聖書の間違った引用と意味を考えないで引用する人について(特にプシュケー)

こんなのがあったので、ちょっと興味を持ちました。
平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研:「右の頬を打たれたら…」の謎

最近、私が見たそんな「謎」は「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい "But whoever strikes you on your right cheek, turn to him the other also."」という言葉です。新約聖書マタイ伝の中に書かれているイエス・キリストの言葉です。この言葉を聞いた人が書いた、「あれ?ふつう右利きの人がほとんどですよね?だとしたら、右の手で相手をぶつんだから、(頬をぶたれる側の人からすれば)左の頬を打たれることになるんじゃないですか?最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問を眺めたのです。…確かに、不思議です。世の中の90%くらいの人が右利きだということを考えると、ぶたれる頬は「左頬」が自然です。相手から「右頬」を打たれる、というのは何だか不自然です…?
そこで、Wikipedia の"Turn the other cheek"の項や、「右頬を…」という言葉を解説した文章を読んでみると、とても興味深い(もっとも支持されている)説を知りました。それは、この言葉で勝たれているのが、「右手の甲で相手の右頬を打つ」という状況だった、ということです。

(太字は引用者=ぼく)
まぁ、あとはあちらのテキストをご覧になっていただくとして。
確かに「へぇ」なのです。
で、ぼくの日記では、過去に聖書の間違った引用(というか、聖書のテキストに関してあまり深く考えない人によるとぼくが判断した引用テキスト)を2つ紹介しています。
「目の梁に気がつかないあなた」といってイエス・キリストが責めた「あなた」ってそもそも誰なんだろう
「あなたは兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」という聖書の言葉は、単純に「お前のほうが見えてないくせに何言ってんの」みたいな、ことわざで言うと「五十歩百歩」とか「目くそ鼻くそ」のようなものではなかった!
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい
↑これは、「イエスを試して、訴える口実を得るために」言われた言葉に、イエス・キリストが「とんち」で答えた言葉だった!
ということで、ちょっと思い出したことがあったのでここに書いておきます。
沖縄戦において「集団自決」が軍の命令として存在したか、ということに関する裁判(正確には教科書裁判)で、曽野綾子さんという人(作家でクリスチャンの人)と、現地のクリスチャンというか牧師の金城重明さんという人が、聖書の中のある語・あるフレーズについて意見交換をした、というテキストがあります。
例によって引用しておきます。『「集団自決」を心に刻んで』(金城重明・高文研)p185-186

ところで、教科書訴訟で私が提出した『意見書』の中の聖書に関わる部分について、「解釈に誤りがある」と曽野氏から指摘されて、厳密性を欠いたことを反省させられたことについても述べておきます。「集団自決」で生命軽視の極限の世界に投げ込まれた私が、新約聖書・マタイ福音書一六・二六の「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか、また、人はどんな代価を払って、その命をかいもどすことができようか」との言葉に出会い、「人間の命の重さを知らされ、目からうろこが落ちる思いがした」と述懐している箇所です。
それに対して、曽野氏は、「あの命(ギリシャ語のプシュケー)は戦争でも失われない永遠の命のことで、金城先生の聖書解釈は間違っている」とのご指摘でした。その通りでありまして、私は一六、七歳のころキリスト教の信仰に入って間もなく、よく意味が分からない聖句をそんなふうに感じとったので、何らの説明も加えないまま、『意見書』に体験的な事項として記載してしまったのです。したがって、曽野氏からのご指摘を受けたことは、大変よかったと思っております。プシュケーというギリシャ語が、地上の命・生命の原理・人間の内的生命の中心・地上の命を超越した霊的命などの幅広い意味をもっているということを知るのは、牧師の常識であり、また、キッテル編『新約聖書ギリシャ語神学辞典』を引けばすぐ分かることであります。

と、これだけ読むと「無知なリベラル牧師を、保守派の曽野綾子氏が聖書解釈でぎゃふんと言わせた」みたいな感じなんですが、以下のようなテキストもあったりするので「ちょっと待った」なのです。
ようこそパルーシアへ

□「プシュケーのいのち」論争
 
金城氏はおなじ教科書裁判の証人として立ったとき、聖書の言葉「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか、また人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ6:26)を引いて、人間の命の重さを語った。曽野綾子氏は「あの命(ギリシャ語のプシュケー)は戦争でも失われない永遠の命のことで、金城先生の聖書解釈は間違っている」と指摘したと言う。すると金城氏は自分の聖書解釈の誤りを認めた。(同書、185頁)。「プシュケー」(命)について、いろんな解釈があるのかも知れないが、少なくとも、聖書に出てくるブシュケーは永遠の命ではない。プシュケーは生きとし生きるもの、生まれて死にゆく「限りある命」をさしている。野の花・空の鳥の命は人間の命と等しく限りある命、プシュケーである。永遠の命は「ゾーエー」であって、「プシュケー」は限りある命である。曽野綾子氏は戦争でも失われない永遠の命というが、そうではなくプシュケーの命は戦争で失われる命だ。そのゆえに大切にされなければならない命である。金城氏のはじめの発言は間違いではなく、訂正する必要はない。曾野綾子氏の指摘こそ間違いに基づいている。大事な問題だと思う。再検討してもらいたい。

これは面白いことになってきた、と少し調べてみました。
女子学院 「JGニュース」

エス新約聖書には「いのち」に当たることばが二つあります。新約聖書ギリシア語で書かれていますので、ギリシア語で言いますと、その一つは「プシュケー」という言葉です。「プシュケー」は心理学を意味する英語Psychologyの最初の2音節「サイコ」(ローマ字読みでは「プシュコ」)の語源です。「魂」の意味にもなりますが、新約聖書では、人間だれもが衣食住によって今現に生きている「いのち」を指します。
マタイ6,25「だから、言っておく。自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。いのちは食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(ルカ一二22-23も参照)
マルコ8,38「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか。自分のいのちを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
おそらくどちらの言葉も、皆さんはこれまでの学園生活で何度も読んできたことでしょう。これらの言葉での「いのち」は「プシュケー」、私たちが今現に衣食住によって生きている「いのち」を指しています
さて、「いのち」を意味するもう一つのギリシア語は「ゾーエー」と言います。英語で動物園のことをZoo「ズー」(ローマ字読みでは「ゾオー」)と言いますね。その語源です。
(中略)
これらの言葉もまた、皆さんはすでに何度も聞いてきたことでしょう。しかし、こちらの「いのち」(ゾーエー)は人間が今現に生きている「いのち」ではなく、まだこれからそこへと入ってゆかなければならない「いのち」であることに注意してください。「いのちに通じる門は狭い」のです。その「いのちに与る」ことが二度繰り返された後、最後の三番目には、「神の国に入る」こと言い換えられています。新約聖書はこの「いのち」(ゾーエー)のことを「永遠のいのち」とも呼んでいます。

00.4月:死の傍観者

ヨハネは「命」という言葉を2種類の言葉で書き分けています。ギリシャ語でいえば、プシュケーとゾーエー。プシュケーは肉体的な命、生物学的な命を表します。それに対してゾーエーという言葉は、例えばヨハネがしばしば用いる「永遠の命」とか、「命のパン」とか「命の水」というときに使われます。また「わたしは復活であり、命である」というときもこのゾーエーが使われます。このゾーエーは肉体的な、生物学的な命ではありません。生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続け、働き続ける命を指しています。日本語訳の聖書では、このプシュケーとゾーエーをまったく同じ言葉に翻訳してしまっているところが気に入らないところですが、ギリシャ語で読み比べてみると、特にヨハネに於いてはこの2つの言葉が非常に念入りに使い分けられていることが分かります。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。この場合、命という言葉はプシュケーです。生物学的な「命」を友のために捨てる。しかしそのことによってゾーエーとしての命は終わらない。むしろ一層強く輝きはじめる。 ヨハネの言葉の使い分けを知れば、言葉の解釈がひと味違ってきます。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。ここでも羊のために捨てられる「命」は、プシュケーです。イエスはプシュケーとしての命は捨てたけれども、むしろそのことによって、ゾーエーとしての命を保っていくのです。ヨハネに於いて、プシュケーとゾーエーはそういう関係にあります。

さて、こういう問題に関してはぼくはまったく無知なので、実はどこがどういう風に本当なのか・間違っているかの解釈はできません。まぁ要するに、「素人は黙ってろ(聖書の引用なんかするな)」と言われても仕方ないんだろうなぁ、ということですね。
そういうのにくわしいかたのご意見を、コメント欄などでおうかがいできたら、と思います。
ただ、なんとなく曽野綾子さんの「プシュケー」に関する解釈のほうが間違っているように、ぼくには思えるのですが。
沖縄の「集団自決」に関する裁判の「意見書」テキストを早急に探して読んでみたいと思います。