樺太・真岡郵便電信局事件の嘘と真実について

 以下のところから。
教委主催の講演会に行ったら、講師が「つくる会」だった件。

講演の中で、エルトゥルル号の遭難とか、有名な“美談”がいくつも紹介されるわけですが、その中に真岡郵便電信局事件の話も出てきました。
 
第二次大戦末期、樺太ソ連軍が攻め寄せてきた時、最後まで電話交換所に残った女性達が、青酸カリを飲んで自決した事件です。
事件名とか知らなくても、
「みなさん、これが最後です。さようなら……さようなら……」
とかいう台詞は聞いたことある人は多いのでは。
 
で、八木氏は、自決した9人の女性電話交換手のことを、
「日本人の公共心の高さ、責任に殉じる態度が現れたもの」
とか褒め称えるわけです。
 
……ところで、これは教育講演会なんですが。
このエピソードを教育にどう生かせと?
 
「彼女たちの行動こそ、日本人の鑑、責任に殉じる素晴らしい態度である。
お前達も、もし同じような状況に置かれたら……」
 
置かれたら?
 
自分の子どもになんと教えて欲しいかは、人によるかも知れませんが。
 
私としては、子どもたちには
「なんとしても生き残れ。命を大事にしろ」
……って、教えるべきなんじゃないかと思ったり。
 
ちなみに、八木氏は全然触れなかったことですけど、その時当直だった女性交換手は、全部で12人いたんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
で、死ななかった3人は、最初は押し入れとかに隠れててですね。
そのままソ連統治下で職員として再雇用され、日本にも無事に帰ってくるんですけど。
 
彼女ら3人は、「責任に殉じ」て死ななかった駄目な日本人なんでしょうかね?
 
少なくとも、八木氏の言う
ソ連軍は、刑務所から出てきたゴロツキみたいなのを最前線の兵士として送り込むわけですよ。だから、女性は陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです」
……というのは、この場合は事実に即してないと思います。
 
……まあ、ソ連軍がひどかったのはわりとかなり事実だと思うんですけど。

 ほぉ。
真岡郵便電信局事件 - Wikipedia

真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん、または真岡郵便局事件と呼ばれる。)とは1945年8月20日樺太真岡郡真岡町に、ソ連軍が艦砲射撃を行って侵攻した際、真岡郵便局電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)の女性12名のうち9名が自殺(自決)し3名が生還した事件。なお、電話交換手以外の局員や、この日、勤務に就いていなかった電話交換手に、自殺者はいない。電信課職員男性6名、女性2名、計8名も生還している。

昭和37年、北海タイムスに「樺太終戦ものかたり」が連載された。この事件を含め、終戦前後の樺太の事情を題材としている。「樺太終戦ものかたり」は1972年に増補改訂の上「樺太一九四五年夏―樺太終戦記録(金子俊男/著 )」として出版された。

樺太終戦ものかたり」に掲載された挿話を原作とし、脚色を施した上で映画「樺太1945年夏 氷雪の門」が1974年に製作された。映画では、他局へ自殺を連絡した後、電話交換手全員が申し合わせたように自殺をしている等、ストーリーの主要部分においても史実と大きく異なっている。映画の内容は史実ではないが、史実であるかのように誤解されることがある。映画は、配給会社である東宝の営業政策の変更により、上映直前になって配給が中止された。その後、この作品は各地の公民館などで細々と自主上映され、2006年には靖国神社遊就館にて特別上映された。

 なかなか、物語と事実の見極めが難しいようです。
 以下のところなどを参考に。
ドキュメンタリーはノンフィクションなのかについて映画『ダーウィンの悪夢』で考える
「歴史」的事件を「道徳」にしちゃいけない(「エルトゥールル号の遭難」の話・2)
「いい話」は思考能力を奪うよね - novtan別館
 美談悲劇とか、泣かせる話を政治的な人間が語る場合は、特に注意が必要でしょうか。あと、それを商売にしようと思っている人(マスコミとか小説家・映画関係者)にも。
 ぼく個人は、そういう話は「サンタクロースがいるかいないか」みたいなものだと思っています。いると信じるフリをしていたほうが、年末の金の動きがよくなるし、子供はハッピーです。
 しかし、大のオトナが、クリスマスの夜に枕元に靴下をぶら下げていてはいけません。
 それと同じく、幼稚園の先生が、いくら仏教系の幼稚園であっても「みなさん、本当はサンタはいません」と言ってはいけません。
 人は世の中のものに「美しいフィクション」を求め、それに近いものを美談化・悲劇化しますが、それによって得られる感動は本物でも、それはひょっとしたらフィクション(創作)部分が多い物語がもたらす感動かも、と、疑う必要があるわけですね。
 誰かを(何かを)愛するとか、愛さなければならない、という気持ちにさせるような物語は、これはもうほとんどが嘘です。生きることはつらくて、夢も希望もありません。過剰な愛は過剰な憎しみを生むので、暖かくする程度ならともかく、熱くするような話は斜め目線で見ていたほうがいいと思います。
(追記)「美談」を「悲劇」に変更・追加。