信長はなぜ本能寺で殺されたのか、あとすごい九州国立博物館

今日はあんまり時事・政治とかとは関係のない話をします。
「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」と本能寺と井戸の茶碗とすごい九州国立博物館の話です。
本能寺の変で、明智光秀によって織田信長が殺された、ってのはみんな知っているとは思いますが、なんで信長は、少数の護衛しかつけないで本能寺にその時いたのか、という理由は、知らない人もいるかも知れないのでちょっと話してみます。
実は、前日の「天正10年6月1日(1582年6月21日)」に、本能寺で茶会がおこなわれ、それに信長はどうしても出席しなければならない理由があったのです。
で、その理由とは、博多商人の嶋井宗室(しまいそうしつ)が持っていたという伝説の「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」、なんですね。
三宅孝太郎のラジオ出演2

吉田:えー、それで、明智光秀の謀反によって、本能寺で自害をする信長についてですが。信長が本能寺にいたのは、実はお茶会を開くためだったと?
三宅:そういうことですね。
吉田:これは知らなかったー。
三宅:お茶会を、なぜこの時やっていたのかというのが、ひとつの大きな疑問なんですね。謎ですね。なぜこの時にやっていなきゃならなかったか。
その時に正客として呼ばれたのが、武将でもなければなんでもない。博多の島井宗室(しまいそうしつ)という豪商なんです。なぜか? その人がスゴイ物を持っていたんです。「楢柴(ならしば)」という名物です。
吉田・小俣:へえー。ならしば!
三宅:これは茶入れです。信長がこれを、なんとしてでも手に入れたいんですよ。
吉田:あら、またまた。
三宅:「楢柴」というのは、「楢柴戦争」という戦争がおっぱじまるぐらいすごい物なんです。
吉田:えー、そんなすごいもんなんだー。戦争起こしちゃうの?
三宅:ええ。それがたまたま島井宗室の手もとにあるわけですよ。それが欲しいもんですから、信長は、この茶会に彼を招くんです。単独で招くんじゃ、あまりにも露骨すぎますからね、いろんなお公家さんたちとかも一緒に集める。それで茶会を開いて、それまで信長が集めた名物を披露します。
吉田:で、この「楢柴」は、「天下の三肩衝(さんかたつき」のひとつである、ということですね。この「肩衝(かたつき)」というのは何なんですか?
三宅:「肩衝」というのは、肩がこう突き出ているものです。さっきも言いましたように、「つくも茄子」というのは、なすのように肩が丸い。そうじゃなくて、肩がいかっているものですね。
吉田:へえー。で、信長は、この本能寺でお茶会を開いていなかったら、明智光秀に襲われることもなかったかもしれないんですよね。
三宅:んー、まず襲われることはなかったと断言できるんじゃないですか。ええ。襲うタイミングがズバリですよね。なぜかというと、本能寺に連れていったのは、70人ぐらいのお供の者たちだけなんですよ。いかにも信長は油断しているわけです。しかもその頃、信長の5軍団のうち、明智光秀軍以外の4軍団は京都にいないんです。秀吉は備中の高松に行っている。その高松が危ないっていうんで、信長が光秀に援軍を出させた。「じゃあ、行ってきます」といって行った途中で、引き返してくるんです。「敵は本能寺にあり」となる。

三宅孝太郎のラジオ出演3

小俣:あの、さっきの因縁の「楢柴」ですが、これは、その後どうなるんですか?
三宅:「楢柴」はですね……、ええっと「楢柴」は、っと(予期しない質問に、しばし頭の中の引き出しを開けたり閉めたりする三宅)。
ええ。これは、やはり大坂城ですね。夏の陣の時に、やはり燃えるんですけれど、そこから掘り起こされています。で、徳川家康のもとへと入っていくんです。
吉田:はー、家康のところに入っちゃうんだー。
あの、「天下の三肩衝」といわれる「楢柴」「初花(はつはな)」「新田(にった)」っていうのは、全て家康が手にしたっていうことですか?
三宅:ええ、そうなんです。それだけじゃない。ほとんど90パーセントぐらいの名物は全部、家康のもとへ集まってきたんです。

ええと、ぼくもちょっと調べてみたんですが、実は「楢柴」は現在どこにあるのかよく分からないんですよね。
豊臣秀吉が3つ集めたのはどうも本当らしいんですが、大阪城が落城するときにどっかへ行っちゃったのかな。もう少し調べてみます。
で、ここに名前が挙がった「初花(はつはな)」と「新田(にった)」は、所在がはっきりしているので、今でも見ようと思えば見られます(いつでも、というわけではないみたいですが。
「初花」は徳川記念財団が持っていて、美術館の企画展示があった際などには貸し出されているようです。
江戸東京博物館<企画展示室><「徳川将軍家展」>

唐物肩衝の白眉として珍重された大名物。銘の「初花」は室町幕府8代将軍足利義政命名と伝えられる。織田信長徳川家康豊臣秀吉宇喜多秀家などの所有を経て、関ヶ原の戦い後に家康へ献じられた。大坂夏の陣の戦功によって松平忠直に与えられたと考えられ、その死後、3度徳川将軍家に献上、代々伝えられた。

「新田」は、水戸にある「彰考館徳川博物館」が所蔵しています。
美術館・ギャラリー紹介 財)水府明徳会 彰考館徳川博物館

徳川家康の遺品(駿府御分物)を中心に歴代当主をその家族ゆかりの品約3万点の他、紺地葵紋付菊唐草丸文辻が花染小袖(重文)、漢作肩衝茶入銘新田 大名物(重美)、ドチリナキリシタン等を収蔵している。

財団法人 水府明徳会 「徳川博物館」- 博物館概要 -

徳川博物館は、水戸徳川家第13代当主・徳川圀順が伝来の大名道具や古文書類を寄贈して設立した財団法人水府明徳会の博物館として、昭和52年に開館しました。
所蔵品は、徳川家康の遺品(駿府御分物-すんぷおわけもの-)を中心に家康の子である初代頼房、第2代光圀以下歴代藩主や、その家族の遺愛の什宝約3万点に及びます。さらに敷地内にある彰考館文庫収蔵の『大日本史』草稿本や、その編纂のために全国から集められた古文書類約3万点からも史料が展示されます。

これの画像は、こんなところで見られます。
特集:九州国立博物館/The Nishinippon WEB 「美の国」探訪・九州国博開館記念展より=肩衝茶入 銘新田肩衝(かたつきちゃいれ めいにった かたつき) 数奇な運命たどり里帰り

「この品があるとなしでは、『美の国 日本』展の入場者数が五千人は違ってきますよ」
陶磁器研究の第一人者、東京芸術大の竹内順一大学美術館長が確信を持って言う。なにしろ竹内館長ですら、実物を見たことがない幻の茶器なのだ。
「この数十年来、展覧会に出てきたことはありません。私も何度か出展交渉をしましたが、実現しませんでした」

…美しいですね。
おいらが怪人二十面相なら、「本日○時、新田肩衝いただきに参ります」と予告状出して巻き上げてみたいぐらいです。
ところが!
以下のところによると、この「天下の三肩衝」も、茶道具としては「二等級」らしいんです。
信長の野望革新 家宝一覧-茶道具-

二等級
日本楢柴肩衝 ならしばかたつき政治+9
漢作肩衝茶入。天下三肩衝の1つ。博多の商人・島井宗室から秋月種実に渡る。九州征伐の際、降伏の印に豊臣秀吉へ献上されるが、のちに消息不明となった。
明国新田肩衝 にったかたつき政治+9
唐物肩衝茶入。天下三肩衝の1つ。村田珠光が所有したのち、三好政長、大友宗麟織田信長豊臣秀吉らに渡る。大坂落城後は徳川家の家宝となった。
明国初花肩衝 はつはなかたつき政治+9
唐物肩衝茶入。天下三肩衝の1つ。楊貴妃の油壷であったとも伝えられる。初花劣らぬ上品さと評した足利義政命名した。織田信長豊臣秀吉らが所有した。

まぁ、あんまりアテにならない価値情報ですが、そこで「一等級」になっている茶道具は、以下のようなものです。

一等級
明国 九十九髪茄子 つくもなす 政治+10
「流転の茶器」の異名をとる戦国時代随一の名物茶入。村田珠光が99貫で購入したことからこの名がある。朝倉宗滴松永久秀織田信長などが所有した。
明国 上杉瓢箪 うえすぎひょうたん 政治+10
漢作唐物茶入。天下六瓢箪の1つ。上杉景勝が所有した。所有者の名にちなんで「大内瓢箪」「大友瓢箪」の別名も伝わる。のちに紀州徳川家の所有となった。
日本 珠光文琳 しゅこうぶんりん 政治+10
漢作文琳茶入。珠光が所持していた名物の一品。所有者の名にちなんで「天王寺屋文琳」「宗及文琳」などの別名も伝わる。織田信長の手にも渡ったという。

で、「九十九髪茄子(つくもなす)」とは、こういうものです。
松永久秀と茶の湯

久秀自慢の茶入れは当時の茶人の垂涎の的であり、ルイス・フロイスの記録にも登場するほどの大名物であった。しかし、足利義昭を擁して上洛した織田信長の前には抗すべくもなく、久秀は断腸の思いでこの茶入れを信長に献上し、配下となった。
信長が本能寺に倒れたとき、この名物は本能寺に持ち込まれていたが、焼け跡から奇跡的に発見され、次いで羽柴秀吉の手に渡った。その後秀吉から秀頼に伝えられて大坂城で愛蔵されていたが、大坂夏の陣で再び兵火に掛かる。戦後徳川家康の命で焼け跡から探し出されたもののかなり破損しており、修復のため漆接ぎの名工・藤重藤厳の手に渡った。以後藤重家に代々伝えられたが、明治になって三菱財閥岩崎弥之助氏の所有となり、現在は東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に保存されている。

画像見たいですか? 見たいですよね。それではお目にかけましょう。
静嘉堂文庫美術館

静嘉堂は、岩崎彌之助(1851〜1908 三菱第二代社長)と小彌太(1879〜1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財82点を含む凡そ20万冊の古典籍と5,000点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前に供える供物が立派に整うとの意味です。
 1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4年)4月、静嘉堂文庫美術館が開館しました

静嘉堂文庫美術館:大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子

茶匠・村田珠光が九十九貫で入手し、『伊勢物語』所収の和歌「百とせに一とせ足らぬ九十九髪我を恋ふらし面影に見ゆ」から命名したという。大坂夏の陣で罹災したが、大坂城址から徳川家康の命をうけた藤重藤元・藤巖父子により探し出され、漆で繕われた。精緻な漆繕いの褒美として、家康から藤元に下賜された。X線調査で、釉と見られる景色など、表面を覆う部分は、ほぼすべて漆による修復と判明している。

ついでに、「珠光文琳」はうまく見当たらなかったんですが、「上杉瓢箪」は見つかったので、これも画像にリンクしてみます。
京都、野村美術館−トップページ
野村美術館 - galleryⅠ
http://www.nomura-museum.or.jp/nomura024.JPG(画像)
素晴らしい。
ということで、
「初花肩衝」「新田肩衝」「付藻茄子」「上杉瓢箪」いただきました(by怪人二十面相)。
以下のところにあります。
怪盗美術館・その1 | 愛・蔵太の少し調べて書くblog
画像転載上の問題がありそうなので、近日中に消す予定ではあります。
しかし、このイベント、すごかったんだな。
九州国立博物館 開館特別展『美の国 日本』公式ホームページ
井戸の茶碗」なんてのも出ていた。
特集:九州国立博物館/The Nishinippon WEB:「美の国」探訪 井戸茶碗 細川井戸 幅広く愛された名器

平成の名人、古今亭志ん朝の得意演目「井戸の茶碗」をさわりだけ。
くず屋の清兵衛、人呼んで正直清兵衛が貧乏浪人の千代田卜斎から、売ってくれと仏像を託された。細川家の屋敷で呼び止められ、家来の高木佐久左衛門が買い上げた。高木が仏像を洗っていると底の紙がはがれ、中から五十両の金が。高木は「仏像は買ったが五十両は買った覚えはない」と清兵衛に渡すが、卜斎は「売った仏像から何が出ようと自分の物ではない」。清兵衛は高木と卜斎の間を行き来し、卜斎が汚れた古い茶碗と引き換えに金を受け取ることで手を打つ。この話を聞いた細川の殿様に高木が茶碗を見せると、これが名器「井戸の茶碗」だと判明、殿様が三百両で買い上げることになった―。

細川忠興 - Wikipedia

千利休に師事し、利休七哲の一人に数えられる。和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。
父と同じ教養人でもあり、「細川三斎茶書」という著書を残している。
日本刀の著名な拵えである肥後拵えの創案者としてその名を残している。

細川家に伝わるいいものは、こちらにあるようです。
永青文庫美術館

永青文庫は、今は遠き武蔵野の面影を止める目白台の一画に、江戸時代から戦後にかけて所在した広大な細川家の屋敷跡の一隅にあります。

落語の舞台となったのは、下屋敷のほうですが。
第33話「井戸の茶碗」

麻布茗荷谷に住むくず屋の清兵衛、人呼んで正直清兵衛。清正公(せいしょうこう)様脇の裏長屋で器量の良い質素ながら品のある十七,八の娘に呼ばれる。貧乏浪人の千代田卜斎 (ぼくさい)から普段扱わない仏像を、それ以上に売れたら折半との約束で、二百文で預かる。
白金の細川家の屋敷で呼び止められ、仏像が気に入ったと、細川家の家来・高木佐久左衛門が三百文で買い上げてくれる。

今日のこれみたいなテキストをダラダラと書いて、原稿料1枚400字5000円ほどもらえるような仕事がしてみたい(補足:これはギャグというかアイロニーです)。
 
(追記)
コメント欄で以下のようなご指摘がありましたので、

# makube 『このエントリとネタ元は『へうげもの』の内容と驚く程一致しています。
既に有名な漫画ですので、ご存じないというのは不自然だと感じました。』 (2007/01/15 18:58)

改めてぼくの(人に不自然と感じさせるほどの)無知を恥じる次第です。どの程度の「一致」なのか確認しようと思って近くの書店を覗いてみたんですが、ちょっと見当たらなかったので少し足をのばして遠くの書店に行ってみます。漫画はぼく自身は日常的に読む人間ではないので、かなり有名な漫画でも読んでいないのがけっこうあるんだろうと思います。
公式ブログもあるんですね。
へうげもの official blog
「天下の三肩衝」の話も、その漫画の中ではしていましたか。
「信長がなぜ本能寺にいたか」に関しての最初の情報は、実は以下の本からだったんですが、
→『歴史に消された「18人のミステリー」』(中津文彦・PHP研究所)
ついでにその手の日本史雑学本を何冊かパラパラと見ても似たようなことが書いてあったので、あえて一冊、という形では紹介しませんでした。
なお、この『歴史に消された「18人のミステリー」』では、「楢柴」は千利休が贋物を作り、それで秀吉を試そうとしたために死罪を命じられ、家康はその贋物を本物と思い込んで宝物蔵に置いておいたんだけど、後に誰かが気がついて、明暦の大火のときだかに紛失した、ということになっている、という、いかにも小説家的な謎と謎解きを示していた記憶があります(記憶は少し曖昧)。
ちゃんとネタ本を紹介しなければいけないな、と反省したのでした。