座談会・もしも本土決戦が行われていたら(1)
これは中央公論増刊・歴史と人物「太平洋戦争----終戦秘話」(1983年8月20日号)に掲載されたテキストです。
出席者は以下のとおりです。カッコ内の肩書きは掲載時のものです。
・高山信武(たかやまのぶたけ)(当時、陸軍省軍務局軍事課兼参謀本部第三課高級課員兼大本営陸軍参謀・陸軍大佐)
・藤原岩市(ふじわらいわいち)(当時、第五十七軍高級参謀・陸軍中佐)
・近藤新治(こんどうしんじ)(当時、戦車第二十八連隊中隊長・陸軍大尉)
・千早正隆(ちはやまさたか)(当時、海軍総隊・連合艦隊参謀兼第一・第二総軍参謀・海軍中佐)
・野村実(のむらみのる)(当時、海軍兵学校教官兼監事・海軍大尉)
・檜山良昭(ひやまよしあき)(作家)
司会:秦郁彦(はたいくひこ)(拓殖大学教授)
座談会 もしも本土決戦が行われていたら
アメリカ軍の日本本土侵攻必至の状況において、日本陸海軍はいかなる決意と構想をもって圧倒的な敵を迎え撃とうとしていたのか!
風雲急を告げる
【秦】 まず、日本本土決戦という想定がいつごろ出てきて、どのように固まっていったか、高山さんからお話しください。
【高山】 本土決戦準備が本格的に始まりましたのは、昭和19年の末ですね。そのころ太平洋の天王山だと称された比島の戦況が日ましに我に不利になってきたものですから、いよいよ本土決戦の準備を進めなくてはいけないということになりました。
その当時、外地にあった日本軍の総兵力は約270万人で、対米・英・濠軍正面が約107万6千人、対ソ連地域いわゆる関東軍関係が約57万5千人、シナ大陸方面が約105万人となっていました。これに比して日本本土内における兵力はきわめて微弱で、陸軍兵力は、師団が8個と、留守師団が14個、その他若干の旅団などです。陸軍の航空機は約1千機程度でした。
そこで、参謀本部作戦課は、新たに本土決戦のための作戦計画を立案しまして、その構想のもとに、大本営が大軍備充実計画と動員計画を策定したのです。その作戦構想の骨子の第一は「大本営は、敵の本土上陸に際して、一挙にこれを撃滅し、敵の企図を破摧(はさい)する。敵の当初の主上陸方面を南九州方面と予想する。状況により、関東地方方面に一挙上陸を企画することあるべし」で、これはアメリカの日本進攻計画とぴったり合っておりました。
第二に、本土防衛作戦のための、所要兵力の算定ならびに動員計画の骨子について申し上げますと、「作戦計画実施のためには、少なくとも約50個師団を基幹とする兵力を必要とする。そのために、おおむね7月末を目途として次の兵力を新設する。師団44個、旅団16個、戦車旅団6個、その他」となっています。
右の新設兵団を含みまして、動員計画は次のように考えておりました。第一次動員は20年2月完了予定として、沿岸配備師団18個の動員を完成する。第二次動員としましては、4月上旬完了予定で、決戦師団8個と、特別戦車旅団6個を考えておりました。第三次動員は7月末完了予定で、沿岸配備師団11個、決戦師団7個、特別混成旅団16個でした。この動員によって、戦闘員の総数は約150万人、兵站その他の諸部隊を合算すると約200万人に達し、既存の兵力と合わせて235万人になります。
防衛作戦実施のための各兵団の組織ならびに配置は、次の通りです。東日本の防衛担当は第一総軍で、司令官は杉山元(はじめ)元帥です。司令部の所在地は東京で、東北方面に第11方面軍、関東地区に第12方面軍、中部地区に第13方面軍を配置しました。西日本の防衛担当は第二総軍、司令官は畑俊六大将で、司令部の所在地は広島です。四国・中国地区に第15方面軍、九州地区に第16方面軍を配置しました。
つぎに航空総軍ですが、司令官は河辺正三大将で、司令部は東京です。兵力としては、第1航空軍、第6航空軍、第30戦闘飛行集団、その他の錬成飛行隊や教育飛行隊です。他に第1挺進団がありますが、これは空挺部隊です。
地上部隊配置の重点とその概要を申しますと、部隊配備の重点は、第一に関東地区で、第12方面軍を主体として、第36軍、第51軍、第52軍、第53軍、東京湾兵団、高射第1師団、その他で、師団の総数が22個です。九州地区が第二の重点地区で、とくに南九州を重視しておりました。ここは第16方面軍が主体ですが、第40軍、第56軍、第57軍、高射第4師団、その他で、師団総数合計15となっています。航空作戦については、海軍はとくに敵上陸軍の輸送船団に対する特攻攻撃を重視していましたが、陸軍もそれに関連して、特攻部隊を要請していたのです。
【秦】 高山さんは、このときは作戦課にいらした……。
【高山】 作戦課の戦力班長でした。
【秦】 立案の中心的配置におられたのですね。
【高山】 はい。作戦課ですからね。
【秦】 本土防衛計画の本格化は比島決戦がうまくいかなくなってからということですが、ガダルカナル戦の体験者である宮崎周一さんが作戦部長になったのは本土決戦に備えての人事という説もありますね。またその前に、第36軍が編成(19年7月18日)されています。これは本土決戦用だといわれていますが、どうなんですか。
【高山】 宮崎さんは、比島決戦の時期に作戦部長に就任(19年12月)したのです。そのころから本土決戦準備を少しずつ始めたと申してもよいでしょう。
【近藤】 私は戦車学校の教官をやっていたのですが、サイパンが陥ちたあとに、本土内の陸軍の実施学校を全部改編して、本土決戦に備えようということで、教官から中隊長に転じました。ですから、中央の考え方も、少しずつ変わっていったのではないでしょうか。
【高山】 そういう動きもありましたが、本格的な作戦計画を作り、兵備充実計画を作ったのは、比島決戦の途中からです。
【藤原】 レイテ、ルソンの「捷一」号作戦は、文字どおり天王山の決戦なんですよ。あそこで海軍は、水上戦力も航空戦力も主力を失っていますね。陸軍だって、精鋭師団をあそこに注ぎ込んで潰している。私なんかちょうどビルマのインパール作戦から帰って、制空権のない戦さ、めしのない戦さとはどんなものかを骨身に徹して味わっていました。レイテの段階で、なぜ大本営が、戦争終結に何とか導こうと考えなかったのかふしぎでなりません。
高山 陸軍関係に関する限り、その議論はぜんぜんありませんね。レイテ作戦で負けたから、あるいは比島天王山がダメになったから、戦争は止めた、終戦に導こうという考え方は、陸軍全般としてはありません。ただですね、有末精三(大本営情報部長)さんが、内々に、ソ連を仲介にして和平工作をしたらどうかという意見を言い出したことがあるんです。それがきっかけで、木戸(幸一)内府あたりが、ソ連仲介の和平工作を押し進めようとするのです。しかし、有末部長が言い出したときも、参謀総長、陸軍大臣はじめ陸軍首脳部は、ソ連仲介の和平工作なんて纏まりっこないよという態度でした。
【藤原】 比島が一段落すると次が「天」号作戦(沖縄戦)と「決」号作戦(本土決戦)になる。本土決戦に備えるために一番困ったことは、レイテが失敗したが、本土はからっぽだ、急いで決戦準備をせにゃいかんということでしょう。ところが大動員する時間がない、陣地も作っていない。そこで前方の南西諸島とか、台湾、小笠原諸島を利用して、時間を稼ぐ、いわゆる前方の持久作戦を考えたと思うのです。ですから、「天」号作戦とは、「決」号作戦と一環のものと私は考えています。
海軍はね、残存兵力といっても航空しかも特攻機主体のものしかないんですね。ほかに「大和」以下の第2艦隊が瀬戸内海に閉塞しておりましたけど、これも特攻に出してしまった。それこそ最後の力をふりしぼって、海軍は「天」号作戦を徹底的にやったんです。おそらく7月の上旬までやられたんじゃないかと思いますね。それで陸軍が、おつき合いはごめんだと言い出したのが6月初めごろです。
現在、そのことを考えてみると、海軍の中でも首脳の一部の方は、重臣層の意見も入れて、3月ごろから4月、5月の間に、沖縄にすべて賭け、もうどうにもならんということにし、陸軍も追随せざるを得ないという形で、終戦に持っていくという考えがあったんじゃないですか。
【千早】 陸軍は「捷」号作戦の敗北で実に哀れな状態になりました。水上部隊は全滅し、航空部隊も使い込んで、本土に残った航空機は数はあっても大した戦力にはならない。それに一番の問題は、油がなかったことです。だから海軍としては、いわゆるまともな戦争は考えられない状態でした。20年の3月20日に出された「帝国海軍当面作戦綱領」。これには当然本土作戦が入っていますが、要点は、航空および舟艇で特攻攻撃をやるというものです。軍艦ではなく舟艇ですよ。防備の重点は、関東方面と南九州、それから重要海峡。ほかに港湾の防備強化、日本海における海上交通の確保を挙げているのです。このころは、まだ「天」号作戦も発動していないんです。
「天」号作戦となりますと、これは藤原さんが言われたように、時間稼ぎですよ。しかしいちど始まると、海軍はほんとに腰が入っちゃったですね。陸軍の第6航空軍も連合艦隊司令部の下に入れていただきまして、非常によく働いていただいた。「大和」も出撃して、沈んでしまった。「天」号作戦では、沖縄がダメだとなったときに、陸軍のほうは抜けてしまいましたが、海軍は続けましたよ。7月ごろまでやってます。
【藤原】 海軍は20年の1月ごろまでは、レイテでつぶした飛行隊を再建するのに数ヵ月かかる。だから「天」号作戦をやるなら、東シナ海周辺の航空作戦は陸軍でやってくれ、5月ごろになったらおつき合いできるかもしれませんという話だった。ところが、3月に作戦が始まると、海軍は一所懸命になられた。
【千早】 なりました。むきになりました。
【藤原】 第6航空軍も一所懸命やったけれども、陸軍は本土決戦の頭があるから、多少出し惜しみをしたかもしれません。そこで海軍からもっと飛行機を出せと矢の催促で、督促を受けたのですね。そこの裏には、私がさきほど言った考えが首脳の一部にあったのではないか。
【千早】 海軍の統帥部には、それはないんです。しかし、米内大臣は、早く戦争を止めたいという気持ちが非常に強かった。
【高山】 私もその通りだと思います。最後の最高戦争指導会議の段階でも、軍令部総長は、徹底抗戦を主張しておられたんですから。
【野村】 米内光政は海軍大臣になってからは、可能なればできるだけ早く戦争を止めたい、という不動の考えを持っていました。海軍次官になった井上成美も、一日も早くという考えですね。ですから軍令部は別として、海軍省の首脳は、なるべく早く終戦に、という考えを持っていたのは疑いないところですね。
それと、19年6月のマリアナ沖海戦後、天皇は終戦を望んでおられた。高松宮が、そのことを海軍省と軍令部の重要な政策を担当する部長や課長の実力者のところに直接言いに行ってるんですね。これには、証言があるんです。高松宮が来て、厳然たる態度で、「天皇はいかにしてうまく負けるかということをお考えになっている」と言った。で、海軍省でも軍令部でも、首脳部の中核は、天皇は戦争を止めたいと思っておられるということは知っているんです。ただ口に出して言わないだけです。
ところで海軍は陸軍と違って、何か作戦があれば、ある一点へ全兵力を集中できるんですよ。比島沖海戦のときもそうですし、沖縄戦のときもそうなんです。そのために全力を集中した後は、しばらく次の作戦の具体的な計画というのは立てられないのです。ですから、本土決戦をとにかく準備しようと真剣に、具体的に考え出したのは20年6月です。
【千早】 陸軍のほうから、本土決戦で、陸上戦闘となった場合には、海軍部隊を陸軍部隊の指揮下に入れろという要求が出ている。これに海軍は抵抗して、格好だけの海軍総隊司令部をつくりました。これが4月25日です。
【野村】 陸軍が総軍をつくるなら、同レベルでという気持ちなのではないですか。
高松宮の発言の証言者が知りたいです。
まだまだ続きます。