昭和天皇は1988年4月25日、生涯最後の誕生日記者会見で何を話し、その日は何をしたのか。それと「昭和天皇発言メモ」の検証

 これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060723/singan
 
 ということで、以下の本を読んだわけですが(アマゾンで手に入るかなぁ、一応リンクしておきます)
吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇(中村賢二郎・文芸春秋
 ちょっと、資料的に読むのはもったいなさすぎる本だったのでした。
 驚くのは季節ごとに記録されている昭和天皇植物まわりに関する知識と薀蓄で、「これは○○で、××なのだ」と、どんな樹木や草に関してもほとんど即座に説明したりしていることですね。はっきり言って植物オタク。「雑草という草はない」と言う名セリフを残したり*1、誕生日が亡くなられた後「みどりの日」という記念日になったりするのも無理はないなぁ、という感じです。とにかく皇居からほとんど出られなかった人なので、趣味と研究の両面での「植物観察」は、深くならざるを得ないというか。
 で、例の「昭和天皇発言メモ」について調べるために、生涯最後の誕生日記者会見がおこなわれた日の部分を読んでみたわけなのでした。
 実は、その記者会見というのは、「4月29日の朝刊」に掲載するために、実際には誕生日の前、「4月25日」におこなわれているんですね。
 以下、引用なんですが、植物に関する記録部分はちょっともったいないので、画像が見えるようなサイトにリンクを貼っておきます。それから、質問者と陛下の太字を除く、本文中の太字はぼく(愛・蔵太)によるものです。p172-179

林鳥亭(四月二十五日)
 
 爽やかな陽春の気候である。気温も二十度くらいであろうか。吹上御文庫の侍従候所で一時に卜部侍従から交代の引き継ぎを受けて、そのまま一緒に車で林鳥亭*2へ回り、三時に予定されている天皇誕生日前の宮内記者会とのお会いの会場の下見をする。
 南側の庭に向かって中央に陛下の御席が設けられ、それに向かい合ってやや細長い和室の中に廊下まではみだして二列に十五社三十人の椅子席が用意されている。奥の床の間の棚には、明治二十一年に島津忠義が献上した薩摩焼子など五点の調度品が飾られ、床には清風作の玳白磁花瓶が置かれ、堂本印象画千代田城の画幅が掛かっている。
 亭の南面に広がる芝生は澄みきった空からの光を浴びて輝いている。芝生の西側にハクショウの成木が一本立っている。その傍らのが花を開いている。陛下は昨日の日曜日の午前のご散策で、桜林のクサノオウの花の群落をご覧になった後、竹林でウラシマソウをご覧になり、竹林の脇の門から吹上の外へお出になられて、林鳥亭までいらっしゃってハクショウをご覧になられたらしい。
 午後三時七分前に吹上御所御車寄せをお車でお発ちになって、三時二分前に林鳥亭にお着きになる。お席につかれるとすぐ、三時ちょうどに質問がはじまる。
 
幹事記者 昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。ご健康についてどのようなことを心がけていらっしゃいますか。ご回復に伴いご公務が増えていますが、ご感想などお聞かせ下さい。
陛下 体調は良く回復したし、四月に入ってからもほとんど毎日宮殿や生研に出かけていますが一向疲れる様子もなく、大分余裕があると思いますが、侍医の意見を尊重して、無理のないように努めています。
笠原記者 産経新聞の笠原と申しますが、陛下はもちろん昨年の手術は初めてのご経験であったのですけれども、手術が決定した時陛下はどうお思いでしたか。
陛下 えー、医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした。
朝比奈記者 毎日新聞の朝比奈でございますが、陛下、最近の皇后さまのご体調はいかがでございますか。
陛下 皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ膝の故障があるので、歩くのに不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。その他のことについては落ち着いたようであります」
幹事記者 御生研での研究が再開されましたが、ヒドロゾアの研究や『皇居の植物』の執筆などについてご苦心された点などをお聞かせ下さい。
陛下 えー、普通の学者は研究に専念することができますが、私の立場では、公務の余暇にしなければならないので、研究がどうしても断続的になりますから、成果をまとめるためには長い年月が必要であります。その長い間には分類の進歩や材料の進歩のために、今までの研究を見直す必要があります。材料の、材料や情報の入手には困難な時もあります。出版については、陛下の出版については、えー、準備中でありますから、ここでは話はできません。なお、私は語学力が少ないために十分の研究ができないのであります。
 植物の場合には、林道等の開発のために植物が消失することもありますが、多くの場合はその位置にあるので観察は便利であります。たとえば、佐藤人事院総裁が城山付近で発見したアズマシライトソウが林道の開発のために消失する危険が非常に大きかったので、人事院総裁は私に寄贈してくれましたので、皇居にその植物を植えたのでありますが、幸いに皇居の庭の様子が現地の林相と非常に良く似ていましたので、生長が非常に良くあります。私が人事院総裁と一緒に散歩した時に人事院総裁が悲しみと共に喜びを私に語ってくれました。
 動物の方は、どうしても動くことが多いので観察はなかなか困難であります。健康のために磯採集や海底の観察ができないこともあります。えー、えー、できないこともあります。
 とつとつと、時々考えこまれるように途切れながらお話をされる。
幹事記者 先日、五十年以上にわたって陛下にお仕えした徳川さんが退任され、退任の記者会見で終戦直前の御前会議や録音盤事件の思い出を印象深い思い出として語られましたが、陛下の徳川さんをめぐる思い出をお聞かせ下さい。
陛下 えー、えー、この徳川侍従長に対しては思い出が深いのでありますが、特に終戦の時に、録音盤をよく守ってくれたこと、戦後全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、肋骨を折ったことがあります。
 徳川侍従長はよく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備のために、語学力を利用してその準備を良くしてくれたので親善訪問がだいたい成功したように思われます。
幹事記者 今年は陛下が即位式をされてから六十年目に当たります。この間、いちばん大きな出来事は先の大戦だったと思います。陛下は大戦について、これまでにも、お考えを示されていますが、今、改めて大戦についてお考えをお聞かせください。
陛下 えー、前のことですが、なおつけ加えておきたいことは、侍従長の年齢のためにこのたび辞めることになりまして私は非常に残念に思っています。
 今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。
朝比奈記者 陛下、先の大戦のことでございますが、昭和の初めから自分の国が戦争に突き進んでしまったわけですが、その時々に陛下は大変にそのことにお心を痛められたと聞いておりますが、今戦後四十数年を経て、日本が戦争に進んでしまった最大の原因は何だったというふうにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
陛下 えー、そのことは、えー、思想の、人物の批判とかそういうものが、えー、加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思っています。
幹事記者 陛下は昨年、沖縄県民に、健康が回復したらあらためて訪問したいとのお言葉を示されました。現在大変お元気そうにお見受けしますが、沖縄訪問について、今のお気持ちをお聞かせ下さい。
陛下 えー、私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、えー、健康が回復したらばなるべく早い時に旅行したい考えを述べましたが、今日(こんにち)もその精神につきましては何(なん)にも変わっていません。
幹事記者 沖縄で一番になさりたいことは何でしょうか。
陛下 そういうことは、えー、今後の県の希望もありますから、そういうこと、将来のことについては述べることは躊躇したいと思います。
 
 記者会からの質問はあらかじめ調整して届けられており、卜部侍従が打ち合わせに上がっておよそのお答えの内容はできていたのだが、幹事の記者の質問に対して漏らされることもなく、少し余分につけ加えられたりして、無難にお答えになる。幹事以外の記者からの突然の質問にも当意即妙にお答えになっておられる。ほぼ予定どおり、三時十六分に終了する。三時十八分に林鳥亭をお発ちになる。
 お車が林鳥亭を離れると間もなく、
「あのね、時間が足りなかったんじゃない」
 とお尋ねになる。
「いえ、ちょうど予定どおりでございました」
「そう。どうも忘れたりしていけないね。思い出すのに時間がかかって。おかしいことを言ったんじゃないかな」
「予定されたことは全部仰られましたし、特におかしいところはなかったと思います」
 お車が吹上の正門を入ったところで、
「高木侍医長東宮さまのお風邪のことでご報告申し上げたいそうでございますが、お居間にお帰りになられてすぐでよろしゅうございましょうか」
 とお伺いすると、
「ええ、よろしい。ただ、その前に中村が来てくれ。渡したいものがあるから。それから、お茶は侍医長が帰ってからにするからと女官に伝えてほしい」
 と仰る。
 三時半過ぎに高木侍医長が出て、ご報告を終え、庁舎へ帰って間もなく、インタホンが鳴って、
侍医長はまだいるかい」
 とお尋ねがある。
「庁舎へ帰りました」
 とお答えすると、
「それじゃ、中村、ちょっと来てくれ」
 と仰る。
 お居間へ上がると、
「さっき高木は東宮ちゃんのこと、ヘリコプターの風のせいではないかと言っていたが、私の考えでは、私の乗ったのと同じであれば、室の気密のせいで音がうるさくて聞き難いんだ、だから声を出さなくちゃならないんだ。ジョルダンの皇太子と一緒に筑波へ行ったんでしょう。だから、ヘリコプターの中で声を出したからではないかと思うんだ。風のせいではなくて」
「大きな声を出されたからですか」
「そう。私がそういう感想を持っていると侍医長に伝えてくれ」
「承りました」
 五時十分頃卜部侍従が吹上に来る。ご会見後の記者会の空気をお伝えに来たという。
「『大分余裕がある』と仰ったあたりは特に良かったと言っていましたよ」
 こちらからも御上が気にされていたことなどを伝える。
 二時前に林鳥亭の下見から帰って来た時、地主山の辺りでコジュケイの大きな啼き声が聞こえていた。御所の東玄関の前に白い花が浮かんでいる。二株のシロヤマブキが枝いっぱいに満開の白花を咲かせている。

 ということで。
 記者会見の内容については、新聞記事からのコピペだとは思うんですが、ネット内のあちこちで見ることはできたとはいえ、「えー」とか、昭和天皇の息吹が伝わる長文テキストはこれが一番のようなので、類似を意識しながらも転載してみました。
 だいたい、「アズマシライトソウ」とか、動植物に関しては省略されがちなんですが、なんかジョージ・ルーカスオプティカル・エフェクトの話をさせるようなもので、ちょっと質問するとどんどん、ものすごい勢いで話を続けそうな気がします。
 
 さて。
 例の「昭和天皇発言メモ」について、もう少し考えてみます。
 実は、ぼくの日記のコメントで、少し興味深いものがありまして、
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060722/p1#c

# rnahttp://www.grips.ac.jp/profiles2000.10.1/hijyoukin/gerald,curtis/gerald,curtis.htm
カーティス教授はこの方ですね。ていうかはてなキーワードにもなってますが。
メモについては
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060720ig15.htm
のように、記者会見「について」後日尋ねたメモと見るのが一番しっくりくると思いました。いずれにせよメモ書きで脈絡が分かりづらくて素人にはよくわかりませんが。
徳川侍従長の会見メモ説だと「徳川侍従長の引退会見」が28日にあったというのが絶対条件ですが「確定」という割にはそこがスルーされてるような。。。』

 ということで、こんなのを。
7月21日付・編集手帳(読売新聞)

 昭和天皇が北陸を巡幸されたのは、終戦の翌々年である。第一夜の夕食に出た鰻(うなぎ)をきれいに召し上がった。翌日の新聞に「お好きらしい」と記事が載る。行く所、行く所に鰻が待っていた◆「きょうも鰻だったね」。笑って話されたと、侍従の入江相政(すけまさ)さんが随筆に書いている。食べ物の好き嫌いひとつでも、人が動き、波紋が広がる。それを気遣い、個人的な感情を厳しく我が身に封印してこられた人の、語気の荒さをも伝える「メモ」に驚いた◆「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。靖国神社A級戦犯が合祀(ごうし)されたことに昭和天皇が強い不快感を表明していたことが、当時の宮内庁長官が残した発言メモで明らかになった◆日付は1988年(昭和63年)4月28日――最後となった87歳の誕生日前日である。無謀にして悲惨な戦争を振り返り、語らずにはいられない心が封印を解かせたのだろう◆その3日前、記者会見に臨まれている。日本が戦争に進んだ原因をめぐる質問に、「人物の批判とかそういうものが加わりますから」と、言葉を濁された。メモは語られざる答えであったかも知れない◆最晩年まで、悔いと苦悩と憤りを抱いておられたのだろう。土用の丑(うし)の日を控えた街に、昭和天皇が好まれた鰻を焼くにおいが甘く漂う。慰霊と鎮魂の夏が近い。
 
(2006年7月21日1時53分 読売新聞)

 今のところネットでは少数派なんですが、「4月25日におこなわれた記者会見」の後、それについて昭和天皇が語ったメモ、というのは意外にいい線なのかもしれません。
 もう一度、「メモ」の、裏写りから解読したテキストを見てみると、こんなものがあります。

(2)戦争の感想を問われ、
嫌な気持と表現したが
それは后で云いたい
そして戦后国民が努力して
平和の確立につとめてくれた
ことを云いたかった
”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長
靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである

 記者会見の当該部分を、もう一度引用してみます。

 今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。

 確かにいい感じで当てはまりますね。
 ちなみに、「奥野国土庁長の靖国発言中国への言及」というのは、こんなもののようです。
戦後の中日関係 1985年-1989年 --人民網日文版--2005.08.03

1988年4月22日 奥野国土庁長官が靖国神社を参拜し、過去の侵略戦争を肯定する意見を発表。5月9日、奥野国土庁長官は再度日本の侵略戦争を弁護。13日、奥野は辞職を迫られる。

03_move_教科書問題の遍歴

63(1988)年 04月 奥野誠亮国土庁長官は、閣僚の靖国神社参拝を問題視する傾向を批判。中国に対しての外交的配慮についても「トウ小平氏の発言を無視することは適当ではないが、日本の性根を失ってはならない。中国とは国柄が違う。占領軍は国柄、国体という言葉の使用を禁止し、教科書からも削除したが、教科書では神話、伝説をもっと取り上げたほうがよい」「戦前は白色人種がアジアを植民地にしていたのであり、だれが侵略者かと言えば白色人種だ。それが、日本人だけが悪いとされてしまった」と発言。中国および韓国はこの発言を強く非難し、竹下登内閣への影響を考慮した奥野氏は発言の撤回はせず辞任を表明

 ちょっと全文を探してみたんですが、うまい具合には見つかりませんでした。(追記:以下のところに「要旨」が掲載されました→http://d.hatena.ne.jp/rna/20060725/p3
 しかし、「1988年4月22日」の奥野長官の発言について考える時期としては、報道された時期も含めて「1988年4月25〜28日」というのは、ちょうどいい頃(ホットな話題)に思えます。
 ただ、ぼくとしてはこの「メモ」の中の「私」が、「昭和天皇」であると断定するには、

(3)4.29は吐瀉したがその前で
 やはり体調が充分でなかった

 という、「4月29日の吐瀉の記録」が、昭和天皇の体調と関連して残っている、という条件が必要でしょうか。
(同じ日に、徳川元侍従長も吐瀉してたりすると、少しややこしいことになりそうです)
 えーと、とりあえず、
 何とも言えない状況の場合は、「何とも言えない」とも言わない。もう少しちゃんと調べてから何かを言う。
 という感じでしょうか。
 まぁ実は、本当はまだ「何かを言う」のには少し、これでも早すぎるかもしれませんが。
 
 これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060725/omoide
 

*1:ちなみにその後には「雑草というのは人間のエゴからつけている呼び名である。かわいそうだよね。猛獣という言葉もあるけど、ライオンやトラから見たら、一番の猛獣はあるいは人間かもしれないね」という言葉が続くらしいです。

*2:皇居東御苑地区にあった呉竹寮の一部を昭和三十九年に移築、模様替えした建物。木造平屋建て鉄板葺き二百八十二平方メートル、吹上御所堀外の半蔵門寄りにある。植物学者とのお茶、宮内記者会とのお会いなどに使われてきた。