「秩父宮殿下万歳!」と2・26事件の人は本当に言ったのか、と史上最大の兄弟喧嘩(3)

これは以下の日記の続きです。
昭和天皇の実弟・秩父宮の「心の友」と史上最大の兄弟喧嘩(2)
 
見出しは演出です。
引き続き『秩父宮昭和天皇』(保阪正康文藝春秋)に書いてあることの話をします(今は『秩父宮―昭和天皇弟宮の生涯』というタイトルで、中公文庫で手に入るみたいです)。
この本は基本的に「昭和天皇実弟である秩父宮が軍に対して影響力をもう少し持っていたら(大戦中に病気で倒れなかったら)」史観なので、情報として得られるものは、昭和天皇と比較した際に、天皇をおとしめるものでは決してないんですが、過剰に秩父宮が持ち上げられているのでは、という懸念を持って読んでもいいかもしれません。歴史小説とか史談的な面白さ、ではありますが、面白い本なので目を通してみることをおすすめします。
2・26事件に秩父宮が関与していた、というのは、たいていの陰謀史観と同じく個人的には「否定すべきものの見かた・考えかた」なので、「過去にそのようなことが、戦後の一時期『秘話』的に語っていた人がいた」程度のネタですが、『秩父宮昭和天皇』の中では、そのような説が生まれた背景には、以下のものがある、と語られています。p290-291

1・西田税の『戦雲を麾く(さしまねく)』に描かれている、秩父宮を、西田ら陸士三十四期生が国家改造運動にひきこもうとした顛末。
2・決起将校安藤輝三との関係。
3・決起将校坂井直の言動。
4・決起将校中橋基明の獄中記。
5・元陸軍中将稲田正純の日記。稲田は、秩父宮が昭和十二年一月から昭和十五年七月まで参謀本部に勤務していたときの一時期の作戦課長だった。

本当ならそれらの関連資料に一通り目を通してもっと何かを言わないといけないと思います。しかし、今現在のぼくは、保阪正康さんの手法では、陰謀史観を否定するにはぬかりがありすぎて、かえって陰謀史観論者に食われてしまうのでは、という懸念が強いのでした。
たとえば保阪さんは、昭和三十一年三月発行の『真相』という雑誌に掲載された「昭和宮廷秘史 秩父宮幽閉事件」というテキストを、「全編これ揣摩臆測の類」と否定します。
それはいいんですが、その後、「4」の中橋基明の獄中手記における秩父宮の言葉(「蹶起の際は一中隊を引率して迎えに来い」)や坂井直と秩父宮が会話をして「殿下は同志と申されました」と言った、という伝聞の伝聞情報を、「結局は水かけ論である」と、田々村英太郎『二・二六叛乱』や芹沢紀之『秩父宮と二・二六』などをもとに否定しています。
その否定あるいは水かけ論にもっていく方法が、「坂井直の話を信じるか信じないか」、つまり、坂井直や中橋基明の性格をどう解釈するか、になってしまっているのが、ぼくにとっては納得できないことでした。
さらに「1」の、「西田税秩父宮の関係」については、既存のテキストに対して「秩父宮と同期の陸士三十四期の生存者全員(480人中60人)の手紙」によると「西田と秩父宮が会話を交している光景を目撃した者」は「いなかった」から、という理由*1で否定している飛躍ぶり。
いやそれはもちろん、実生活において「あの人の言うことは信用できない」とか「信用できる」という判断はありますよ。あまり信用できない、という証拠をいくつか出しておいて、「だから、二・二六事件で○○は、秩父宮についてホラを吹いた、と私は推測する」も別にかまいません。ただ、それを歴史上の定説にまで持っていくような読者に対する誘導はどうかとも思うわけで。
たとえば、アマゾンの読者感想では、
Amazon.co.jp: 秩父宮―昭和天皇弟宮の生涯: 本: 保阪 正康

しかしこの本を読んで、目から鱗が落ちる思いがした。著者は事件への関与を明快に否定する。

と言っている人もいますが、ぼくには「曖昧な著者の説を、曖昧に見えないように述べている」としか思えませんでした。
その具体例としてさらに、安藤輝三が処刑の際に「秩父宮殿下万歳!」と言ったか言わないか、という話をしてみます。
まずその説は、代々木陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所長だった塚本定吉の手記(「軍獄秘録」『日本週報』昭和三十三年二月二十五日号)によって広まった、と、保阪正康氏は語ります。
ところが、それを否定する情報として保阪正康氏が提示するものは、前のぼくの日記で名前を挙げた秩父宮の友人・森田利八の「彼がそのようなことを言うはずがない」という、根拠が「人格に関する信頼感*2」以外には乏しい伝聞情報(森田利八氏はこう言った、と保阪正康氏が語っている、第三者には確認が難しい証言)、および「処刑を担当した佐倉連隊の元少佐」による、「私の耳には、栗原*3秩父宮殿下万歳と叫んだ声がいまも残っている。聞きちがえることはない。ほかの者が聞きちがえて伝わっていったのではないか」という、保阪正康氏が聞いたと言っている(第三者にはそれは本当に「佐倉連隊の元少佐」が言ったのかどうか確認が難しい)証言しか存在しません。
「○○は××と言った」と△△氏が書いているテキストは、ぼくは三者にも確認できるもの以外は原則として信用しないことにしているので、
『機会不平等』(斎藤貴男)というノンフィクション的悪書について
今のブームは「マスコミの報道検証」じゃなくて「ネットの情報検証」らしいですが。あと本田宗一郎さんの韓国に関する発言など
「○○氏だって××と言っているからこれはひどい」という未確認情報に「これはひどい」禁止
森田利八氏および名前の不明な「処刑を担当した佐倉連隊の元少佐」の証言については、もっと別の何かが出てくるまでは、たとえば「間接的な証言の記録」ではなく「手記」のような、自分の手で書いたと確認できるようなものが出てくるまでは、慎重に扱いたいと思います。
ぼくの判断では、処刑の際に「秩父宮殿下万歳!」と叫んだ誰かがいる、その可能性がとても高い(が、その「誰か」はうまく確認できない)、という感じです。
この「秩父宮殿下万歳!」については、また「軍獄秘録」『日本週報』昭和三十三年二月二十五日号を見てから何か言うかもしれません。
たいていの歴史は、物語として面白いほうに流れ、それが「物語」から「史実」になってしまいます。それは、ヘロドトスの時代からあったようで(あの「歴史書」がいかに伝聞まみれか、というのは、知っている人は知っているみたいです。この話もまた別の機会に)、それが陰謀史観とか、今回の話だったら「昭和天皇秩父宮は仲が悪かった」「昭和版壬申の乱」説になっているわけです。
しかし、「神話・伝説」を否定するのに「客観的に確認できない情報」を提示されてもな、というわけで。
秩父宮昭和天皇』の「秩父宮が軍に対して影響力をもう少し持っていたら(大戦中に病気で倒れなかったら)」史観は、「日中戦争も早期に終了し、太平洋戦争はなかっただろう」という結論になる仮説です。
 
なんか、あとは面倒くさくなったのでダラダラと、他の人のテキストにリンク貼ってみますので、暇なときにでも読んでみてください。(以下、太字部分は引用者=ぼく)
近衛 文麿

なお、朝日新聞に近衛の手記が1945年12月20日から11回連載された。手記で近衛は、「戦争回避に天皇はもっと行動すべきだった」と主張しているが、昭和天皇はこれを読み「近衛は自分にだけ都合のよいことを言っているね」と語ったと伝えられている。

石原莞爾フォーラム

石原は少なくとも3回の大きな統帥権の無視をしています。第一は満州事変の時、そして第二は2・26事件の時。この事件が起こった当初の石原の行動には一つの大きな要因が絡んでいます。それは戦前、戦中、戦後とも「菊のカーテンの中のタブー」とされ、あまり触れられていない事なのですが、昭和天皇とその弟宮秩父宮との関係です。反乱軍の将校が漠然と頼りにしていたのは秩父宮でした。
そして事件発生直後、宮は弘前の連隊から急遽東京に戻りました。2・26事件には天皇家の兄弟争いという側面があったのです。
昭和天皇は後に明らかになってきますが、生真面目で、気の小さい人でした。それに対し秩父宮は豪放、才気あふれるタイプで帝王としては、兄の天皇より向いていました。
この事は昭和天皇自身が認めていたのです。(英国人モズレーの証言)。
石原が事件発生から二日間ほど態度を余りはっきりしなかった原因の一つに場合によっては昭和天皇秩父宮へ譲位するという事が万が一起これば、彼の持つ天皇観では秩父宮の方が天皇に適任と考えていた節が大いにあります。
この時に昭和天皇秩父宮との間に相当な激論があった事は事実ですし、この2・26事件の時の昭和天皇の激情はいささか異常で、(天皇自ら近衛師団を率いて反乱を鎮圧すると言った事)天皇自身も身の危険も感じていたと充分推察されます。天皇制の歴史の中には兄宮を弟宮が追い落とした例は幾例かあります。

ぼくの前の日記で、近衛元首相が昭和天皇に言った「賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」という「賀陽宮」と「山下大将」はこんな人です。
賀陽宮 - Wikipedia

2代恒憲(つねのり)王は、邦憲王の第1王子。明治33年(1900年)誕生。大正10年、九条道実公爵の娘敏子と結婚。昭和6年に夫妻でアメリカを訪問。国際親善に努める。陸軍士官学校陸軍大学校を卒業。軍人としては皇道派に近かったと言われている。終戦時は陸軍中将。

山下奉文 - Wikipedia

二・二六事件では皇道派の幹部として決起部隊に理解を示した。

フィリピン防衛戦
シンガポール攻略という大きな戦績をあげた山下だったが、東条英機から嫌われたために満州に左遷され、その後は大きな作戦を任される事はなかった。後に敗色が濃厚となった1944年に第14方面軍司令官としてフィリピン戦局を指揮する事になり、ダグラス・マッカーサーらの指揮する連合軍に勇戦するが、台湾沖航空戦での戦果の誤報に基づいて立案されたレイテ決戦を強いられた。

ここらへんを見てみると、昭和天皇の「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」という無理難題の背景も少しわかって来そうな気がします。
皇道派 - Wikipedia

皇道派(こうどうは)とは、大日本帝国の陸軍内のグループである。財界や政界を直接行動(クーデターのような過激な運動も辞さない)で変革、天皇親政による国家改造を目指し、皇道派はこれを昭和維新と称した。この思想は主に尉官クラスの隊付き青年将校たちに広く支持されていたという。象徴的な人物は荒木貞夫。1930年代に同じく陸軍内でのグループである東条英機ら統制派と激しい路線対立を繰り広げるが、二・二六事件後その勢力は衰退した。

統制派 - Wikipedia

統制派(とうせいは)は、合法的に政府に圧力を加え、操作しようとした大日本帝国の陸軍内のグループである。軍内の近代派であり、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。旧桜会系統の参謀本部陸軍省の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。中心人物は永田鉄山東條英機

東條英機 - Wikipedia

首相就任
東條と閣僚。日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、東條は強硬な主戦論を唱え、第3次近衛内閣を退陣に追い込んだ。誰の説得にも応じない東條の強硬さに手を焼いた天皇の側近木戸幸一らは、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、明治維新時に政府軍に蹂躙された東北出身ゆえか「忠狂」と呼ばれるほど天皇を敬愛していた東條英機本人をあえて首相にすえることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないように追い込むことができると考えた。
日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、1941年に第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する。この年『戦陣訓』を作成し布達している。

二・二六事件 - Wikipedia

昭和天皇は、立憲主義に反して大御心(「おおみこころ」と読む。天皇の意思のこと。)を騙り天皇重臣を殺害しこれを正当化する反乱将校に激怒し、灰色決着を許さず、武力鎮圧を強固に命じた。(『朕ガ股肱(「頼りにしている家来たち」という意味。)ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ 於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』)さらには天皇自ら近衛部隊を率いて反乱軍と戦う(『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ此レガ鎮定に当タラン』)、という発言も残されている。

泥酔論説委員の日経の読み方:2006/03/07 (火) 08:48:59 青年将校の遺品 防衛庁に

「尊皇討奸」、天皇を尊び君側の奸を討つ、そんな意味なんでしょう。
日本の政治は腐っている、それは天皇の臣下たる重臣連中が悪いからで、彼らに天誅を喰らわし再びご親政に戻す、これが「昭和維新」なんだというのが「2.26事件」の大義名分です。
実行は、実戦部隊に所属する中隊長クラスが中心となりましたが、ご存知のとおり裏で操っていたのは所謂「皇道派」と称される陸軍の将軍連中で、とにかく対ソ戦一筋という人々です。
これに対するのは「統制派」と呼ばれる一派で、いずれ米英との戦争は不可避である以上、総力戦に備え全体主義化すべしという理論を展開します。
詰まるところ、青年将校らの思いとは別にこの事件の本質は陸軍部内の主導権争いであって、天皇を中心に云々というのはあくまでも「錦の御旗」に過ぎないのですね。
もっと言えば、皇道派にしても昭和天皇を「暗君」だと見なしていたわけで、これ以降も終戦に至るまで陸軍ではクーデター計画が幾度も浮かび上がります。
実際、彼らは2.26でも天皇を退位させ皇弟の秩父宮雍仁親王に取って代わらせようと企図してた節があり、まあ尊皇どころか不忠の輩なんです。

ネットから拾ってきたテキストでは「陰謀史観」が中心になってしまうのが困ったところです。
「皇道派」(こうどうは)

斎藤内閣時(1934年一月)、荒木が陸相を辞職すると、この後任に林銑十郎が就任。林は軍務局長に永田鐵山を起用し、一斉に皇道派切り捨ての粛軍が行われた。参謀次長から陸軍教育総監に転じていた真崎甚三郎も更迭された(「真崎総監更迭問題」)が、これに憤りを感じた相沢三郎中佐が、白昼軍務省内で永田局長を斬殺する事件が起こる(相沢事件)。荒木の育てた隊付将校たちはこの頃からテロル活動者の相貌を呈しはじめる。
この活動が行き着いた先が、二・二六事件(1936年)である。
決起した近衛将校らは、「君側の奸を除き、天皇親政を実現するため」、帝都各地を襲って閣僚、重臣等を殺傷した。これを受けて驚いたのは皇道派将軍たちである。彼らは軍事参議官会議で、「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」などの、決起将校にきわめて同情的な「陸軍大臣告示」を作成、公布したが、これを挫折せしめたのは、側近を殺した決起将校と、彼らを守ろうとする皇道派将軍たちへの天皇の激しい怒りであった。
「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。国体の精華を傷くるものと認む」
皇道派将軍たちは天皇の怒りを受けて、退場せざるを得なかった。なかでも真崎甚三郎は、決起将校に通謀の疑いありとしてのちに逮捕されている。
このあと、皇道派はまったく軍部で影響力を失ったが、しかしその存在に目を付けている人物が居た。近衛文麿である。
もとから近衛は皇道派に共鳴していた。特に統制派が戦時体制を構築することによって赤色革命を推進しようとしている、という予測をした近衛は、これを防ぐためには皇道派を起用して、統制派を逐うための粛軍を進めねばならないと構想していた。皇道派の返り咲きは、太平洋戦争の終結後、東久邇宮内閣に近衛の推輓で小畑敏四郎が国務相として入閣したことによって実現した。

2・26事件に関しては、こんなのも。
柳家小さん (5代目) - Wikipedia

二・二六事件の時に反乱部隊の屯所に一兵卒としており、上官命令で落語を一席させられた。「子ほめ」を演じたが、反乱の最中で緊張でピリピリしている兵士達が笑うわけがない。「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから」と返した。

「たが屋」とかでもやればよかったのかな。
仮説レベルのことですが、昭和天皇共産主義秩父宮よりも危険視していたのは「皇道派」つまり「天皇親政の名目でもっと好き勝手にやろうと思っていた軍部の人たち」ではなかろうか、と思います。2・26事件の首謀者も、誰がどう見てもテロとしか思えないような「虐殺」を伴う主張をするのではなく、また昭和天皇も「議会制民主主義」が当時正常に、民主主義的に機能していたかに関する知識をある程度持っていたら(2・26事件の背景は、国民の代表が真に代表として行動・思考しているのか、という義憤があったことは否定しにくいと思います)、タイがしょっちゅうやっているクーデターのように、民主的、という言いかたも変なんですが、血まみれの粛清的顛末にはならなかった可能性もあったかも、と夢想します*4
Amazon.co.jp: 北一輝論: 本: 松本 健一

小作人の子で優秀な者は無料で有給の軍の学校にいくしか出世の道は閉ざされていた。彼らは将校となる者も多かったが当時日本一の金持ちであった天皇そして取り巻きの重臣それと結びついた財閥や恐慌の中貧しい農村で代議士を出す地主に搾取され自らの姉妹や親族の女子が貧しさゆえ身売りしていくのを黙ってみているしかない有様だった。ただ天皇神話を信じた将校(なぜか2.26事件に某宮様と出てくるが北の国家改造法案大綱を実現しようとした皇道派軍人に近かったのがやはり軍人で昭和天皇と仲の悪かった弟の秩父宮なので丁度フランス革命派に援助したのがルイ16世の従兄弟で王位を伺っていたオルレアン公であったのと同じように皇位を伺ったとする説もある。

薩長因縁の昭和平成史(4)

開戦後の翌年6月、ジョセフ・グルー駐日米国大使は交換船で米国へと帰国することになった。この時、父同様にグルーやロバート・クレーギー駐日英国大使と親しくしていた松平恒雄の娘は、加瀬俊一を介して、グルーにはメッセージとともに長い交友関係の記念として宝石箱を、抑留生活がしばらく続くクレーギーには御殿場で手に入れた緬羊の肉を届けさせた。加瀬によれば、メッセージと宝石箱を受け取ったグルー夫妻は流れる涙のために顔を上げられなかったという。
グルーに宛てたメッセージの内容は明らかにされていないが、松平は娘に対して「米英両国とも、国交回復の時が必ず来る。『お互い、その日を待ちましょう』と両大使夫妻に伝えては」との趣旨のアドバイスをしたとされる。
もし、父のアドバイスがメッセージに反映されていれば、当時とすればこれまた大問題になっていただろう。なぜなら松平の娘は秩父宮妃勢津子であり、昭和天皇の義妹にあたるからだ。
時は1928(昭和3)年1月18日。会津では「これで朝敵の汚名も消える」と三日三晩ちょうちん行列が繰り出されたという。この日、秩父宮雍仁親王と松平の長女・節子の婚約が正式に発表された。

秩父宮雍仁親王 - Wikipedia

明治以降の近代天皇制ではじめての皇弟であったこと、寡黙で学者肌であった昭和天皇に対しテニスや登山を好んだ活発な性格であったこと、上流階級の子弟からなるインテリ層サロンにおける中心人物であったこと、陸軍において宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなどから二・二六事件の際、反乱軍将校が秩父宮擁立を画策していた、マッカーサーをはじめとするGHQによって、昭和天皇退位と秩父宮即位の動きがあった、などの風説がうまれた。

昭和天皇秩父宮が何かについて話をしたことがあるのか、についてはまた述べるかもしれません。
瑞穂日記:秩父宮殿下
瑞穂日記:秩父宮殿下(中編-弘前時代)
瑞穂日記:秩父宮殿下(後編-闘病生活)

殿下は勝ち気で、開放的・奔放なご性格とも言われていますが、兄宮を補佐するご自分の立場を常に意識しておられたと言います。それを証明するようなエピソードを最後に。まだご幼少の頃、昭和天皇、殿下、高松宮殿下の3人の皇孫殿下に3体の人形の献上がありました。人形は加藤清正楠木正成柴田勝家。しかし、勝家の人形は寝ころんだもので、3殿下の欲しいのは清正か正成でした。まず昭和天皇が清正(正成かも?)をとり、次は殿下の番、弟宮が正成が欲しいのを承知している殿下は目に涙をためながら勝家をとり、正成を弟宮にお譲りになりました。いつのこのような一歩引いた立場をご自分に課していらっしゃったのです。

こんな陰謀史観も。
薩長因縁の昭和平成史(1)

薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも言える。また、彼らは英米エスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。
これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎銅像が見事に物語っている。

余談ですが、東条英機のライバルで対中&対米英戦に消極的だった皇道派の御大・石原莞爾と政治家の加藤紘一氏とは親戚関係にあるらしい(どういう関係なのかは確認できませんでした)のに対して、岸信介の孫が安倍晋三首相であるのは面白いと思いました。
 
ということで、ずいぶん長いテキストになりましたが、とりあえず一区切りで、あとは『秩父宮昭和天皇』(保阪正康文藝春秋)に出てくる、以下のテキストを読んだらまた何か言うかもしれません。
田々村英太郎『二・二六叛乱』
芹沢紀之『秩父宮と二・二六』
西田税『戦雲を麾く(さしまねく)』
福永憲「秩父宮青年将校」(『日本週報』昭和35年1月21日号掲載)
「昭和宮廷秘史 秩父宮幽閉事件」(『真相』昭和31年3月掲載)
中橋基明の獄中手記(掲載書籍・雑誌は不明)
稲田正純の手記(昭和36年1月の毎日新聞、およびその後稲田自身が『日本週報』に発表したもの)
塚本定吉の手記「軍獄秘録」(『日本週報』昭和33年2月25日号掲載)
 

*1:ちょっとパラフレーズありですが、正確なテキストは『秩父宮昭和天皇』のp174-179をご覧ください。

*2:「戦車で民間人をひき殺して戦場に行け、などと参謀が言うはずがない」と、司馬遼太郎の話を否定している元陸軍将校と同じものを感じます。

*3:栗原安秀中尉。二・二六事件の首謀者の一人

*4:タイの言葉は全然読めないので、事実がどのようなものであったかは不明ですが、2006年のタイ軍事クーデターに関しては、少なくとも殺された要人は確認できませんでした