吉野作造「朝鮮人虐殺事件」を引用してみる
今日もまた引用です。
オリジナルは東大・吉野文庫にあるそうなんですが、引用テキストとしては『ドキュメント関東大震災』(現代史の会・草風館・1996年9月1日刊)に掲載されたものを使わせていただきます。
吉野作造が「関東大震災時の朝鮮人虐殺」に関して言及した、めぼしいテキストは、これと「朝鮮人虐殺に就いて」(ぼくの日記の2010年3月20日に掲載)以外はあまりないみたいなので、まぁ何かを語るための資料として。それでははじめます。当該書p169-175
一
朝鮮人虐殺事件は過般の震災に於ける最大の悲惨事でなければならぬ。之れは実に人道上政治上、由々しき大問題であるが、事の完全なる真相は、今尚ほ疑雲に包まれ、一種の謎として残って居る。或は永久に謎として葬られるかも知れぬ。予は茲では予の耳に入った諸種の事実を感銘に纏めるのに過ぎない。
ハナから吉野作造先生、「これから伝聞情報を書きます」宣言しています。でも伝聞情報は「事実」じゃないですから。
引用を続けます。
二
震災地の市民は、震災のために極度の不安に襲はれつゝある矢先きに、戦慄すべき流言蜚語に脅かされた。之がために市民は全く度を失ひ、各自武装的自警団を組織して、諸処に呪ふべき不祥事を続出するに至つた。此の流言蜚語が、何等根抵を有しないことは勿論であるが、それが当時、如何にも真しやかに然かも迅速に伝へられ、一時的にも其れが全市民の確信となつたことは、実に驚くべき奇怪事と云はねばならぬ。荒唐無稽な流言蜚語が伝播されたのは、大正十二年九月二日の正午頃からである。朝鮮人に関するものを綜合すれば、其の大要は次の如きものである。
「朝鮮人は、二百十日から二百二十日迄の間に、帝都を中心として暴動を行ふ計画をして居たが、偶々大震災が起こつたので、其の秩序の混乱に乗じて、予ねての計画を実行したのである。即ち彼等は、東京、横浜、横須賀、鎌倉等の震災地に於て、掠奪、虐殺、放火、強姦、毒物投入等あらゆる凶行を行つて、六連発銃、白刃を以て隊伍堂々各地を荒したのである。震災当時の火災が、斯くの如く大きくなつたのも彼等の所為で、隊を組みて震災地を襲ひ、首領が真先になつて家屋に印をつけると、其の手下の者が後から、或は爆弾を投じ、或は石油にて放火し、又は井戸に毒物を投入して廻つたのである。戒厳令が布かれて兇暴を逞うすることが出来なくなつて、地方に逃げて行つた。そして右の如き暴動、兇行は、朝鮮人の男のみには限らず、女も放火し、子供も毒薬入サイダーを日本人に勧めた。
尚ほ斯くの如き暴動は、決して朝鮮人のみの企にあらずして、社会主義者や露国過激派とも関係がある。」
次に其の一二の例証を示さう。之れによつて見ても、市民が如何に流言のために異常の昂奮状態に陥つたかが解る。
東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」という題下にて、次の如き記事が載せてあつた。
「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携えて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」
下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。
「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」
三
震災地の民衆を大混乱に陥れた所謂「鮮人襲来」の流言の出所に就いては、説が区々として一定しない。警視庁幹部の説によれば(大正十二年十月二十二日の報知新聞夕刊所載)流言の根源は、一日夜横浜刑務所を解放された囚人連が、諸所で凌辱強奪放火等の有らゆる悪事を働き廻つたのを、鮮人の暴動と間違へて、何処からともなく、種々の虚説が生れ、殆ど電光的に各方面に伝波し、今回の如き不祥事を惹起するに至つたのだといふ。神奈川県警察部の説に依れば、過日強盗掠奪で横浜刑務所に収監された立憲労働党の山口正憲一派が、之を流布したのだといふ。
出ました、山口正憲。これについては以下の日記を参照。→「朝鮮人虐殺のモトになったデマを流した右翼・山口正憲について」
引用を続けます。
また関東自警団総同盟其他の調査に依れば、流言の最初の出所は横浜であり、それが高津方面から、多摩川を越えて、渋谷蒲田大森品川等を経て帝都に流れ込んだのである。警視庁でも出口警部以下数名の刑事を高津署に派し、同署員と出口警部との間に押問答の行はれた事実がある。流言が東京に伝はるや、渋谷其他の方面では、警官在郷軍人等の口から市民に伝へられ、人心を一層混乱せしめ、しかして警視庁幹部も、最初此の流言を信じたことも事実のやうである。
流言蜚語の出所に就いては、今尚ほ疑雲に包まれて居るが、当時、此の流言に対する官憲及軍憲の処置が、当を得ざりし事は之を認めざるを得ない。
次に其の二三の例を示さう。
埼玉県当局の通牒
庶発第八号
大正十二年九月二日
埼玉県内務部長
郡町村長宛
不逞鮮人暴動に関する件
移牒
今回の震災に対し、東京に於て不逞鮮人の盲動有之、又其間過激思想を有する徒に和し、以って彼等の目的を達せんとする趣及聞漸次其の毒手を振はんとするやの惧有之候に付ては、此の際町村当局者は、在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して、其の警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度、右其筋の来牒により、此段及移牒候也
永井弁護士の質問
大正十二年十二月十五日の衆議院本会議の席上で、憲政会代議士永井柳太郎氏は政府に向つて質問演説を試みたが、之に依れば、九月一日、内務省(時の内相は水野練太郎氏)は、船橋無線電信を通じて、朝鮮総督府に鮮人取締りに関する電報を送り、更に山口県知事及び各海軍鎮守府にも、鮮人の不逞行為に就き訓示をした電報を送つて居る。永井氏は、流言浮説の起れるは、近来検挙を見つゝある自警団のみの罪にあらず、実に少数官吏が鮮人を恐怖するの内心より出でたるものであると断定して居る。
尚ほ官憲の態度に就いては、労働運動者及び社会主義者圧迫事件の中に引用した第十四師団参謀長井染大佐の談なるものを見れば解る。
四
次に朝鮮人の被害の程度を述べる。之れは朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、此の調査は大正十二年十月末日までのものであって、其れ以後の分は含まれて居ないことを注意しなければならぬ。一、横浜方面
1、神奈川県橋本町浅野造船所前広場
虐殺(現金五百円強奪) 四十八名
2、神奈川県警察署内
巡査刺殺 三名
3、程ヶ谷町
虐殺 三十一名
4、井戸ヶ谷町
右同(現金二百余円強奪) 三十余名
5、根岸町
右同 三十五名
6、土方橋より八幡橋に至る
右同 百三名
7、中村町
右同 二名
8、山手町埋地
右同 一名
9、御殿町附近
右同 四十余名
10、山手本町警察署立野交番所前
右同 二名
11、若屋別荘附近
右同 十余名
12、新子安町
右同 十名
13、子安町より神奈川駅に至る
右同 百五十九名
14、神奈川鉄橋
右同 五百余名
15、東海道線茅ヶ崎町
右同 二名
16、久良岐郡金沢村
右同 十二名
17、鶴見町
右同 七名
18、川崎
右同 四名
19、久保町
右同 三十余名
20、戸部
右同 三十名
21、浅間町及浅間山
右同 四十名
22、戸山、鴨山
右同 三十名
以上屍体埋葬地及数
1、久保山火葬場 千余名(横浜附近被害者)
2、青木町三ツ沢共同墓地 二百名(神奈川附近被殺)
3、金沢村(不詳)
4、茅ヶ崎町旧東海道線路火葬
5、鶴見町、総持寺山内埋葬
6、川崎町当地埋葬又は持つて帰国
二、埼玉県方面
1、川口 虐殺 三十三名
2、赤羽荒川 右同 三百名
3、大宮 右同 二名
4、熊谷 右同 六十一名
5、本庄 右同 八十六名
6、早稲田村 右同 十七名
7、神保原 右同 二十四名
8、寄居 右同 十四名
9、長沢 右同 十四名
三、群馬県
1、藤岡 虐殺 十八名
四、千葉県
1、習志野軍営倉内 虐殺 十二名
2、船橋 右同 三十八名
3、法典村 右同 六十四名
4、千葉市 右同 二名
5、流山 右同 一名
6、南行徳 右同 二名
7、馬橋 右同 七名
8、田中村 右同 一名
9、佐原 右同 七名
10、滑川 右同 二名
11、成田 右同 二名
12、我孫子 右同 三名
五、長野県
1、軽井沢附近 虐殺 二名
六、茨城県
1、筑波本町 虐殺 四十三名
2、土浦 右同 一名
七、栃木県
1、宇都宮 虐殺 三名
2、東那須郡 右同 一名
八、東京附近
1、月島 虐殺 三十三名
2、亀戸署内 右同 八十七名
3、小松町 右同 四十六名
4、寺島請地 右同 二十二名
5、寺島警察署内 右同 十三名
6、向島 右同 三十五名
7、寺島手井駅 右同 七名
8、州崎飛行場附近 右同 二十六名
9、日本橋 右同 五名
10、深川西町 右同 十一名
11、押上 右同 五十名
12、本所区一丁目 右同 四名
13、大島七丁目 右同 四名
14、大島三丁目活動写真館内 右同 二十六名
15、大島八丁目 右同 百五十名
16、小松川新町 右同 七名
17、浅草公園内 右同 三名
18、亀戸駅前 右同 二名
19、府中 右同 三名
20、世田谷、三軒茶屋 右同 二名
21、新宿駅内 右同 二名
22、四谷見附 右同 二名
23、吾妻橋 右同 八十名
24、上野公園内 右同 十二名
25、千住 右同 十一名
26、王子 右同 八十一名
右 合計 二千六百十三人
以後、ネットで、吉野作造の「関東大震災・朝鮮人虐殺」に関するテキストに言及される際は、以下のサイトのテキストを利用されることを望みます。
→「朝鮮人虐殺に就いて」
→「朝鮮人虐殺事件」