沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(3)

これは以下の日記の続きです。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2)
 
これは、『裁かれた沖縄戦』に掲載されている、1988年2月10日の「沖縄出張裁判」における安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化してみたものです。
元テキストは、『裁かれた沖縄戦』(安仁屋政昭編・晩聲社・1989/11)p23-124です。
原文の「注(頭中)」も、注釈として掲載します。
ただ引用しているだけではナニなので、ときどきぼく自身の意見や疑問点なども書くことにします。
安仁屋政昭証言テキスト・3

42・昨日、大田証人が鉄血勤皇隊の一員であったという経験を踏まえて証言をなさいましたが、いわゆる学徒隊というのはいろいろ形態があったようですが、どのような。
 それは、誤解のないように、本土における学徒動員というものと全く別であるということを申しあげておきます。学徒出陣*1ですね。学徒出陣は、本来、兵役年齢に達している者が戦場に赴くわけですけれども、沖縄の場合は中等学校・女学校の生徒なんですね。師範学校の場合は、二〇歳に達する者がいると思いますが、ほとんどが二〇歳未満の子どもたちであります。防衛召集規則によりますと、一七歳以上の者はそれに当てはまって、法的に戦場動員できるわけですけれども、それ以下の子どもたちも戦場動員をしている。で、女学校の子どもたちに至っては、これは当時のさすがの法体系と言えども、戦場動員する法的根拠ございませんから、義勇隊という形で、特殊看護隊とか、義勇隊とか、護郷隊とか、救護班という、さまざまな名前で戦場動員をしております。これも繰返しになりますけれども、工場における勤労動員とは全く別物なんで、戦場に動員しているんだ、ということです。
43・意見書の一三ページから一四ページに書かれておりますけれども、ところで沖縄で徴兵制度がしかれたのは、いつごろですか。
 明治三一年
44・徴兵事務の担当は沖縄警備連隊司令部で、後に沖縄連隊区司令部ですね。
 「沖縄警備隊区司令部」、後に「沖縄連隊区司令部*2」。
後に提出する甲第二九九号証を合わせ示す
45・明治四三年度沖縄警備隊区徴募概況という文書ですね。
 はい。
46・防衛庁戦史室に保管されているものですが、これはどういう文書なんですか。
 これは、軍が、沖縄連隊区司令部、徴兵事務を執っている中で、沖縄県民を観察して言っているわけですけれども、一言もって言えば、軍事思想に乏しい、国家思想が薄弱である、徴兵を忌避する、ややもすれば「兵役ノ大義務ヲ免レントスルモノ多シ」などと指摘しております。
47・もちろん、古い明治時代のことですから、当時の軍事思想とか国家思想などというのは天皇軍国主義下の国家のことを指しているわけですね。
 そうです。
後に提出する甲第三〇〇号証を合わせ示す
48・三〇〇ページ以下、大正一一年一一月付の沖縄連隊区司令部の部外秘の文書ですけれども、軍が県民をどういうふうに見ていたのかという特徴的な部分を指摘してください。
 まず、皇室、国体に関する観念、徹底していない、と。で、沖縄県民の短所という形で指摘しているわけです。「進取の気性に乏しく、優柔不断、意志甚だ薄弱なり。」「遅鈍、悠長にして敏捷ならず。」「無気力、無節制、責任観念に乏し。」「軍事思想に乏しく、軍人と為るを好まず。」などと指摘し、特に沖縄県民はハワイや中南米、フィリピンなどに移民が多いわけですけれども、移民をしている連中、元々国家思想・国家観念に乏しいのに、彼らは西洋人と接触していて、非常に悪い影響を及ぼすであろうという意味のことを述べているわけです。
49・昨日来、いわゆる皇民化教育*3と言いますか、金城証言・大田証言でありましたけれども、こういう当時の政府なり軍なりの沖縄県民に対する見方の結果が、皇民化教育、その徹底という方向で進んで行くわけですね。
 はい。
50・そういう見方というのは、沖縄戦の中でも採用して行くわけですか。
 もっと厳密に言えば、沖縄県民に対する軍の不信感というのは頂点に達していた*4、というふうに言うべきだと思います。
51・甲第二九八号証の八九ページ、証人が指摘をされた牛島司令官の訓示の中の「防諜ニ厳ニ注意スベシ」----県民をスパイ視するということは、軍全体の見方だったんですか。
 そういうふうに思います。
52・司令部の考え方がそういうふうに見ているということになりますと、そういう基本的な見方というのは各部隊でも採用されて行くわけですね。
 そのとおりです。
後に提出する甲第三〇一号証を合わせ示す
53・大城将保編・解説の「沖縄秘密戦に関する資料」の中に出ているもので、球軍会報*5ですね。沖縄県民をスパイ視すると思われる部分を指摘してください。
 これは球軍の軍司令部日々命令録という中にとじられているわけですけれども、大変象徴的だと思うんですね。「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」----スパイと見ると。地方語、沖縄の方言を使う者はスパイと見る、と。これは、言ってみれば、当時の状況から見れば、沖縄県民総スパイ視ということを第三二軍の方針として通達したというふうに考えられるわけです。
54・今も沖縄方言を使う人はいっぱいおりますけれども、標準語が話せなくて方言しか使えないという人は、たくさんいたんですか。
 たくさんのりますし、日常家庭においては沖縄方言で話すのが、ごく普通。共通語をもって話すというのは、学校とかお役所での話しなんですね。
55・たくさんの人たちが、そうしますとスパイ視されるという事態になるわけですか。
 はい。
56・甲第二九五号証の一二ページから一九ページに書かれております、日本軍のために住民が殺害をされているという事例についてお尋ねします。日本軍のために沖縄の住民が殺された事例というものがありますか。
 事例ですか?
57・はい。
 これは類型的に申しますと、一番全体をカバーするものとしては「スパイ視虐殺」ということだと思います。もう少し細かく申しますと、壕追出し、食糧強奪、投降阻止、乳幼児虐殺などがありますけれども、虐殺の場面では全部スパイという形で虐殺をしている、ということです。
58・壕追出しというのは、壕を追い出された後で死んだということと、それから壕を軍に渡してくれないと言いますか、壕追出しを拒否したと言いますか、そのために殺されたという事例なんかもあるわけですか。
 もう少し具体的に申しあげたいと思います。「壕追出し」という言葉を平時の感覚でとらえられると困ると思うんです。壕追出しというのは、住民が積極的に軍隊に対して「どうぞ、お使いください。」ということで壕を提供して出て行ったのではないんですね。壕追出しの具体的な場面は、沖縄の南部戦線の地域を御覧になったらよくおわかりと思いますけれども、ここには私どもの調査で約三〇〇の鍾乳洞、自然洞窟がございます。これは長さで八〇〇メートルから一〇〇〇メートルのもあれば、二、三十メートルのもあれば、四、五メートルのもあるわけです。それから御先祖様の墓があります。亀甲墓*6というこれは開いてみますと、四畳半くらいの広さがある。中には一〇畳ぐらいの広さもある。そこに隠れているわけですね。なぜ壕追出しをするかということですけれども、米軍に追い詰められて逃げ場のない、周囲を囲い込まれて逃げ場のない段階で、住民を壕追出しにかかるというのが、ごく一般的な形です。だから、壕を出てから二、三日たって死ぬというのは、これはなかったとは言えませんけれども、ピクニックに行くわけじゃありませんから、火の海の中に出て行くわけですから、その場で死ぬのと同じです。そういう意味では、壕追出しというのは、壕内にとどまるも死、出て行くも死、と。だから、壕追出しというのは、質的に日本軍が直接手を下して殺したのとどこに違いがあるかということを言いたいわけです。もう少し説明させてくださいあ。壕の外と中は、かなり区別してお考えのようですけれども、そうじゃないということです。砲爆撃で洞窟そのものが火の海になっているわけです。壕の入り口は、まさに壕の内なのか外なのか、わからないわけです。そういう中で、「壕追出し」という言葉が使われるわけですから、平時の感覚でとらえてもらっては困ると思います。
原告代理人(伊志嶺)
59・壕追出しの話が南部方面でとりわけ多かったという話がありましたけれども、今までの調査研究で、日本軍のために住民が殺されたという事例は、地域的にはどういうところで発生しておりますか。
 これは沖縄県の全域で、あるということです。
60・地上戦のあった地域ももちろんあったかと思いますが、地上戦のなかった地域でもあるわけですか。
 そのとおりです。
61・南部方面の話がありましたけれども、糸満市の真栄平の事例についてお伺いします。
後に提出する甲第三○三号証を示す
これは第二四師団司令部史実資料という文書のコピーですね。
 はい。
62・これの触りの部分を指摘していただけませんか。
 これは状況をちょっとお聞きいただきたいと思います。六月下旬、三二軍が正に崩壊する寸前であります。牛島司令官、長参謀らは六月二三日に自決したということになっていますけれども*7、その直前、六月二○日に二四師団の司令官が将兵に対して発した訓示であります。その訓示のポイントを申しますと、統一的な指揮が困難になったと、各部隊は現陣地付近を占領し……この言葉は後で非常に気になる言葉ですけれども、最後の一兵まで闘って敵に出血を強要しろということ。いやしくも敵の虜囚となり恥を受くるなかれ、つまり戦陣訓で言うところの、生きて虜囚の辱めを受くるなかれということですね*8、そういうことを言っております。
63・これが出された時点というのは、いま、証人自身が言われた六月下旬で、沖縄戦のいわゆる組織的な抵抗が崩壊をする、この間もなく後で牛島司令官が自殺をされますね、長参謀長と。
 はい
64・そういう中で、組織的な戦闘体制といいますか、それが崩壊した後も真栄平では戦闘が続けられたと、こういうことなんですか。
 そうです。もっと正確に言いますと、第三二軍としてはもう組織的に崩壊しているわけですけれども、この真栄平地域の盆地では、なお牛島司令官らの自決以後、一週間以上にわたって戦闘を続けて、六月三〇日に二四師団はそこで自決をしているわけですね。
65・真栄平というのは、場所的にいうと、真文仁の牛島司令官が自決をしたと言われている場所からどのくらいの。
 そこから北に三キロから四キロくらいの地点で、ちょうど島尻半島の真ん中よりちょっと南になりますか。
66・この真栄平で、戦闘の中でどういう住民虐殺と言いますか、住民の被害があったんでしょうか。
 そこは、行って御覧になったらよくおわかりと思いますが、盆地になっていまして、周囲をぐるっと米軍によって包囲されていると、集中砲火を浴びているわけです。その中で、日本軍は住民の避難している洞窟に殺到します。この主な洞窟が三つございますけれども、住民を追い立てるわけです。出て行かない者はその場で殺害をすると。先程から申しますとおり、ピクニックに行くわけじゃありません。火の海の中に追い出されていくわけですから、それは出て行くということ、即、死であるわけですね。そういう形、これは真栄平の部落の人達だけではごさいません。中部方面からこの盆地一帯に逃げ込んできた住民は恐らく一万人近いものであったと考えられます。で、これは戦後の遺骨収集でまだ裏づけがなされておりますけれども、真栄平の人達が、戦後、この地域で週骨した骨は四五〇〇体を超えております。

(感想その3)
なかなか細かくなってきて面白いのですが、みなさんはいかがですか。
(調べたいことのメモ)
戦場動員された女学校の子ども(生徒)の、具体的な状況。
「明治四三年度沖縄警備隊区徴募概況」を探してみて、他の区の「徴募概況」とどの程度違っているか確認する。
「大正一一年一一月付の沖縄連隊区司令部の部外秘の文書」には、他にどのようなことが書いてあったのか確認する。
「新聞記者であろうと、警察官であろうと、沖縄人は信用できない」と言った司令部将校は誰なのか。
「沖縄の女性は、せっけん一個で貞操を売る。将校の慰安婦になってありがたく思え」という「暴言」は誰が言ったのか。
「戦争に敗けたのは、沖縄人がスパイをはたらいたからだ」といって住民を拷問・虐殺した者は誰なのか。
「牛島司令官の訓示」を確認する。(全文はここにありました→「牛島司令官訓示」)
「球軍会報」の、引用部分の前後を確認する。
当時の沖縄の「方言」「標準語」の使用状況について確認する。
「壕追出し」をおこなった部隊名と具体的な状況について確認する。
タイプミスと思われるものがありましたら、コメント欄でご指摘ください。
 
 これは以下の日記に続きます。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(4)

*1:学徒出陣は、大学や高等学校・専門学校の学生生徒に対する徴兵猶予を停止して入隊させたものである。一九四三年九月、東条英機首相みずからラジオ放送をして戦力拡充・防衛強化を発表し、兵役年齢に達した学生生徒を入隊させることにした。これによって、法文科系統の学生生徒は徴兵検査をうけて同年一二月に入隊した。

*2:一八九八年、沖縄県に徴兵令が施行され、当初は沖縄警備隊区司令部が徴兵事務をあつかった。一九一八年に沖縄連隊区司令部と改称し、第六師団の管轄下におかれた。沖縄連隊区司令部は、沖縄県民の軍隊嫌い・徴兵忌避をきびしく糾弾し、民間への軍事思想の普及・中等学校の軍事合同演習なども実施した。

*3:皇民化教育は、近代沖縄の教育の基本であった。沖縄は一四世紀以来、独自の琉球王国であったが、一七世紀初頭から琉球処分までの約二七〇年間は、薩摩藩に支配されてきた。本土とは風土も異なり言語の偏差も大きかった。皇民化教育は、沖縄県民を「日本化・臣民化」していくことであったから、沖縄の歴史と風土に根ざした文化を否定し、地域の有識者層を上から大きくつかみとって事大主義・中央指向の意識を注入していった。

*4:一九四四年から続々と沖縄に進駐してきた日本軍のなかには、沖縄県民を同胞と考えない者がいた。「新聞記者であろうと、警察官であろうと、沖縄人は信用できない」という司令部将校の発言、また「沖縄の女性は、せっけん一個で貞操を売る。将校の慰安婦になってありがたく思え」などという暴言もあったという。沖縄戦の戦場では、「戦争に敗けたのは、沖縄人がスパイをはたらいたからだ」といって住民を拷問・虐殺する者もいた。このような日本軍のふるまいは、個々の将兵の行為というよりは沖縄守備軍全体の姿勢であった。

*5:「球軍会報(たまぐんかいほう)」は、第三二軍の隊内向けの広報紙である。第三二軍は通称「球部隊(たまぶたい)」といったので、広報紙に球軍会報とめいめいしたのであろう。

*6:亀甲墓(かめこうばか)は、外形が亀甲状になっている墓で、沖縄の全域にみられる。墓の中には共同体の人びとの遺骨が骨壷におさめられていた。内部の広さは畳を数枚も敷くことができた。沖縄戦のとき人びとはこの墓の中から骨壷を出して避難壕として使った。

*7:摩文仁の洞窟で牛島司令官と長勇参謀長が自決したのは、一九四五年六月二二日というのが定説である。従来は、六月二三日とされていたが、軍事記録等の分析によって、六月二二日の未明に自決したことが確認されている。

*8:戦陣訓は、一九四一年、東条英機陸軍大臣の名で全陸軍に告示した戦意高揚の訓諭である。沖縄戦では、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」といって日本軍は住民にも戦陣訓を強制した。沖縄の住民がアメリカ軍の保護下に入ることを日本軍は絶対に許さず、ときには収容所の住民を襲撃して殺害することもあった。軍人に対する訓諭を、住民に強制するということは、当時の法規範のもとでも違法であった。