「エルトゥールル号の遭難」に関するトルコ人の認識度について
以下のニュースがありまして、
→asahi.com:オスマントルコ皇帝の勲章見つかる 軍艦遭難事故救出 - 文化・芸能
オスマントルコ皇帝の勲章見つかる 軍艦遭難事故救出
2008年01月05日01時58分
118年前に和歌山県串本町沖で遭難・沈没し、600人近い犠牲者を出したトルコの軍艦「エルトゥールル号」(エ号)遭難事故。その生存者を日本が母国に送り届けた功績をたたえ、当時のオスマン・トルコ皇帝から海軍士官に贈られた勲章やメダルが、東京都内の士官の親族宅に保管されていることがわかった。親族は今月から同町で始まるエ号の調査に合わせて、これらを町に寄付する意向だ。
保管されていることがわかったのは、当時のオスマン・トルコ皇帝アブデュル・ハミト2世が岸榮太郎・海軍大尉(のちに大佐、1925年没)に贈った「勲四等メヂヂヤ勲章」と「イムチェール銀章」。岸氏のおいで東京都武蔵野市に住む眞田茂夫さん(80)が保管していた。
旧海軍の記録などによると、日本政府は1890年9月の遭難事故直後、生存者69人をトルコに送り届けるために海軍の軍艦「金剛」と「比叡」をトルコに派遣することを決めた。2隻は同年10月に日本をたち、翌91年1月にイスタンブールに到着した。岸氏は比叡に乗り組んでいた士官の一人で、勲章などは、士官らが皇帝に謁見(えっけん)した際に贈られたものだという。
岸氏は生涯、トルコ訪問の体験を誇りにしていたといい、51年に亡くなった妻美代さんは生前「榮太郎は艦上で生存者からトルコ語を教わり、皇帝にお目にかかったときにトルコ語であいさつすると、皇帝が驚き『どこで勉強したのか』と尋ねられたそうだ」などと、岸氏から聞いた話を周囲によく語っていたという。
眞田さんは「遭難事故ゆかりの串本で、勲章をきちっと保管・展示してもらえるなら、榮太郎も寄付を喜ぶでしょう」と話している。エ号調査のトルコ人責任者で、米国・海洋考古学研究所のトゥファン・トゥランル氏は、「エ号にまつわる貴重な史料で、エピソードも非常に興味深い」と関心を寄せている。
以下のところではこんな感じ。
→オスマントルコ皇帝の勲章見つかる 軍艦遭難事故救出 - 自動ニュース作成G
[#1] (mswwv) 日本人ほどに、トルコの人は覚えているんでしょうかね、この事件に関しては
[#2] (ntjji) #1 この話はトルコの教科書に載ってる有名な話。だからトルコ人は日本人を慕ってくれる。日本人の方が全然知らない。
[#3] (ntjji) 湾岸戦争でイランから脱出出来なかった日本人がいたが、トルコの飛行機が救ってくれた。日本に恩返しだと。
[#4] (mswwv) その「トルコの教科書」ってどこかで見られる? 現代の教科書? トルコ語で見られる? #2はネットの伝聞情報信じすぎ
[#5] (zxjhl) 行く末の楽しみな若者が現れたな
[#6] (mswwv) それは正式なソースが確認されていない>#3 ◇
[#7] (ntjji) #4 俺が留学していた先のトルコ人の姉ちゃんが言っていた。それ以上のソースは知らぬ。
[#8] (mswwv) じゃあ、俺がトルコ大使館の友人に聞いたら、そんなことは知らない、と言っていた、というのはソースになるのか?>#7
さぁ、また少し調べたいことが出てきたよ。
ということで、ウィキペディア。
→エルトゥールル号遭難事件 - Wikipedia
上記、イラン・イラク戦争時のトルコ政府・トルコ航空による日本人救助活動について、日本国内では「エルトゥールル号遭難事件の恩返し」との趣旨の発言がトルコ側関係者よりあったとされ、両事件は一対で語られる事が多いが、現実に事件当時のトルコ政府当局者やトルコ航空の関係者から、そのような意図・発言があったか否かは、2007年現在、正確な出典は不明である。実際は伊藤忠商事イスタンブール支店関係者、在テヘラン日本大使館からのトルコ政府への救援要請に対し、トルコ側が「快諾」し、トルコ航空機の派遣を決定したとも言われる。勿論、トルコ側の「快諾」の背景に「エルトゥールル号遭難事件」以降のトルコ独自の親日感情の影響があることは十分に考えられるが、「恩返し」の発言そのものについてはネジャッティ・ウトカン元駐日トルコ大使や平成13年5月6日の産経新聞に掲載された、当時のヤマン・バシュクット駐日トルコ大使らのコメントが事件当時の直接の関係者の発言として誤解されている節もある。なお、この事件に関するシンポジウムが2007年10月28日、東京都三鷹市の中近東文化センターで、同時期に開催されたエルトゥールル号回顧展に併せて、当該トルコ航空機の元機長、元キャビン・アテンダント、野村元駐イラン日本大使、森永元伊藤忠商事イスタンブール支店長ら当時の関係者出席の上、行われている。
また産経か。とはいえ元記事を読んでみないと何とも言えない。
関連テキストではこんなのも。
→和歌山県議会/県議会活動/平成11年9月定例会第二号の議事録全文
さて、先月の八月十七日、トルコ北西部を襲った大地震で、不幸にも一万五千三百三人の方々がお亡くなりになり、二万三千九百五十四人の人が負傷し、六十万人が家を失った上、現在、雨季に入り、被災者は困難を強いられております。また、一昨日の九月十三日にもマグニチュード五・八の地震があり、七人の方が亡くなられたそうであります。トルコ地震で亡くなられた方々と被災者の皆様に心からご冥福とお見舞いを申し上げますとともに、一日も早い復興を念願するものであります。本県では、いち早く義援金をトルコ共和国に贈られました。私は、公明党和歌山県本部の代表の一人として九月十日、東京のトルコ大使館を訪れ、トルコ大地震の被災者を救援する公明党と市民の会が街頭で募った義援金をヤマン・バシュクット駐日特命全権大使に手渡してまいりました。バシュクット大使は、「九月八日のくしもと大橋の竣工式で串本町を訪れたところだ」と、私たちを歓迎してくださり、一八九〇年(明治二十三年)九月にトルコ国軍艦が暴風雨で串本町の樫野崎沖で沈没した際、串本町の地元住民が献身的な救助活動を行った歴史を振り返りながら、「私たちは、百九年前の恩を忘れない。まして、今回の地震に対する支援を忘れることはないでしょう。和歌山とトルコとは兄弟のように感じております。皆さんの力添えを受けて必ず復旧する所存だ」と力強く語っておられました。私たちの募金活動は、串本町からトルコを支援する輪が全県に広がってまいりました。和歌山県民のトルコに対する思いの強さを改めて感じた次第であります。
地域教材を掘り起こして
「エルトゥールル号の遭難」より
和歌山県 串本町立錦富小学校 杉本崇幸
(中略)
それから,90年後,イラン・イラク戦争の折,テヘランに取り残された日本人の救出が日本政府の手でなく,トルコ政府によりなされた。助けられた人々は,「なぜ,トルコが」と疑問を持ちながらも,トルコの人々に感謝し救出を喜び合った。のちに駐日大使ヤマン・バシュクット氏は産経新聞の取材に対し,「特別機を派遣した理由は1890年のエルトゥールル号の海難事故に際して,日本人がなしてくださった献身的な救助活動を,今もトルコの人々は忘れていません。私も小学校の頃,歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえエルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで,テヘランで困っている日本人を助けようと,トルコ航空機が飛んだのです。」と語った。113年前の大島の人々がなした献身的な救助活動が現在も忘れ去られることなく,トルコの人々の中で今も語り継がれているという事実を感得すると共に,国を越え,時を超えた壮大な友情について考えさせていきたい。
(後略)
なんか、「水からの伝言」とか「百匹目の猿」とかと同じようなにおいがしてきた。
1・ヤマン・バシュクット氏は今いくつで、彼が学んだ歴史教科書にはどの程度の記述がされていたのか。
2・それは、今の「トルコの歴史教科書」にも載っているのか。
3・その知識は、「ヤマン・バシュクット氏」という、日本に特別な関心を持たざるを得ない人以外でも普通に知っている知識なのか。
4・そもそも、トルコの教科書はどのように作られているのか。
これは実際にトルコに行ってみたり、トルコ語ができないとどうしようもない興味なのですが、誰かトルコ語にくわしい人は、現在のトルコの教科書における「エルトゥールル号」の記述について教えてください。
それよりもびっくりなのはこんなテキストでした。
→つくる会Webニュース 平成15年10月15日
その95年後、1985年(昭和60年)のイラン・イラク戦争のとき、イランに住む日本人を脱出させるため、トルコが航空機をチャーターして日本人を救出したことがありましたが、これは、エルトゥールル号の恩返しだったことを駐日トルコ大使が明らかにしています。
いまでもトルコと交流を続けている和歌山県串本町では、その史実の教科書への掲載を求めて出版社や文部科学省などに働きかけをはじめたそうで、10月12日付の「紀伊民報」は次のように伝えています。〈トルコと日本の友好の原点となったトルコ軍艦エルトゥールル号遭難の史実を全国に伝えようと、串本町が小中学校の教科書掲載を求め、出版社に働きかけを始めた。すでに1社から採用の内諾を得ており、早ければ2005年に掲載の見込みという。今後、教科書を扱う他の出版社にも資料を送付していくなど運動を進めていく。(中略)
こういうのは「教科書への政治的介入」とかじゃないんですかね。「沖縄戦における集団自決」の、教科書の記述・政治的介入について何か言っている人はどう思いましたか。
どうも「歴史」と「道徳」を混ぜて(つなげて)何かを作ろう、という、一部日本人側の意図は感じるんですが、ぼくの感じでは、トルコのほうの教科書を読んでみないと何とも言えないです。日本の教科書に「海外で遭難したけど、現地の人に助けられた」的な記述が載っている例はあるかな。「助けた側」は覚えていても、「助けられた側」はそんなに覚えていないかも、みたいな気がするし。
(追記)
以下のコメントから。
→オスマントルコ皇帝の勲章見つかる 軍艦遭難事故救出 - 自動ニュース作成G
[#14] (coalx) エルトゥールル号航海はトルコ近代史では結構重要。ただし美談扱いじゃなくて沈没確実って世界各国から揶揄されながらの無茶な航海を強行して沈没の結果イスラム結束の目がなくなったって感じの記述だと思う
[#15] (coalx) そのイスラムの結束をめざした皇帝の権威の失墜が青年トルコ人革命につながったわけで、ただの美談としてしか伝わってない日本とは印象がかなり異なると思うよ
再び、ウィキペディア。
→エルトゥールル号遭難事件 - Wikipedia
しかし、エルトゥールル号は出港以来積もり積もった艦の老朽や物資・資金不足は限界に達していた。多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月になってようやく横浜出港の目処をつけ、遠洋航海に耐えない老朽ぶりをみた日本側は台風の時期をやり過ごすようにと勧めるも、制止を振り切って帰路についた。このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化ぶりが喧伝されてしまうことを恐れたのだと言われる。遭難事件はその帰途に起こった。
↑この記述を見逃していた。
これは以下の日記に続きます。
→「歴史」的事件を「道徳」にしちゃいけない(「エルトゥールル号の遭難」の話・2)
(追記:2009年5月31日)
その後、以下のような情報が。
→エルトゥールル号遭難事件 - 地球浪漫紀行☆世界紀行スタッフの旅のお話し
我々もツアー中に、近年特に、トルコ人日本語ガイドから、この話を聞く機会が多いが、彼らは日本人ツアー専門であり、一般のトルコ人とは事情が違う。そこで、この機会にイスタンブールにある旅行会社5社に問い合わせてみた。日本人旅行をあまり取り扱わない、ドイツ人専門のような旅行社ばかりである。なるべく日本に関心のないような人たちが良い。なぜ問い合わせる気になったのかというと、「教科書も見つかっていません」というNHKの表現だ。トルコは国定教科書で、小学校が義務教育8年、その後、高校が3年。歴史教科書を2冊調べれば事足りるはずだからだ。
質問は2点。1、ほとんどのトルコ人はエルトゥールル号事件を知っているのか? 2、エルトゥールル号事件は小学校の教科書に記載されているのか? トルコ語はできないので英語で。
回答は、1については全員がイエス。2については回答がわかれた。これはもしかしたら年代によって教科書が変わっているのかもしれない。2名がイエス。3名が小学校の教科書ではなく、高校の歴史教科書に詳細が載っています、というものだった。あるいは小学校の教科書は簡単な記載なのかもしれない。
情報提供、どうもありがとうございます。
「エルトゥールル号事件」に関して、トルコの歴史教科書を見てみたいです(どのように書かれているのか)。トルコ語読めないけど。
(追記:2009年6月1日)
→トルコの教科書 - ほんまかい通信
1890年(明治23年)、
「エルトゥールル号は、
串本沖にて台風に遭い、
580名のトルコ人船員が命を落とす。
串本町民は救出された64〜65名の船員を手厚く看護し、
殉職した人々のために支援活動を行った。
集められた支援金は、
時の統治者に渡された」(サライ印刷所/アンカラ2006年)
最近のトルコの小学校の教科書には載っているそうです。