「目の梁に気がつかないあなた」といってイエス・キリストが責めた「あなた」ってそもそも誰なんだろう

すみません、まだもう少し続きそうです。
以下のところのコメント欄から。
「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」(マタイ七・三、ルカ六・四一)(追記あり)

あ、愛蔵太氏のブログも見てる人間なんですけど。
このエントリの「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」って箇所の訳は別にこれでいいです。
ただ、この言葉の背景として、当時イスラエル法主義者達が律法に違反しているものを見てイエスキリストが言った言葉なんですよね。
そして、この言葉は「神」であり「教師」であるイエスキリストが言った言葉だから説得力があるわけなんですよ。
さらに言うなら現在のキリスト教会では、この言葉は自戒の意味で使われることが多く、他人に使う言葉ではないと言っておきますね。
だって、キリスト教の人はそんなこと他人に言えるほど自分を偉いものだと思ってはいけないって教えですし。
ですから、この言葉を他人に使ったときに言える言葉は「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」です。
キリスト教の人間にとってはですけどね。
あ、ちなみに根拠は僕が牧師先生から聞いた話なんで、URLとか提示できないんで、不快ならスルーしてください。
JOSHUA13 | 06.22.06 - 2:40 am | #

へぇ。
一応、訳されたテキストの微妙な違いは無視するとして、ちょっと前後はどういう文章になっているのか興味を持ちました。
これは、キリスト教徒でないぼくも知っているぐらい有名な「山上の垂訓」の一節ですね。
山上の垂訓

マタイによる福音書 第7章
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤では量り与えられる。あなたは兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、「あなたの目のおがくずを取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

どうやらこれは、人を裁いている人に対する注意みたいです。単純に「お前のほうが見えてないくせに何言ってんの」みたいな、ことわざで言うと「五十歩百歩」とか「目くそ鼻くそ」のようなものではない、という感じ。
話の流れから言うと、
1・「バターン死の行進なんていうけど、歩くの簡単」(パラフレーズ)という人が出てきた。
2・それに抗議する人が出てきた。
3・抗議する人の抗議のしかたはおかしい、という人が出てきた。
4・抗議のしかたは別におかしくない、という人が出てきた。
という状況でしょうか。
で、実際に何か具体的に、「人を裁いて」いる人は誰か、という感じです。
3と4の人は「裁いている人」ではなくて、3は2に、4は3に「異議申し立てをしている人」ですね。
そうすると、1か2の人でしょうか。
1は、確かに「戦争犯罪で有罪にした人」を裁いているように見えます。
が、まぁ、普通には「有罪になった人」を弁護しているように見えるだけです(あまりうまい弁護・擁護ではないので、このような形では反・歴史修正主義者にたやすく批判されるばかりか、歴史修正主義者にも味方されそうにないですが)。
2も別に、1の人を裁いているようにも見えません。「弁護人に対する異議申し立て」という感じで、裁判においては検事的な感じでしょうか。
ぼくの知っている限りでは、第二次大戦の戦争行為について裁いたのは、「極東軍事裁判」とか「ニュルンベルク裁判」しかないんですが。
えーと。
キリストは「裁く側」の「目の梁の大きさ」について何か言っている人(広義の歴史修正主義者)ということでいいんでしょうか。
ちょっと違うな、「お前ら、裁く前にすることがあるだろう」と言っているわけなので、ただの平和・嫌戦争主義者ですかね。
まぁ、もう少し考えてみます。
 
(追記)
正しく使おうと思ったら、「戦争犯罪を裁いている戦争犯罪者に対して、それと同じ属性を持つ人間」ぐらいしか使えそうにない言葉でしょうか。アメリカ人とか。
(2006年6月22日)