石原慎太郎「ババア」発言はどうしてダメなのかちゃんと言っておくよ

 石原慎太郎の「ババア(ババァ)」発言については、以下のかたがたのように、どうも「文脈」を読めないで批判している人がいる気がする(追記:気がしてた)ので、前にぼくがした話を思い出しながらしてみます。やれやれ。
ネ タ の タ ネ - 無意識過剰セカイのリアリズム:オバサンが「ババァ」といわれて笑ってる訳

「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なる物はババア。」といってるのになぜ石原を支持しちゃうオバサンがいるのか問題。その中で書かれているとおり、なにも公然と「ババァ」というのは慎太郎だけじゃない。中には言われて喜んで笑っていることもある。
古いトコではケーシー高峰毒蝮三太夫、最近ではみのもんた明石屋さんまもそろそろこのお仲間か、女性相手に客イジリをし下ネタや毒舌やはたまた慇懃無礼なあてこすりを投げ付けるという罵倒芸風がある。伝統的にいえば一種の幇間芸。慎太郎を怒らないで受け取るほうは、そのノリと同じなのであろう。
では何故怒らないで笑っているかといえば、「…んなこといっても、誰の股から生まれてきたんだか」てな感じの孫悟空に対する観音の手のひら的絶対優越感、出産の意味と実績を体得したリアルメタ身体である中高年女性が多いということなのではないだろうか。ネットに生息する若い世代にとっては「ああはなりたくない」存在なのだろうが。そのようなリアルメタ身体を持ち得ない者は、文化だ伝統だ権威だイデオロギーだののメタストーリィをリアルにはりめぐらせることで、対峙を避けるのである*1が、ま、それは長くなるので割愛。。。

kmizusawaの日記 - なぜ石原を支持しちゃうオバサンがいるのか(もしくは左派に関する考察)

で、以前にも「なぜ「ババァ」発言の石原をオバサンが支持しちゃうのか」って話題を見かけたけど、そもそもそんな発言をいちいち気にしてない(もしくは気にしないことにしている)人も多いんだと思う。オバサンを馬鹿にする言動・表現ってのは何も石原だけがしてるわけじゃない。道を聞かれるときだって「ちょっとオバサン」だし、ちょっとはじけたことをすれば「オバサンのくせに」だし、ワイドショーを鵜呑みにしてスーパーに食品買いに走る行動や芸能人へのミーハー行動を嗤う場合、たいてい「主婦」とか「オバサン」で代表させられる。学園ドラマで教師のやり方に杓子定規で感情的で脅迫的なイチャモンをつけてくるPTAはたいてい中年の女優が演じている。今さら「ババァは有害」くらい言われてもなー。そもそも自分の目の前で自分に向かって言われたわけじゃないし。

 石原慎太郎の「ババア(ババァ)」発言が問題になったきっかけは、「週刊女性」2001年11月6日号に掲載されたテキストで、それは以下のところにあります(後半の一部は未掲載)。少し長くなりますが、引用してみます。
愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 週刊女性2001年11月6日号 「独占激白“石原慎太郎都知事吠える!”」を全文掲載

 この間、あるところで開高健(解説3)が書いた色紙を見たんだ。彼はいつも同じ言葉を書いたんだが、今になると美しい言葉でね。それを久しぶりに見て、なるほどなって思った。”地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える”というの。だから、京都議定書(解説4)にアメリカが参加しようがしまいが、中共が入ろうが、インドが入るまいが、われわれが努力することは、一種の自己満足に終わるかもしれないけれど、人間が知的な存在として自分の生命なり存在なりを考えた証だと思う。でも、僕は結局、人間はもうじき滅びちゃうと思うけどね
 ----人類が滅亡に向かって急いでいるということを認めるのはちょっとつらいですね。
「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、”文明がもたらした最も悪しき有害なものはババァ”なんだそうだ。”女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。
 まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。

 で、本当に開高健氏・松井孝典氏がなんと言ったかはとりあえず置いておいて、石原慎太郎が言っていることは「文明」と「それがもたらした最も悪しきものはババァ」であって、それが「地球にとって悪しき弊害」だ、ということなんですね。
 つまり、「文明が地球に有害」。
 ぼくがこの元テキスト読んで驚いたのは、考えていることがあまりにも文学者的すぎる点でした。
 政治家は、文明や文化が足りておらず、人間にとっての「最大多数の最大幸福」が満たされていないことを嘆いたり考えたりすることはあっても、「人類・人間(文明・文化)批判」は滅多にすることはありません。「人間はもうじき滅びちゃう」なんてましてのこと。
 当人も「政治家としてはいえない」とは言ってますが、言えない理由は「女性蔑視」「罵倒芸」だからじゃないですよ、文学者の考えることだからです。
 前のテキストの、ぼくが書いた部分の引用をします。
愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 週刊女性2001年11月6日号 「独占激白“石原慎太郎都知事吠える!”」を全文掲載

 俺の私的解釈では、石原慎太郎さん、やはり年のせいか人類(なんか、「人類」というものを語る政治家、というのを、俺、久々にというかほとんど初めて見たような気がします)や文明に関して悲観的になってますが、そういう「文明」を悪しきものと定め、その中で更に悪いものとしての「ババァ」に「文明」を構築した存在を見ている、という立ち位置が、文学者・石原慎太郎の姿勢で、ただそれは「リンゴを植える」という側の「政治家」としてはいえない、ということなんじゃないか、と思いました。
 解釈的には間違っているかもしれませんが、「政治家として言えない」のは、「ババァは悪しき有害なものである」ということではなく、「文明は悪しき有害なものである」というペシミズムで、そりゃ確かに、スケールが文学的スケールだから言えないだろうなぁ、と思いました(文学者としてなら言えることではありますが、そこまで言える文学者も少ないわけで)。

 ということで、「石原慎太郎が、文明・人類とその未来についてどう思っているかのおさらい」です。要するに、もう一度引用。
愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 石原慎太郎は都議会でどう答弁したのか(2001年12月11日、都議会定例会での答弁)

 次いで、私の週刊誌等の発言についてでありますが、これは私が一時間余、松井教授とMXテレビで話をしました。その後、それがどういうふうに編集されたかはわかりませんが、人間の存在をめぐるこの地球の環境悪化について、惑星物理学の泰斗であります松井さんからいろいろ話を聞いて、慄然とした思いでありました。その話の連脈の中で、彼はかなり思い切ったレトリックで、人間がいかに地球にとって尊大で、傲慢で、自然の共存の循環その他を壊してきたかという話をしております。
 結論から申しますと、今のご質問は、私の発言のごく一部を引用しているだけで、極めて恣意的といえば恣意的ですが、卑劣なデマゴーグ的な手法で、これは私は非常に危険な発言の構造だと思います。時間がたったから、皆さんお急ぎかもしれません。ゆっくり大事な話をしますので、お聞きいただきたい。
 私が松井さんとした話は、なかなか暗示的、啓示的でありまして、私、議員のころ、十数年前ですけれども、東京のある場所で、例のブラックホールを発見したホーキングの話を聞きました。この人は筋ジストロフィーで、もう死ぬ死ぬといわれて、その後長生きして、奥さんも取りかえたみたいだけれども、言葉が出ずに、コンピューターで言葉をつくって講演しましたが、その後質問が許されまして、ある専門家らしい人が、しからばこの宇宙に、この地球並みに高い文明を備えた星が幾つぐらいあるんでしょうかと聞きましたら、ホーキングが言下に、二百万ぐらいだろうと。みんなびっくりしました。そしたら、その後また若い人が質問しまして、なぜ我々は、それだけ文明の進んだ星が周囲にありながら、宇宙人とか宇宙船を、映画では見たりしますけれども、実際に目にすることはないんだろうかといったら、ホーキングは、それはあり得ない、宇宙船を飛ばすようになった惑星というのは、地球に限らず、宇宙全体の時間の総量からすると、本当に瞬間的な時間帯で不安定になって消滅する、地球も必ずそうなるといいました。
 そんな話を松井さんとしまして、松井さんは、そのとおりだといった。しかも、そのころちょうど私、ある本屋から本を贈られました。それは日本以外の、外国の人も含めて、ある専門性を持った専門家と称する人たち、これは人文科学も含めてでありますが、この文明の状況の中で、人類はあと何年ぐらい存在するだろうかという質問に対して、八五%の専門家がたしか、七、八十年から百年以内という答えをした。中には永遠なんていう人もいましたが、これは論外であります。
 私がその話をしましたら、松井さんも、実にそのとおりだ、地球なんかもう長くない。どんなに長くたって百年で人類は滅亡する。人類だけが、人間だけが存在というものを、難しくいえば、哲学の命題として心得ている。つまり、地球というものの存在を認識できる動物というのは人間しかいないわけですから、人間がいなくなってアブラムシやカラスがばっこしても、地球が存在するという形にはならない。ということで、私は、やっぱりそんなにもちませんかといったら、もたないでしょうと。
 地球に一番近い、高度な文明を持っている星というのはどこですか、宇宙の何とかという星だろうと。しかし、石原さん、それはべらぼうに遠い、とにかく太陽と地球の間の距離を十円銅貨の直径に例えるなら、それで換算すると、三十三キロある、とてもそんなものは、地球に、いかなる宇宙船でも人間が乗ってくるわけにいかないという話をしていました。
 話は少し長くなりますが、多分、私たちが行政を考える、人間のための行政を考えるために、いいよすがになると思いますけれども──共産党、嫌なら退室されて結構ですよ。(「すりかえなさんな」と呼ぶ者あり)いや、すりかえてないんだ。大事な話をしているんだよ。最後まで聞きなさいよ。長くかかると断ったでしょう。
 でありまして、松井さんは、五十万年前に人間が人間として発生した、それから狩猟を続けてきて、一万年前に人間は牧畜、農耕を始めることによって、備蓄というものを覚えて、物をもっともっと生産するという非常に強い願望を持つようになったと。そして、牧畜を通じて、この地上に生存する他の動物を人間のために使役する方法を覚えた。そのあたりから地球の自然の循環が狂ってきて、地球圏に人間圏という別の世界ができた。私はそれは文明ということだろうといったら、まさにそうです、その文明が始まってから、人間は地球に張りついたがんのようなものですと。今さらになって、危機感を感じて、地球に優しいとかなんとかいったって、そんなものはちゃんちゃらおかしい。とにかく我々はこの地球の存在の形を狂わして、ここまで来たので、百年足らずで多分人類は滅びるでしょうということを彼は平然といいました。
 そして、他の動物、他の生命とのかかわりの中で、人間が人間というものの存在の主張をし過ぎたために、非常に横暴な存在になった。そして、彼が例を挙げたのは、ほとんどの動物は繁殖、種の保存ということのために生きて、それで死んでいくが、人間の場合にはそういう目的を達せない人でも、つまり、人間という尊厳の中で長生きをするということで、彼はかなり熾烈な言葉でいいまして、私はそのときに、なるほどなといいながら、しかし、それは政治家にはいえないから、あなたみたいな専門家じゃなきゃとてもいえませんなといって、そのときに慨嘆したんだ。
 それを、私は他の座談会なりにわかりやすく説明したつもりでありますけれども、それを共産党がどう解釈するか別でありますが、いずれにしろ、私が思わずひざをたたいたゆえんの一つは、私の友人でもありました深沢七郎氏が書いたうば捨て山という、あの、要するに「楢山節考」という、年をとったそのおばあさんを、その部落の貧困のゆえに、あえて生きている人間を捨てに行くという、これは年とった女の人が、他の動物の生存の仕方に比べれば、かなり横暴な存在であるという表現の、実は逆説的な一つの証左でありまして、私はいろんなことを思い合わせながら、その松井さんの話を非常に印象深く聞いたわけです。
 ゆえをもって、私はそれを私なりに受けとめたわけでありまして、あなたは何か私の発言を撤回しろというけど、私は私で女性を敬愛しております。ゆえに私の発言を撤回するすべもございませんし、する必要もないと思います。終わります。

 要するに、「ババア(ババァ)は有害」という石原慎太郎の発言は、その表面だけ見ててはいけないよ、ということです。
 ぼくは、繰返しになりますが、政治家・石原慎太郎は、あまりにも文学者的であるために、政治家には不向きだと思っているので、都政に限らず政治的実務に関わることにはあまり肯定的ではありません。
愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 政治家は文学者であってはいけない。逆も同じ