「歴史」的事件を「道徳」にしちゃいけない(「エルトゥールル号の遭難」の話・2)

 これは以下の日記の続きです。
「エルトゥールル号の遭難」に関するトルコ人の認識度について
 
 こんなテキストなど。
つくる会Webニュース > 平成15年10月15日

〈トルコと日本の友好の原点となったトルコ軍艦エルトゥールル号遭難の史実を全国に伝えようと、串本町が小中学校の教科書掲載を求め、出版社に働きかけを始めた。すでに1社から採用の内諾を得ており、早ければ2005年に掲載の見込みという。今後、教科書を扱う他の出版社にも資料を送付していくなど運動を進めていく。(中略)

 今夏、テレビ番組でこれらの逸話が紹介され、トルコの親日感情の理由が解き明かされた。同町には、全国から感動したという内容の便りが多く届き、町内にあるトルコ記念館への来場者も増えたという。トルコで「エ号」の遭難事故は歴史の教科書に取りあげられ、国民の大勢が知っている出来事だが、日本では歴史認識が薄く、串本町内の子供たちもかかわりの深い大島地域の子供以外は、詳しく知る機会が少ない。

  このため、田嶋勝正・串本町長は「大島住民の功績を全国に広め、後世に残したい。今年は『日本におけるトルコ年』。盛り上がった時期がアピールするチャンス」と教科書に取りあげてもらうことを計画。今月初め、資料請求のあった東京の出版社「光村図書」を田嶋町長が訪れ、小学校用道徳本に掲載される回答を得た。

 どうもこの「小学校用道徳本」というのが納得いかない。
エルトゥールル号の遭難」は確かに悲劇であり、それを助けた村(町)の人間の話は美談なんだけど、エルトゥールル号航海目的(政治的目的)と、遭難を招いた原因などを考えると、オスマン帝国そのものの悲劇まで語らないといけないと思うのですね。そこまで深く小学校道徳本では教えないだろうなぁ。というか、無理だと思う。
 あと、エルトゥールル号に関してトルコの教科書は、多分日本の歴史教科書における「咸臨丸」的な感じで教えていると思う。咸臨丸が遭難して、アメリカやカナダ、あるいはメキシコ・南米の人たちに助けられたとする。アメリカはともかくとして、カナダ・メキシコだったらどうだろう。カナダ人・メキシコ人に対して何かいいことをしたあと「咸臨丸の恩返しだ」とは言うと思いますね。その国に対する接点がとても少ないわけだから。アメリカには多分言わないと思う。あなたは、カナダと日本との関係で、歴史教科書に載っていて、何かすぐに思いつくようなことはありますか。トルコもずいぶん日本にとっては遠い国だ。
 あと、気になったのは以下のテキスト。(ブックマークから)
災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案 「1890 エルトゥールル号事件」(pdf)

(3)国民生活や被災地域住民のくらしの変化
・国民生活:一時的なオスマン帝国イスラーム世界)への関心昂揚
→短期間で終焉。継続せず。
→日本とオスマン帝国とは国交を結ばず、1923 年になってローザンヌ条約
事件が両国友好の象徴として語られ出したのは、ずっと後世のこと(第2世界大戦後)

 この、「第2世界大戦後」にこの事件が語られるようになったきっかけは何だったんでしょうか。
 思っていたほど、この話はずっとトルコおよび日本の特定地域に、長く伝わってきた「美談」でもない(一度断絶がある)みたいです。
 ところで皆さんは、「道徳の授業」はお好きでしたか。ぼくはあまり好きではなかったような記憶があります。「事実の歪曲・事実に対する一面的な判断」と、それにもとづく「善悪のきめつけ」が鬱陶しかった。今の道徳教育はどうなっているのか、もう少し考えさせるようなネタをやっているのか、ちょっと知りたいところ。
 こんなのにリンク。
道徳教育に関するリンク集
「道徳」とかいうもったいぶったものではなく「他者との正しいコミニュケーション力をつけるための何か」だったらわからなくはないんですけどね。人の嫌がるようなことはしない、とか。
 
(追記)
 いいタイミングで以下のエントリーがあがって来てたのでリンクしてみる。
「いい話」は思考能力を奪うよね - novtan別館
Rauru Blog ≫ Blog Archive ≫ Suspension of Disbelief

英語に Suspension of Disbelief っつう言葉があります。Wikipediaによると、サミュエル・コールリッジが考案した言葉らしい。こんな感じ。

Suspension of disbelief is an aesthetic theory intended to characterize people’s relationships to art. It was coined by the poet and aesthetic philosopher Samuel Taylor Coleridge in 1817. It refers to the willingness of a person to accept as true the premises of a work of fiction, even if they are fantastic or impossible. It also refers to the willingness of the audience to overlook the limitations of a medium, so that these do not interfere with the acceptance of those premises. According to the theory, suspension of disbelief is a quid pro quo: the audience tacitly agrees to provisionally suspend their judgment in exchange for the promise of entertainment.
 
Suspension of disbelief は、人々が芸術に関わる態度を説明するために作られた美学理論である。この言葉は1817年に、詩人であり美学哲学者でもあったサミュエル・テイラー・コールリッジによって作られた。この語の言わんとしているところは、フィクション作品の前提を、例えそれが空想的・どう見てもありえない事だったりしたとしても、真実として受け入れる態度である。また、メディアの特性から来る限界について見て見ぬ振りをすることも含まれる。この理論によれば、Suspension of Disbelief とは quid pro quo である、つまり、観衆は、エンターティメントを得ることと引き換えに、正誤の判断を一時的にそれとなく放棄するのである。