製糸工場の工女は結核にならない?(その3):『あゝ野麦峠』許すまじ

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051030#p1
 
ということで、岡谷蚕糸博物館というところが出している『岡谷蚕糸博物館紀要』を読んでみました。普通に岡谷蚕糸博物館の人に頼めば販売してたりするし、国会図書館にバックナンバーがあります。
で、この紀要の中に、当時糸引き工女だった人の「聞き語り」などが毎号載っているのでそれを紹介しておきます。当時の工女の暮らしとか娯楽・仕事の状況などけっこうわかって面白いです。ただ、全文紹介するのは量もあるので、『あゝ野麦峠』に言及している奴だけ。
第一号は「武井はる子」さん(明治32年生まれ・聞き取りは平成7年7月)。p9

野麦峠」って映画、ああいうこともあったかも知れないが、わしゃーの周囲にはなかったね。途中で病気になっても、仕事仕事って、ああゆうあわれなことはなかったね。*1
寄宿舎じゃ、きまりがあって、時間までは本を読んでいようと字を習おうと何してもいいが、消灯時間がすめばちゃんと一緒に消しちゃうでね。
でもね、針仕事を教えたり、襦袢や単衣物ぐれえできなきゃいけねえ、みんな縫わしたりね。時間割ちゅうのが決まっていて、針仕事をしない晩は字を教えたりね、そういうことは昔だったけど、よくやったねえ。
ほしてね、工場で具合悪くなった時なんかね、よく見てくれたぞね。そういうことは、なんちゅうか徹底していたね、悪けりゃお医者様がすぐ来るとか。悪くなっても仕事させとくなんちゅう、そうゆうことはなかったね
家へ帰るときは汽車へ乗ってね、そして岡谷へ来るときはたいがい夜着くだわね。そうしりゃー長い竿でもって高張りってね、こんな大きい提灯、それにどんな大きいローソクつけるか知らないが、こんな大きい提灯をマルト(注:工場の名前)ならマルト笠原組とかね、山吉組とか、みんな出迎えだわね、今よりかもそういうことは盛んだったね、工女様々でね
子供たちも、仕事、仕事、仕事の中でもって、大きくなったちゅうくらい。大正3年から昭和7年ぐらいまで製糸で働いたんね。

同じ号の「紙上座談会〜岡谷の製糸〜」から。複数の名前がありますが省略して、聞き取りは平成5年10月〜平成7年9月。p17

・旅から来て病気すればキリないけどね、わしたちの時代(大正初期)には、そんなに怒って休ませなんだってゆうことないけどね、今へー、そんなショウ(衆)いないら
・あれ(野麦峠)極端だったでしょう、極端だねえ。(映画みて)あの当時の事業主が本当に怒ったそうですね。岡谷のイメージダウンしちゃったものね、あんなこと、いろいろのこと、時として少しはあったけも知れないが、(映画は)度が過ぎたね。
・(男衆は)お国のためといって戦争してますもの、一生懸命働かなきゃー、そういう気持ちはあったね。
・へえ、3年ぐらい前借してて、お金を一銭も使えねえだものな。家へ帰らねえ人もいた。
・あの野麦峠のようにね、あんなひどいことはね、あんなんじゃなかったと思うな、あんなばかってえことは。そんな病気の人、無理して働かせるなんてこたーなかったね。
1年契約だで、工女様々ってとこだってあったしね。昔のことだでわからねえが。

まぁ、この座談会も実は「職場環境がよくて長生きができた人たち」が生き残ってしているのでは、大変な職場環境で死んでしまった人の「当時の証言」は、それはそれであるのでは、という疑問も残りますが(どの人も70歳越えてて、最高齢は93歳です)、映画『あゝ野麦峠』についてはどうも「フィクションが過ぎる」という気がします(横浜の米軍機墜落事故を物語にした『パパママバイバイ』という絵本やその映画と同じですね→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041017#p3)。
当時の製糸工場の「病気」に関する証言は、こんな感じです。p16

・大正の初めの頃は、具合悪いというと帳場の衆が医者さんとこ連れてってくれた。薄情のもん(者)じゃなかった。
・大正の終わりごろだったが、会社に病室があって看護婦さんがいた。病気でなくても、休みになると「どう、いいかな」って来て見てくれた。
・昭和2年ごろ、保険証ってものがあってね、入院したりすると保険が下がって、軽い病気のときは使ったお金より下がったお金のほうが多かったくらい。
・寝室の一部が休養室にあてたったね、看護婦はいなかったが連絡するといつも医者が来てくれた
・岡谷病院、ありゃあ製糸共同病院だっつら、みんな工場には行きゆけの医者がいたわ。たまにゃ身体検査とかね、そうゆう衛生管理も相当やったで。ほいだで、どこよりも早く岡谷の製糸家が金だして共同病院(を造った)、みんなでね。
・戦後は工場に看護婦いたんだもの、ちょっとの風邪ぐれえのは薬あったし、嘱託医もいた。

あと、当時の娯楽の話などもついでに。p15

・一番よかったのは花見だな、下諏訪の水月園まで行った。そこまで歩きで、バスもなかった頃だで。鶴峯(公園)とか、塩嶺(公園)とかも行った。
・会社でね、1年に2、3回、芝居みたいなのね頼んできたり、見に連れていったりした。松っつぁーなんか、芝居みてて羽織脱いで投げたなんてゆっちゃあ笑ったけど。
・みんなどこの製糸家も、お盆や花見とかにはヤグラ組んで踊った、よそからみんな見に来た。それで工場ん中で芝居やってねえ、自分たちだけで。
盆踊りは昌福寺でやった。あの「岸本」ってしらねえかなあ、映画の弁士付きの工場回ってあるくあれ、年に5回ばかあったかな。映写機持って、フィルム3本ばかり持って来た。そうだ、演芸会も年に2回ほどあって、みんな一張羅着て見に行った。みんな楽しみで、今なんてお盆なんていったって、なんにもありゃしねえ。
・盆踊り好きな人がいてね、女でもねえ、あの時分オテンバの人がいてね、面白かったね。
運動会は会社ごとにやった。覚えのいい人たちに遊戯を教えてね、今でも思い出すねえ。
・岡谷中の工場が集まって、中谷原頭(現やまびこ公園グランド辺り)で運動会あってね、楽しかったね、あの頃はなんにもなかったもんね。
・お盆にはね、今の岡谷病院の前あたりに大きい軽業がかかったりね、そしてずっと西の方に見せ物がいっぱい来て、賑やかかった。家にいるショウ(衆)はいなくて、みんな洒落こんで出て行っちゃあね、その頃は明るい気分でね。あの頃の方がよっぽど賑やかかった

つらいことは多く、楽しいことは少なかったみたいですが、楽しいことも記憶に強く残っているみたいです。
次に『岡谷蚕糸博物館紀要』第3号から、小口登志子さん(大正2年8月生)の聞き語り。聞き取り日は平成8年7月19日。p10

あゝ野麦峠」はテレビで観たが本は読まない、そんなもの。そんな苦しみをして糸取らなかったぜ。あんなの特別じゃあない、知らんけえど。ほんまかなあ、どうか知らねえけど。あんなの明治の話だっていうけどそんなの。だって伊那は伊那、甲州甲州、みんな責任者が一人いて工女を連れてったもんで、そんな衆が工女が死ぬまですっぽかしておくわけがねえ。あんなの作り事じゃあねえかと思った。テレビのように、口減らしにみんなよこしただもん、向こうの生活へはもう帰りたくないっていう、ひどい生活のとこから来ただもんでね。ほいでこっちへ来りゃあ、まんま食って仕事して給料貰えたもんで、布団もただだし、お風呂もただだったもんだで。自分の家にいりゃ風呂へも入れねえ、ご飯も…ご飯なんてねえだもんで。あの話、ほんとかどうか信じられねえけどさあ、そういう生活したこたあねえ。そんないじめられて仕事したことなかったもんでね。糸取りってそんなへぼいもんじゃあなかったで

まだまだいろいろありますが、最後のキメに経営者だった吉田館・社主夫人の吉田愛子さん(82歳)の話から。
『岡谷蚕糸博物館紀要』第2号p10

昭和48年に会社の百年祭を開いた時のことです。ウチの工場に来て働いた方は、たくさんいたわけですから、新聞広告を出しましてね、どうしてもお出掛けいただきたかったから、3日間にわたって市民会館をお借りしてやりました。あの方は知ってるなあ、来ていて知ってる型だなあと思う方ばかりでしたけれども、(来るかと思っていたのに)みえない方がたくさんあったわけです。
ちゅうことは、(吉田館の百年祭は)この『あゝ野麦峠』の本が出てしまってから後のことですので、当時の子供さんたちもね、おふくろさんてあんなとこで働いていたのかっていうようなことを言われたり、自分も世間に恥ずかしいという、そういう気持ちを持っておいでじゃないかなって、私はそんなことを思いました。なんでお国のためと思って、立派な仕事をやったみなさんが、そんな卑屈な思いをしなければいけないのかなと、本当に気の毒に思いました。
そのうちに、野麦峠のところに何か記念碑を建てるような記事を新聞で見ましたもんで、私もすぐに村長様にお電話しました。どうかこういうことがありますので、そのことを良く胸におかれてお作りくださるようにってね。そしたら村長様はよくわかりましたって言ってくださいましたがどうなりましたか。見たこともありませんけどね

あゝ野麦峠』の映画の、ハッピーエンドなリメイクを、働く女性(というかオンナノコ?)が好きな宮崎駿にでもアニメ化してもらいたいと熱烈思いました。
 
これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051103#p1

*1:2010年7月25日追記:僕は原作の話をしていたのですが、お婆さんの話は映画ですね。気がつかなかったので追記しておきます。