中国の虐殺王・張献忠について(『蜀碧』より)

 これは以下の日記の少し続きです。
『オタク論!』(唐沢俊一・岡田斗司夫/創出版)から、唐沢氏の間違いと思われるものを3つ指摘してみるよ(パガニーニ、野田高梧、蜀碧)
 
 ということで、『蜀碧』(東洋文庫平凡社)を読んだ(拾い読みした)わけですが、これはすごいです。まぁだいたいは以下のところに書いてある通りなので省略しますが、
蜀碧 彭遵泗=著  松枝茂夫=訳 復刊リクエスト投票
 面白いところ全部持っていかれたな、という印象。
 他にはこんな感じ。p73-74

 また偽って武科挙を実施した。このとき、民間で馬を養うことは禁止されていたが、集まった武生を馬場に集合させると、もっとも兇猛な軍馬ばかり千余頭を引き出して騎乗させた。そして武生たちが馬にまたがるや、兵士たちがどっとはやしたて、大砲を打ち、銅鑼太鼓を打ち鳴らしたので、馬は狂奔して、乗手を振り落したうえ、泥となるまで踏みにじった。これを見て賊は手を打って大笑するのであった。

 p78

 太医院に古くから伝わる銅人(針灸の基本となる経穴の小孔をうがったブロンズ製の基準人体模型)があったが、賊は紙をかぶせて穴を隠し、医師たちを集めて針術の試験をした。そして一針でも刺し違えた時はその場で殺したので、医者はたちまち死に絶えてしまった。

 他にも固有名詞入りの面白い奴とか、伝聞情報(一説によると)テキストとかがあるんですが、ちょっと入力できるような状態でないので放っておいて。
 ただ、「張献忠」が「蜀(四川)の人」に対して持った感情は、「古いSFファン」の「SF」に対する愛情と同じようなもの(「何かを徹底して好きだというとき」の「破壊衝動」)かというと、ちょっと微妙な感じ。ナチスドイツのユダヤ人に対する感情みたいなものじゃないかと思いました。まぁ確かに、このようなことは口にしていますが、p81

 四川の人間はまだ死に尽くしておらぬのか。おれが手にいれたのだから、おれが滅ぼしてしまうのだ。ただのひとりでも他人のために残しておきはせぬぞ

 「解説」によると、魯迅はこのようなことを言っているそうです。p221-222

 張献忠に関する伝説は、中国の各地にある。人々がいかに彼を不思議な人物として見ていたかがわかる。私も以前大いに不思議と思っていた人間の一人である。(中略)『蜀碧』といった類の書物には、張献忠の殺人の事を非常に詳細に記してあるが、かなり散漫でもあって、読者にはまるで彼が「芸術のための芸術」同様、もっぱら「殺人のための殺人」をしていたかのように受け取られる。しかし実は、彼には他に目的があったのだ。彼は最初のうちは、決してそれほど人を殺さなかった。むろん皇帝になるつもりだったからだ。ところがその後、李自成が北京に入り、つづいて清兵が国内に入って来て、自分には没落の一途しか残されていないことを知ったので、殺、殺、殺……を始めたのである。天下にもう自分のものはない。今は他人のものを破壊しているのだ。彼ははっきりとそう感じた。これは末代の風雅な皇帝たちが、死ぬ前に祖先や自分の蒐集した書籍、骨董、宝物の類を焼き捨てる心理と、全く同じである。彼には兵隊はあったが、骨董の類はなかった。そこで殺、殺、殺人、殺……(『晨涼漫記』岩波版『魯迅選集』第十巻)

 まぁ、古いSFファンも、今のSF界に自分の居場所がない、とか、天下は別のSFファン(新しいSFファン)のものになっている、とか思って、「SFの虐殺」をした、みたいな過去があるのかな。SF殺しの時代について、もう少し知りたいと思ったのでした。過去ではなく現在も、SFやミステリーのファンの、ジャンルに対する愛情と憎悪に関しては続いているようなのですが、現在SF・ミステリーとして世の中に出されている出版物に対して、古いファンはあまりジャンル的な憎悪を語ったりはしないようにも思えます。「永遠に新しい波が打ち寄せるかわりに、「今」という時間が永遠に続く渚」がここにあるわけで。その話は『蜀碧』とは少し違う話になりそうなので、また別の機会に。
 ネットサービスを提供しているベンチャー企業が、天下取れないと諦めてユーザー虐殺をはじめる、みたいなことしたら張献忠みたいな例としては分かりやすいのですが、そんなことをしている企業は存在しないのでした。ユーザー名は4字以内のアルファベットに限定、とか何とか。