スタンダール終了のお知らせ(『赤と黒』の翻訳批判テキストについて)

 見出しはホッテントリメーカーで作りました。17users(推定)。
 
 以下の記事が出たわけですが、
「スタンダール『赤と黒』 新訳めぐり対立 「誤訳博覧会」「些末な論争」」本・アート‐アートニュース:イザ!

スタンダール赤と黒』 新訳めぐり対立 「誤訳博覧会」「些末な論争」
 
「まるで誤訳博覧会」−。光文社古典新訳文庫から昨年刊行されたスタンダールの『赤と黒』について、誤訳が数百カ所にのぼり、全面的な改訳が必要だと批判する書評が、スタンダールを研究する専門家でつくる日本スタンダール研究会の会報に掲載された。
 新訳文庫の訳者は東京大学大学院准教授の野崎歓氏で、これを手厳しく批判したのは立命館大学教授の下川茂氏。
 「『赤と黒』の新訳について」と題した下川氏の書評は「前代未聞の欠陥翻訳で、日本におけるスタンダール受容史・研究史に載せることも憚(はばか)られる駄本」と同書を断じ、「訳し忘れ、改行の無視、原文にない改行、簡単な名詞の誤りといった、不注意による単純なミスから、単語・成句の意味の誤解、時制の理解不足によるものまで誤訳の種類も多種多様であり、まるで誤訳博覧会」と書いた上で、「生まれてこのかた」という成句になっている「Delavie」を「人生上の問題について」とするなどの具体例も列挙している。
 また、今年3月15日付で発行された同書の第3刷で19カ所が訂正されたことについて、「2月末に誤訳個所のリストの一部が(訳者に)伝わっている。そこで指摘された箇所だけを訂正したものと思われる」と指摘。改版とせずに、初版第3刷として訂正したことを「隠蔽(いんぺい)」だと非難している。
 産経新聞の取材に下川氏は「野崎氏に会報と絶版を勧告する文書を郵送しました。学者としての良心がおありなら、いったん絶版にしたうえで全面的に改訳すべきだと思います」と語った。
 一方、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与(くみ)する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコメントした。(桑原聡)

 ということで、下川茂さんの批判テキスト(元テキスト)を探してきたよ。
日本スタンダール研究会TOP
会報バックナンバー
No.18 (2008/5)(pdf)
↑この会報の「14ページ」から掲載されています。

〇書評
赤と黒』新訳について
下川 茂
 
光文社古典新訳文庫から野崎歓訳で『赤と黒』の新訳が出た(上巻2007年9月、下巻同年12月刊)。結論を先に述べると、前代未聞の欠陥翻訳で、日本におけるスタンダール受容史・研究史に載せることも憚られる駄本である。仏文学関係の出版物でこれほど誤訳の多い翻訳を見たことがない。訳し忘れ、改行の無視、原文にない改行、簡単な名詞の誤りといった、不注意による単純ミスから、単語・成句の意味の誤解、時制の理解不足によるものまで誤訳の種類も多種多様であり、まるで誤訳博覧会である。それだけではない。訳文の日本語も、漢字の間違い、成句的表現の誤り、慣用から外れた不自然な語法等様々な誤りが無数にある。フランス語学習者には仏文和訳の、日本語学習者には日本語作文の間違い集として使えよう。しかし、不思議なことに野崎訳を批判する声がどこからも聞こえてこない。駄本の批判もスタンダール研究者の責務の一つと考えここで俎上に載せる次第である。

 フランス語はさっぱりなんで、日本語テキスト批判のところを引用してみます。

不自然な日本語も多い。「尊敬に浴する(上14)」(「浴する」のは「恩恵」)、「壁を建立させた(上17)」(「建立」するのは「寺院・堂塔」)、「幸機(上17)」(普通「好機」と書き、そうなっている箇所もある)、「頭をたてに振らない(上36)」(「振る」のは「首」、「首」となっている箇所もある)、「おっしゃるとおりに従います(上61)」(「おっしゃるとおりにします」か「おっしゃることに従います」かどちらか)、「すでにして(上62他多数)」(「すでに」の意味で使っているようだが、「すでにして」と「すでに」は違う)、「恋愛は小説の息子である(上79)」(冨永訳「恋愛は小説の申し子なのである」)、「微にいり細にいり(上171)」)(「微にいり細を穿って」か「微に入り細にわたり」か)、「心の底を割って話す(上180)」(「腹を割って」が正しく、そうなっている箇所もある)、「馥郁たる匂い(上211)」(「馥郁たる」は「香」)、「天罰が当たった(上220)」(天罰は「下る」であり、そうなっている箇所もある)、「険のある声(上430)」(「険」は顔つき・目つきに使う)、「犬たちは(・・・・・)叫び始めた(上448)」(「犬」は「啼く」か「吠える」)、「自由主義者らしさをにじませながら(下38)」(「人柄が滲み出る」とは言うが)、「金を操ってきた(下67)」(「金」は「動かす」)、「考えは(・・・・・・)破られた(下154)」(「夢を破る」とは言うが)、「口も聞かなかった(下177)」(「口」は「利かない」)、「眼中に入れない(下140)」(「眼中にない」とは言うが)、「あてずっぽうに歩きまわった(下206)」(「あてずっぽうに答える」とは言うが)、「凡々たる人生(下207)」(「平々凡々」とは言うが)、「根掘り葉掘り話して(下265)」(「根掘り葉掘り」は「尋ねる」・「聞く」場合に使う)、「あなたの胸の中で鼓動している心臓の気高さ(下495)」(「気高い」のは「心」)、「復讐ぶかくもない(下578)」(「嫉妬深い」とは言うが)等々。野崎訳は活字が大きいから目にはやさしいが、日本語の慣用を身につけた人間にとっては、たえず神経を逆なでされる実に読みにくい代物である

 さんざんです。

日本語に関しても私は野崎の能力を大いに疑っている(野崎語を使えば、氏の能力は大いなる「疑問に付され」ている)。野崎は所属する東京大学の出版会から翻訳に関する本を出し(『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』東京大学出版会、2004年)、その中で「東大生の日本語力、どうなっているんだろう」(21頁)と学生の日本語能力の低下を嘆いている。自分の事は棚に上げてよくもこんな事が言えたものである。間違いだらけの日本語を書いている野崎に学生の日本語力を論う資格はない。

野崎は直ちに現在書店に出回っている本を回収して絶版にし、全面的な改訳に取り組むべきである。一日も早く野崎訳が書店から姿を消すことを私は願っている。便々と前代未聞の欠陥翻訳を売り続けるとしたら、野崎には翻訳者・学者としての能力だけでなく、読者に対する良心もないとみなすことにする。

 なんかこのテキストの「便々と」も、用法としてはちょっとヘンな気もするんですが…それだと続きは「訳者」ではなく「出版社」を批判する文章になりそうな感じがするのでした。
 フランス語ができる人は、ぜひ元テキストを読んでみてください。