天声人語の「友」に関する高度な引用について

 以下のところから。
asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2010年9月17日(金)

 友人とはなんぞや、の答えは色々だろうが、臨床心理学者の故・河合隼雄さんの著作中にこんなのがある。「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人」(『大人の友情』)。なかなか刺激的だ▼ある大学で、入学後1週間もしないうちに「友達ができない」と学生が相談にきたそうだ。「努力したがうまくいかない」と言う。その話に河合さんは驚いた。1週間努力すれば友達ができる、と思っていることにである▼河合さんが健在なら何を思うだろう。せっかく入った大学を、友達ができないからと中退する学生が増えているという。このため、いくつかの大学が「友達づくり」の手助けを始めたそうだ▼学生たちは、友達がいない寂しさより、いない恥ずかしさに耐えられないのだという。「暗いやつ」と見られたくない。周囲の目が気になって学食で一人で食べられない。あげくにトイレで食べる者もいるというから驚かされる▼昨今、「友達がいなさそう」というのが、人への最も手厳しい罵倒(ばとう)ではないかと、作家の津村記久子さんが日本経済新聞に書いていた。人格の根本部分を、あらゆる否定をほのめかして突くからだという。やさしげでいて残酷なご時世、学生ならずとも孤高には耐えにくいようだ▼携帯電話に何百人も「友達」を登録して、精神安定剤にする学生もいると聞く。だが、友情とは成長の遅い植物のようなもの。造花を飾って安らぐ心の内が、老婆心ながら気にかかる。

 かなり伝聞と引用情報が多いな。
 俺の場合、「知り合い」はいるけど、俺に「友」扱いで言及されても、迷惑がる人しか想定出来ない。
「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人」って、それは死体遺棄幇助の刑法犯(共犯者)…。警察への自首・出頭を勧めれば違うけど。
 ちなみに、引用元の『大人の友情』(河合隼雄)は朝日新聞社の刊行物(2005年)。天声人語で自社広告ですか!
 もうれつ胡散臭いので『大人の友情』(河合隼雄)を読むことにする…くやしい…でも感じちゃう…(胡散臭さを)。
 ということで、元テキストを探してきたので、引用する。
 当該箇所だけでもいいかもしれないけど、まるまる一章(一段)。『大人の友情』(河合隼雄)、p12-14

友だちができない
 
 友だちが欲しいのだが友だちができない。あるいは、せっかく友だちができたと思ったのに、すぐうまくゆかなくなった、という悩みは、割りによく聞かされる。大学の学生相談や、小、中、高の高校におけるカウンセリングで、比較的よく持ちこまれてくる相談内容である。
 ある大学で、入学後一週間もしないうちに相談に来た学生が、「どうしても友だちができないので困っている。どうしたら友人ができるか教えて欲しい」と言ったので、カウンセラーもびっくりしてしまった、という話を聞いた

 また伝聞情報かよ。まぁいいや、続けます。

 その学生によると「一生懸命努力努力したのだが、どうもうまくゆかない」とのことだが、何より驚くのは、一週間努力すれば友人ができると思っていることである。

 俺も伝聞情報をすぐ信じてしまう河合隼雄さんに驚いた。続けます。

 この大学生は、友人というのをどのような人だと思っているのだろう。むしろ、欲しいと思っても、なかなかできないのが「友人」だ、とも言えるのではなかろうか。これに対して、この学生は「欲しいと思ったものは、すぐ手に入るはずだ」、「それには、何かよい方法があるはずだ」と思っている節がある。だから、相談すれば、よい「答」がもらえると思うのだろう。しかし、世の中はそれほど簡単ではない。特に「友人」に関しては。
 と偉そうなことを言ったが、じゃあ、「お前は、友人というのはどんな人のことを言うのか」と正面切って訊かれると、ちゃんと答えられるだろうか。それに、われわれは、「ほんとうの友人」などとわざわざ「ほんとうの」という形容詞をつけたりする。とすると、友人にも、ほんものとにせものがあるならば、ほんものとにせものとの見分けは、どこでしているのか、ということにもなってくる。こうなると、あんがい難しい。
 こんなとき、私はかつて、ユング派の分析家、アドルフ・グッゲンビュールの「友情」についての講義を聞いたときのことを思い出す。そのとき、彼は若いときに自分の祖父に「友情」について尋ねてみたら、祖父は、友人とは、「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」と答えた、というエピソードを披露してくれた。

 えー!?
 グッゲンビュールという人の祖父→グッゲンビュール→河合隼雄天声人語、という伝言ゲームですか。
 それは少し高度すぎて、素人にはついていけない。
 まぁいいや、続けます。

 これは極めて具体的でわかりやすい。この具体的な例は、いつどんなことがあっても、と一般化できるし、もう少し具体性を持たせて、「どんな悪いことをしたとしても」と言えるかもしれない。ここで「かくまってくれる」と言わず「話に乗ってくれる」と言っているところが注目すべきところだ。しかし、わざわざ「黙って」とつけ足しているのは、疑ったり、怒ったりせずに、ともかく無条件に話に乗ろう、ということだ。つまり、深い信頼関係で結ばれているし、話に乗って何とかしよう、という姿勢も感じられる。
 確かにこれは素晴らしい、「究極の友人」ということにもなるだろう。現実にはそこまではいかないにしても、もう少し広い意味で、お互いにある程度考えは分かっているし、共通の興味や関心事があり、会って話し合うのは楽しい、という程度のものもあるだろう。このような広い意味、狭い意味の両方を心に留めながら考えてゆくことにしよう。

 引用終わり。
「アドルフ・グッゲンビュール」って、正確には「アドルフ・グッゲンビュール=クレイグ」というらしい。
ADOLF GUGGENBUHL-CRAIG(docファイル)

Adolf Guggenbuhl-Craig (AGC). 1923-2008. AGC was one of the most important teachers and writers at the Jung Institut until the time of his death.

 グッゲンビュール=クレイグが若かったとき(20代)に祖父(60〜70代)に訊いたこと、と想定すると(それ以外の想定も容易だけど)、1940-50年代の話なんだろうか。さらにもう2世代前の人のことなので、とうてい現在に適用は不可能。まず、「車(自動車)」というのが設定的に「その時代に一般的ではないのでは?」とか思ってしまう。あと「話に乗ってくれる」は、ドイツ語で言ったのかな? 実際には(原語では)何て言ったんだろう、と、もう到底調べられないところにまで想像が及ぶ。それはともかく。
 一緒にヤクやって殺してしまった女性の友人(これは明らかに「友人」のレベル以上のものだと思う)がいた押尾学氏には「どうしようか」と相談するような友人はいたのだろうか。
 ゲイのカップルに丼投げつけて暴言吐いてブログ閉鎖した(と伝えられる)瓜田純士氏に、今現在相談する友人はいるのだろうか。
酒が全然抜けない状態で一時間しか寝てないから 吉野家に来て 水がぶ飲みして牛丼三杯頼んで... . PETAPETA

酒が全然抜けない状態で一時間しか寝てないから
 
吉野家に来て
水がぶ飲みして牛丼三杯頼んで
何でか吐きそうになりながらかき込んでたら、
 
目の前にうるせぇゲイのカップルがなんだか
食べながらホモトーク
みたいのしてたからさ
 
スゲェ頭来て 丼投げつけて さらに水ぶっかけて
叫んだら
店員は110番しようとしてっからさ

 いろいろ気になるところであります。
 どちらもハードル高い芸なので、俺には無理。「牛丼三杯」の時点で無理。エクストリーム友情。
 
 おまけ。
 こちらはどうだろう。強く結ばれた絆 友情!
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