昭和天皇の「もう一度戦果を挙げてからでないと」発言と史上最大の兄弟喧嘩(1)

見出しは演出です。
昭和天皇の戦争責任について話す際には、「近衛上奏文」とそれに対する昭和天皇のリアクションが、問題あるものとして出てきます。
早期和平ニ付近衞公爵上奏文(いわゆる近衛上奏文)
全文読むのは大変だと思うので、ウィキペディアから。
近衛文麿 - Wikipedia

1945年(昭和20年)2月14日に、近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上した。そこでは、(1)「大東亜戦争」は日本の共産化を目的として行われて来たこと、(2)「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、(3)一部の陸軍将校たちがソ連軍導入による日本の共産化を目指していること、の三点が述べられ、共産主義革命の実現に対する強い懸念が表明されている。御下問において、軍部にはソ連との提携を図る者もいるが、アメリカとの講和以外に途は無いこと、軍部を抑えることで和平に導くべきであるということを主張した。尚、昭和天皇は、「敗戦必至」という奏上文に対して、「もう一度戦果を上げてから」として終戦の要求を蹴っている。これが、東京大空襲から長崎原爆投下までの空襲に至り、「遅過ぎた聖断」の動機になったと考えられる。

たとえば、こんなのが代表的で普通の例なわけですが、
320万人が殺された第二次世界大戦

昭和20年2月、近衛文麿天皇に「このまま戦争を継続すれば敗北は必至。米英は国体改革までいたらず。恐るべきは共産革命」との上奏文を提出した。しかし天皇は戦争終結には「もう1度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しい」と答え、戦争を続行させた。もし、このとき天皇の決断で戦争終結しておれば、その後の本土空襲も沖縄戦も広島、長崎への原爆投下も避けられた。だが、そうしなかった。

もう一つ。
怒りの島は訴える

米軍が沖縄に上陸する直前の昭和20年2月14日、天皇側近の近衛文麿元首相は、日本の敗戦が必至である旨の意見を上奏したが、近衛はそのなかで「英米の世論は国体の変革にはすすみ居らず。もっとも憂うべきは敗戦にともなって起きることあるべき共産革命にござ候」と述べていた。天皇制支配層の中枢は、何よりも人民が立ち上がって革命を起こすことを恐れて震え上がる一方で、英米天皇制を廃止する考えを持っていないことを、すでにつかんでいたのである。
だが近衛の意見具申に対して天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と応え、近衛は「そういう戦果が挙がれば誠に結構と思われますが、そういう時期が御座いましょうか」と述べたとも伝えられている。
それはいったい、どういうことだろうか。近衛の上奏にたいして、天皇はもう少し戦果をあげてからだといった。しかし近衛がいうように、もう少しの戦果など期待できるはずもないのは明らかなことだった。すでに中国人民の抗日戦によって完膚なきまでにうち負かされ、もはや敗北が避けられないなかで戦争をつづければ、ただ、やられっぱなしにやられるだけであることは、わかりきったことだった。にもかかわらず、なぜ天皇は戦争終結をひきのばそうとし、戦争指導者たちはそれを受け入れたか。「いくら考えてもわからない」「不思議でしょうがない」といわれている。

それは別に、近衛元首相と昭和天皇とのやりとりと思われるものの全文を読めば、少し考えればわかるし、不思議でもなんでもありません。「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」の「話」は、「戦争終結の話」ではなくて「軍の人事の話」だからです。また、話のキモなんですが、昭和天皇の「もう一度戦果を挙げてから」というのは、「誰が」が実は抜けて伝聞されているみたいです(要するに、中ヌキです)。
記録として残っているテキストを見てみましょうか。
国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い79〜87近衛上奏文解説

天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」
天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

まぁ、もう少していねいに元テキストを読んでいる人は、ネット内でもこのように記してます。
Re:午前中なのにもう3本目(Re:責任の軽重)

全文読めば、誰がどこからどう見ても、
近衛が「終戦に持ち込むには満州事変以来の『軍部の抵抗勢力』を一新する必要がある」と言ったのに対し、陛下が「抵抗勢力の一新は)もう一度、戦果を挙げてからでないと(抵抗勢力を一新する)話は難しいと思う。」と客観的意見を述べただけです。
これの、どこをどうよんだら「先帝陛下が戦争継続を命令した」になるんでしょうか!?
本当に、歴史修正主義者の発言カットの醜さ、その特定思想とプロパガンダの盲従者の頭の悪さには参ったものです。
 
「講和」の話などでは全くありませんので、「先帝陛下が戦争継続を命令した」なんて言ってる人やサイトは今後信用すべきではないですね。
あくまで、「軍部の抵抗勢力一新には抵抗を先鋭化させないための『花』が軍部にないと結局うまくいかないだろう」という客観的意見です。
どのようなことも命令してません。
 
巷の言説がウソだらけということがおわかりいただけましたか?
先帝陛下に政治責任があるなんて頓珍漢なことを言っている者が居る限り、先の大戦の教訓は生かされんでしょう。
大日本帝国憲法の何が問題で、なぜ軍部と国家の利害が対立するような事が起こりえたかの分析が全くできていない人間が、安易に「戦争責任がある」とか言い出す始末ではね。

ここで引用した人が引用している、元侍従長・藤田尚徳による『侍従長の拭想』などという本は存在しないし(正確には『侍従長の回想』で、講談社から出版され、中央公論社の文庫として出版されました)、「陛下が言った」ということは伝聞情報以外では伝わりにくいので、これもまた伝聞情報なわけですが、全体を読んでの文脈的な解釈としては、「戦争継続の命令」ではなく「軍の人事に関する客観的意見」とするのが正しいと思います*1
しかし、藤田尚徳『侍従長の回想』には、以下のような部分もあるみたいです。
worldNote 小熊英二『日本という国』は赤い国の副読本

まこと、『日本という国』(小熊英二 2006.4)は困った書だ。日本に赤い政権が出来た時には、副読本に指定されるだろう(笑)。
(中略)
以上の例はまだ分かりやすい例である。次のは困る。

p.83-84 > これについては、昭和天皇も関係している。1945年2月、元首相の近衛文麿天皇に降伏交渉を始めることを進言した。しかし天皇は、「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べて、それを拒否した。この時点で戦争をやめていれば、3月の東京大空襲も、4月からの沖縄戦も、8月の原爆投下も、ソ連参戦やその結果としての朝鮮半島南北分断も、なくてすんだはずだった。

えっ! これは2月に重臣ら7人を別々に(数日おきに)ひそかに呼び出して御下問された際の、近衛上奏文(1945年2月14日)に関わるエピソードだ。調べてみると、Wikipediaにもそんなような主旨のことが書いてある。これは困った。
(中略)
近衛上奏文の核心はここだ。

勝利の見込なき戦争を之以上継続することは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存じ候。(中略)従つて戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。

これだと戦争終結の提案ではなく、統制派追放(粛軍)の提案であり、事実上(天皇のバックアップする)クーデターの提案だ。それは無茶だ。統制派をコムニスト同然にみなすのも、当時の日本では突出した意見と言わざるをえない。
当時呼び出された7人のうち、戦争終結を提言したのは近衛一人だったという。皆がてんでばらばらの意見を述べたに近い。天皇は皆の意見をよく聞いた。おいそれと、近衛に同意するわけもなかったのだ(マクロに見れば近衛の分析は卓見かもしれないが、どのみち粛軍は実行不能だ)。
当時、台湾決戦だか、沖縄決戦だか、あやふやながら、米軍に一泡ふかせてからの和平交渉が頭をよぎったのは事実のようだ。しかし3月の東京大空襲の折には、昭和天皇は被害の惨状を出向いて視察されている。昭和天皇がほんとにもうだめだと思ったのは、ドイツが崩壊した5月始めのようだ。さて、真相はかうだ↓

近衛と面談のとき天皇はこういっている。
参謀総長などの意見として、たとえ和を乞うとしても、もう一度戦果をあげてからでないと、なかなか話はむつかしいというが、近衛はどう考えているか。梅津や海軍は、台湾に敵を誘導しうれば、こんどは叩きうるといっているが......」
近衛は答えた。
「そういう戦果があれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がはたして到来しましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう」(『侍従長の回想』藤田尚徳)

この文章が正しければ、前述の小熊氏の記述は捏造(の説)だ。これが学者のする事なのか。

「もう一度戦果をあげてからでないと、なかなか話はむつかしい」ということが(昭和天皇の意見ではなく)「参謀総長の意見」であり、それに関する近衛元首相の考えを、昭和天皇が聞こうとしている、という感じになります。
まぁ、とりあえず藤田尚徳『侍従長の回想』に目を通してみます(近くの書店では見あたらなかったので、なるべく早く)。
要するに、昭和天皇の「もう一度戦果を挙げてからでないと」という言葉は、
1・軍の人事に関する話だった
2・そう言っている「参謀総長」の意見について、近衛元首相に聞いた話だった

みたいなものしか、「直接話を聞いた人(藤田尚徳氏)の伝聞情報」としては存在しませんでした。
もう少し調べてみると、この言葉が「戦争継続を命令(?)する昭和天皇の言葉」的文脈として出てくるものがあるかもしれませんが、今のところそのような解釈をしている人は、直接昭和天皇の話を聞いた、という人の中ではうまく見つかりませんでした(伝聞の伝聞・歪曲情報としては、たくさんあります)。
で、ぼくとして興味を持ったのは、最初の、

(近衛)先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」

これが伝聞情報としてある程度正確だったものとして、なぜ昭和天皇は、山下大将にそんなに軍の指導者になって欲しくないか、ということなのでした。
これに関していろいろ調べてみるうちに、ぼくの仮説としてクローズアップしてきたのが秩父宮」という昭和天皇の弟、および軍内部の「皇道派」「統制派」による思想・派閥争いです。
(ちょっと時間切れなので、続くのです)
 
これは以下の日記に続きます。
昭和天皇の実弟・秩父宮の「心の友」と史上最大の兄弟喧嘩(2)
 

*1:その結果として「戦争が継続されてしまった」というのは大問題ですが。