レッド・ツェッペリン来日伝説

『熱狂の仕掛け人 ビートルズから浜崎あゆみまで、音楽業界を創ったスーパースター列伝』(湯川れい子/小学館/1800円)【→bk1】【→amazon】という本に載っていた、1971年9月の初来日の話が面白かったので抜書きしてみます。p76〜82
・ステージは2時間半。終わったあともドンチャン騒ぎで、まずほとんど一晩中寝ない
・赤坂の高級ディスコに行ったり、ホテルでお酒を飲んで、廊下を裸で走り回ったり
・2日目のアンコールのあと、ステージの袖に引っ込んだロバート・プラントが、ジョン・ボーナムに「演奏中にタバコを吸った」と怒って取っ組み合いの大ゲンカ。
・ケンカの相手はジミー・ペイジだったこともある。
・広島へ向かう夜行列車の中では、酔っ払ったジョン・ボーナムが、寝台車のカーテンを次から次へと開けて、寝ている乗客に牛乳をかけまくって大騒ぎ
・大阪のロイヤル・ホテルでは、おみやげに買った日本刀で床の間の掛け軸を叩き切って、さらにゲンコツで壁に穴を開ける。アトランティック・レコードは700万か800万円の弁償金を支払う。
・広島では原爆ドームにショックを受け、チケットの売り上げ金の700万円を原爆の被災者に寄付レッド・ツェッペリンは本当はいいグループです。
・マネージャーのピーター・グラントは、広島は血の気の多い人がたくさんいるから用心するように、と言われて、「いや、大丈夫だ、オレたちはこれを持ってるから」と答え、長い楽器ケースのようなものを開けてみせたら、その中に機関銃があった。それをガシャンガシャンと組み立てた。
アメリカでは、ホテルの窓からいくつもテレビを放り投げるという事件もあった(通行人に当たったら、普通死にます)。
・プロモーターの人間がホテルで朝起きたら、部屋の前に当時の赤い公衆電話が3つ置いてあった。
・入場者の手荷物チェックはレッド・ツェッペリン公演からはじまった。
キョードー東京はこれがきっかけで外タレのコンサートを引き受けるのをやめた。
まぁとりあえず、酒を飲んだジョン・ボーナム最強、ってことで。
ジョン・ボーナム - Wikipedia

ジョン・ヘンリー・ボーナム(John Henry Bonham, 1948年5月31日 - 1980年9月25日)は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーであった。 愛称は「ボンゾ」。

ウィルトン・ハウス公立学校を卒業したボーナムは、建設業を営む父親ジャック・ボーナムの元で働きながら合間にバンドでドラムを叩いていた。1964年に彼は初めてのバンド、テリー・ウェブ・アンド・ザ・スパイダースに加わる。その時に後の妻となるパット・フィリップスとキダーミンスターで開かれたダンスパーティで出会っている。さらに彼はバーミンガムのローカルバンド、ザ・ブルー・スター・トリオや「シーズ・ア・モッド」のヒットシングルをリリースしたザ・セネターズなどでドラムを叩いた。ボーナムは様々なバンドで経験を積みながら、ドラムを本業にすることを決意する。二年後、彼はア・ウェイ・オブ・ライフに加入するが、バンドの活動は停止し収入も途絶えがちとなり、別のブルース・バンド、クローリング・キング・スネークに加入する。ボーナムはそこでロバート・プラントと出会う。この期間に彼はイギリスで最も大きな音を出すドラマーとして評判となり、しばしばドラムを打ち破りクラブからは演奏を止めるように頼まれた

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