「できん者はできんままで結構」(by三浦朱門)の発言初出について

 以下のテキストがあったので、
人力検索はてな

「できん者はできんままで結構。できる者を限りなく伸ばすことに労力を振り向ける。やがて彼らが国を引っ張っていく。非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい。それが『ゆとり教育』の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
 
これは、2002年度から始まった小中学校の新学習指導要領の下敷となる答申をまとめた教育課程審議会の三浦朱門氏の発言だそうですが、初出の出典を御存知の方がいらしたら、御教示願います。

いやいや、斉藤貴男『機会不平等』の初版が200年11月ということを考えると、AERAが初出というのは早合点ですね。
 
改めて検索してみると、下記の産経新聞の記事が初出のようです。
 
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01254/contents/782.htm
 
ま、言うほうも言うほう(官僚に言わされているのでしょうが)ですが、出所をはっきりさせない斉藤貴男氏もちょっと「お手つき」というところで、どっちもどっちですな?。

 へー。
日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【教育問題について】

(前略)
◆できる生徒退屈させるな
 果たして以前の高い内容を必修として学習した子供たちは、高い学力をもっていたのだろうか。戦前の大学卒業者でも、文科系なら代数は二次方程式になると、もうお手上げといった人がかなりいたのではないだろうか。外国文学専攻で卒業論文はすべて翻訳ですませた人のことも耳にした。しかし、彼らの中にも社会人として、また日本の知性の代表としての責務を、立派にはたしてきた人も多い。
 同年代の九十五パーセントが高校に行き、ほぼ半分の人が高等教育機関に学ぶ時代である。大学というものを、昔の知的エリートのための教育機関、という先入観を捨てなければならない。今日かなりの大学は、旧制の公立中学でいえば二、三年生の学力者を受け入れなければならないのだ。
 共通最低学力は低くとも、人によって、その上に高度の学力をつけることを可能にする。それが近来評判の悪いユトリではないか。たとえば中学の数学三年間の課程を半年でマスターする子には、進んだ学習を可能にすればよい。
 音楽や美術の才能のある人は、学科は最低でもよいから余った時間を自分の才能を伸ばすことに使う。音楽に優れた人で、理系の科目や社会・人文関係の科目に興味を持つ子は、彼らにはその興味を満たす機会を与えたらよい。
 従来のように落ちこぼれを救うためと称して、能力のある生徒を退屈させることをやめて、必要最低限の共通学力の上に、個性的な学力をつける時代ではないだろうか。今や教育の平準化という悪平等をやめ、教育の実体を調査した上で、個々の生徒が質と分野の広がりにおいて、格差の大きな学習が可能な学校教育を、考える時代であろう。(みうら しゅもん)

 ということで、前の日記にリンク追記。
JANJANに「横山多枝子」さんというステキなおばさんがおりますが