歴書----証人の学歴、職歴、主な著書・論文等は、ここに記載されているとおりですか。
 そのとおりです。
3・現在は沖縄国際大学の教授ですが、担当は歴史学ですか。
 はい、そうです。
4・経歴等によりますと、地域史の編集委員も多くなさっておられるようですが、証人はその地域史の委員としては、どのような部門を担当しておいでですか。
 主に近・現代史、その中でも戦争体験、移民、出稼ぎの調査に当たっております。
5・渡嘉敷島渡嘉敷村史の編集もやっていらっしゃいますね。
 はい
6・一九六七年四月から一九七二年三月まで、沖縄史料編集所*1で勤務をされておられますね。
 はい。
7・その間、沖縄県史の戦争体験記録の調査・編集を担当されましたか。
 はい。
8・この沖縄県史というのは、分量はどのくらい、全体で。
 分量というのは、沖縄県史全体は、全二四巻ございます。
9・そのうち、戦争体験記録が、沖縄県史の第九巻・第一〇巻、あるわけですね。
 はい。
10・この沖縄戦の戦争体験記録はそれぞれ一〇〇〇ページを超える分量のものですか。
 はい。
11・ところで、証人はこの沖縄県史調査・編集の当事者であられるわけですが、沖縄県史の戦争体験記録は、どのような陣容で取り組まれたものですか。
 それは沖縄史料研究所の所員が、これは主に日本史専攻の者ですけれども、これが大体六名から八名くらい、そのほかにそれぞれの地域----と言うのは、沖縄県全域であります----全域の研究者、教育者などを総動員した形で係わっておりますから、その調査・研究に係わったという意味では、百数十名になると思います。
12・具体的な作業は、いつごろから開始されましたものですか。
 作業は企画段階から言いますと、一九六五年くらいから企画は始まっているわけですけれども、実際には六七年*2というふうになります。
13・一九六〇年代と申しますと、沖縄戦についての著作も大部出たころだと思いますが、どのような問題意識からこの沖縄県史の戦争体験記録事業というものが始められたんですか。
 これまでの一九六〇年代までに出ておりました沖縄戦に関する記録というのは、主に旧軍人、あるいは県庁の役人、あるいは新聞記者等が書いたものでありまして、その観点がどちらかと言うと軍隊中心、戦闘経過を記録する、というような感じのものでありました。*3それから、沖縄県民の側から言えば、沖縄戦をどのようにとらえてきたか----戦後二〇年以上たって沖縄県民はどういうふうにこれを考えてきたかと言いますと、何と言っても、戦争への憎しみと平和の尊さということを強烈に沖縄戦の体験を通して学んできた。現実の課題に立ち向かうごとに、常に沖縄戦の体験に立ち返って現実の課題をとらえ直してみるという作業をやってきた、と。このことは、皆さん、お願いしますけれども、沖縄県立平和祈念資料館にいらして、沖縄県民の気持ちを表明した史料や文献がございますので、是非御覧いただきたいと思います。*4
15・以上のような反省点・問題点、これは先ほどの沖縄県史における戦争体験記録の基本的観点として引き継がれておった、採用されていった、ということになりますか。
 そのとおりです。
16・それでは、もう一度沖縄県史の戦争体験記録の編集方針の要点と言いますか、それを簡単に述べていただけませんか。
 それは、繰返しになりますけれども、皇軍顕彰とか戦闘経過中心の記述ではなくて、あくまでも戦争における沖縄県民の被害を明らかにする、と。県民の目を通して沖縄戦----しかも、これを一面的、一方的にではなくて、立体的に、構造的に、客観的に、総合的に明らかにする。そういうことをねらっております。
17・今述べられたような観点から、沖縄県史が調査・編集されて行ったわけですが、そういうような観点に立って各市町村の戦争体験記録の編集もなされておるわけですが、証人自身、各地の市町村の編集委員を担当しておられたわけですね。
 はい。
18・ところで、沖縄県史、あるいは市町村史における戦争体験記録を含めてよろしいかと思いますが、そういう戦争体験記録の史料的価値と言いますか、について証人御自身はどういうふうにお考えですか。
 これは客観性のある、極めて科学性のあるものだと思います。それはどういうことかと言いますと、戦争体験者の証言を語ったとおり記録するという、そういう手法は採っておりません。私どもは、証言の客観性を高めるために、行政記録、外交史料、軍事記録、報道記録、第三者の証言などを突き合わせて、その客観性を高める努力をし、また一つの事件についても一人から聞取りをするというだけでなくて、場合によっては関係者の座談会などを開きまして、これを四方八方から光を当てて、その客観性を保証できる、そういう証言をつくってきたつもりであります。これは、そういう意味では、普通のジャーナリストのルポというのとは、意味が違うわけなんですね。それと、一つの地域だけを、あるいはある一つの事件だけをポイント絞ってやるのではなくて、沖縄県全域にわたっている、ということです。で、多くの証言者----私自身について言いますと、おそらく一万人近い証言に接しております。それは、私個人の話でありまして、私のようなことをやっているのが、先ほど申しましたとおり、百数十名、そういう努力を重ねてきている、集団討議を重ねてきている、ということです。
19・研究者の史料としての価値は高いというふうに、証人御自身は考えておられるわけですね。
 はい、そのとおりです。
20・意見書の「住民被災にみる沖縄戦の特徴」ということについて、お尋ね致します。六ページ以下です。沖縄戦における特徴点はいろいろあると思いますけれども、あなたが挙げるとすれば、大きな特徴点としては、どういうことが挙げられますか。
 それは、何と言っても、軍人を上回る住民の死者があったというところに、沖縄戦の大きな特徴があると思います。
21・ところで、住民被害の統計として、沖縄県の援護課*5の資料があるわけで、あなたの意見書にも書かれておるわけですが、ここで書かれている数字には、問題点がありますか。
 非常に多くの問題を感じております。
22・指摘してください。
 それは、まず沖縄県民一般の死者、これを約九万四〇〇〇人と押さえている、そのことについての疑問であります。これは、全数調査による積上げ方式ではなくて、昭和一九年ないしは昭和二一年の人口統計を参考にして、引き算をして行っている。全数調査というものではない。そういう意味で、極めて客観性の乏しいものであると思います。
23・この援護課の数字・統計に挙がっていない住民の死者としては、たとえばどのようなものが考えられますか。
 それは、時間を追って申しますと、県外疎開であります。県外疎開は約一〇万人を予定しておりましたけれども、実際には南九州は約六万二〇〇〇人から六万五〇〇〇人、台湾に約一万四〇〇〇人と考えられますけれども、これはすべて無事南九州や台湾に上陸したのではなくて、たとえば沖縄・鹿児島間の海域で、私の推定によりますと、一万人ぐらい死んでおります。これらのことについては、ほとんど調査がされていない。それからマラリアによる死----これは、沖縄本島の北部に、沖縄戦直前までに三万人を移したということになっておりますけれども、後の手当てが全くありません。いわゆる食糧の補給がないわけですから、飢え死に、マラリア死。それから、八重山群島波照間島から西表島に強制疎開をさせていますけれども、この場合は約三分の一が飢えとマラリアで死んでおります。そういったマラリア死。それから、沖縄戦の中で言いますと、米軍の砲爆撃で死んだ者----当然ですね。そのほかに、日本軍によって殺された者がおります。スパイ視虐殺、壕追出し、食糧強奪----このスパイ視虐殺は非常に多様でございますけれども、たとえば聾唖者、視力障害者などがスパイの疑いで殺される。ちょっと想像できないことが起きております。それから、戦闘期間中に、中・南部では戦闘が続いておりますけれども、四月の四、五日ころから、既に米軍に収容されております。収容所の生活があります。その収容所で死んだ人も、ほとんど調査の実態が明らかにされていないですね。そういった諸々のことをわれわれが計算してみますと、沖縄県民の死者は、日本住民の死者は、少なく見繕っても一五万人を上回るだろう。ですから、この九万四〇〇〇人という数字に疑問を持たざるを得ない、ということです。
24・沖縄戦における住民の被害者の実態は、数を含めて、まだ十分調査されていないというふうに言われておるんですが、今後の調査・研究で、数を含めた被害の実態はもっと増えて行く、発掘されて行くものでしょうか。
 そのとおりです。

(感想その1)
アメリカの沖縄作戦のポイント」に関する視点は、冷戦がもはや存在しない世界に生きているぼくらには、あまりうまく理解できませんが、日本国内でありながら「沖縄県」が再び日本の領土と言えるようなものになるには、戦争が終わってさらに30年ぐらいかかった、という歴史、そして米軍専用基地が他の県と比べても桁違いに存在している、という現実、については、ぼくは知っています。「これにはこういう意味があるのだ」という視点の提示は、いろいろなことが分かるような気になります。
「戦争体験記録」が「客観性のある、極めて科学性のあるもの」だとは、ぼくは判断できません。それは、そのままの形では、「現実」に対する主観的な、極めて非科学的なものです。ただ、その「現実」が各個人にどのような作用、というか影響を及ぼしたかは知ることができるし、複数の証言を特定の「現実」に重ねることによって、記録という形で残されているもの以外、あるいは記録として残っていない「現実・事実」に近づくことは可能だとも思います。要するに、「科学性」というよりは「文学性」のあるものだと思います。フィクション、創作という意味での「文学」ではないですよ。人間を描く技術として、という意味での「文学」。
安仁屋政昭さんの「意見書」は、「証言」に続けて電子テキスト化してみたいと思います。
「沖縄・鹿児島間の海域で、私の推定によりますと、一万人ぐらい死んでおります」というのは、ちょっとただごとではない数字なので、マラリア死もそうなんですが、何かこれらに関するもう少し具体的な資料があったら目を通してみたいと思います。
…読み返してみたんですが、誤字(誤変換)・脱字と思われるもの多すぎです。「タイプミスなんじゃないの?」というのがあったらコメント欄でご指摘ください。せっせと直しますのです。
 
これは以下の日記に続きます。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2)
 

*1:沖縄史料編集所は、沖縄に関する歴史資料の調査収集・編集を業務とする琉球政府の機関として一九六七年に設置された。『沖縄県史二四巻』『沖縄県史料』などを編集してきた。

*2:沖縄史の戦争体験記録の調査・編集作業は、一九六七年からはじまった。この作業を進めるにあたって沖縄飼料編集所はl市町村役場から各字の段階まで趣旨説明をして自治体の協力を求め、戦争体験者のリストの作成、証言者個々人の体験内容の検討、証言の場所と期日の設定、証言の聞き取り(録音とノート)、証言の原稿化証言者に原稿内容の確認を求めること、これらの作業を同時に進行させた。集められた証言は『沖縄県史九巻 戦争体験記録1』(沖縄本島中南部)・「沖縄県史一〇巻 戦争体験記録2』(沖縄本島北部・周辺離島・宮古八重山)として二巻にまとめられた。

*3:たとえば、古川成美『沖縄の最後』(一九四七年)、『死生の門』(一九五〇年)など。)これに対して、住民被害の観点、沖縄県民の住民被害という観点からの記述が、極めて少なかった。それに、住民被害を描くにしましても、殉国美談というような描き方、それから沖縄タイムスの編纂しました「鉄の暴風」というものは住民の観点に立っていて、非常に先駆的なものですけれども、それ以外はやはり軍隊中心、皇軍顕彰と言ったようなものが多かったので、それでは沖縄県民の被害の実態は明らかにはできないのではないかという批判があって、沖縄県民の側に立って県民被害の実態を明らかにするということが、大きなねらいになっているわけです。 14・そうしますと、以上のような批判的検討と言いますか、そいいう結果、太平洋戦争の一環としての沖縄戦をどういうふうに、皆さんは、理解あるいはとらえられたんですか。  非常にかいつまんで申しますと、当時戦争を指導した日本側の沖縄戦の位置付けをどういうふうに考えるかということですけれども、これは一言もって言えば、国体護持、天皇制を守るために沖縄を捨て石にする、そのための時間稼ぎの戦闘であった、と。したがって、沖縄守備軍、第三二軍の玉砕と沖縄県民の死は不可避であった、というふうに考えます。それから、アメリカの沖縄作戦のポイントは、やはり日本の敗戦を前提に戦っているんですけれども、沖縄に重大な軍事基地を確保する。で、むしろ日本の敗戦後をにらんで、対ソ戦略、いわゆる冷戦構想と言いますか、その拠点として位置付けて行こうという大きな方向付けがあっただろう、と。これは現在も続いております、沖縄米軍基地の実体、日米安保条約の中における沖縄の実態を見れば、極めて鮮やかであります。((アメリカは、沖縄戦の単なる勝利のためだけではなく、占領後の沖縄を太平洋で最大の軍事基地にするという戦争目的から大量の殺戮兵器を投入し徹底的な破壊を行なった。当時アメリカは、北はアリューシャンから千島列島をへて日本列島・琉球諸島・台湾・フィリピンにいたる軍事包囲網によって社会主義ソヴィエトを封じこめていく冷戦構想をかためつつあり、この冷戦構想の拠点として位置づけられたのが沖縄であった。アメリカの沖縄攻略作戦は広島・長崎への原爆投下と同じ政治目的から強行されたものであり、太平洋地域における冷戦政策の最初の発動であった。この点は沖縄の戦後史を考える基点として重要である。アメリカ軍は沖縄上陸と同時に「ニミッツ布告」を発し、沖縄における「日本帝国政府のすべての行政権の停止」と、アメリカによる軍政の施行を宣言している。戦闘中にすでに、ジャパニーズとオキナワンが区分され、沖縄の非日本化(分離支配)の方針がしめされていた。本土との分断と軍政は、戦後二七年間の基地沖縄の歴史をつらぬく柱となった。

*4:沖縄県立平和祈念資料館には、沖縄県全域で聞き取り調査した「住民の戦争体験の証言」が展示されている。日米の軍事記録も参考資料として閲覧することができる。

*5:一九五三年から沖縄に「戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法と略称)が適用されることになり、その援護業務を担当したのが琉球政府の援護課である。復帰後は沖縄県生活福祉部援護課となっている。