関係者に酒飲ませて沖縄の「集団自決」をなかったことにしちゃうとは、みたいな話は、とはいえもう少しややこしい

こんなテキストが話題になっていたわけですが、
「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん
「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん-話題!ニュース:イザ!(2006年8月27日)

第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
(後略)

なんか面倒なので、というか長くなりそうなので、以下のところにある、
Birth of Blues:沖縄戦 渡嘉敷島住民集団自決事件 元琉球政府職員が軍命令は嘘だったと吐露
以下のテキストは少し省略することにして。
「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん産経新聞
沖縄戦「住民強制集団死」書き換えの圧力(週刊かけはし)
34回司法制度改革審議会議事録
まず、なんでいきなりこんなのが記事になったかというと、2006年9月1日に「沖縄集団自決冤罪訴訟」の第五回口頭弁論があった(新聞記事が掲載された2006年8月27日では未来形)からですね。
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会:第5回口頭弁論原告準備書面の要旨(H18年9月1日)

1 今回の書面の主たる内容は、被告の主張に対して反論を加えるものですが、そのなかで、この度、新たに勇気をもって「軍命令は自分たちが創作したもの」との決定的な真実を産経新聞に語った照屋さん、梅澤さんに真実を告白した宮城初枝さんと宮村幸延さん、そして赤松さんに真実を告げた伊礼蓉子さんの4人が示した沖縄の良心を顕彰するものです。

で、原告の主張はまぁ、だいたい「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」をご覧になればわかるんですが。こんなのとか。
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会:訴状
「被告」の側の「株式会社岩波書店・代表者代表取締役 山口昭男」さんと「大江健三郎」さんの主張が見当たらないので、ちょっとぼくとしては困っている次第。
一応、被告を支持・支援している団体としては、「大江・岩波「沖縄戦裁判」支援連絡会」というのがありまして、
大江・岩波「沖縄戦裁判」支援連絡会結成/九条の会全国交流集会
Birth of Blues」の人も引用している、以下のようなテキストがあったりするわけですが、

(前略)
一九八八年、座間味島「集団自決」の件で梅沢裕が沖縄タイムスに抗議をし、沖縄タイムス座間味島当局に照会したときも、当局は命令はあったとはっきり証言している。座間味島で援護法の担当であった宮村氏が、「命令があったといったのはウソだった」との念書を書かされ押印した件でも、「梅沢裕がやってきて家族に見せるだけだからと頼まれてウソのことを書いた」が今でも座間味島当局の公式見解だ。
当時女子青年団長だった宮城初枝さんが、梅沢隊長のところに行ったとき、「その場では命令はなかった」と述べていたという件でも、多くの人があったといっている。また別のところでは、軍曹から手榴弾で自決せよといわれている。
(中略)
金城実さんが、「『ある神話の背景』(曾野綾子著)を原告側は証拠として完璧だといっている。沖縄復帰直前にやってきて自分の都合のいいところだけつまみ食いして書いたこの本と、記者が長期にわたって取材し一九五〇年に出版された沖縄タイムスの『鉄の暴風』とどちらが真実なのか。ことをはっきりさせるべきだ」と要望した。
(後略)

この「命令があったといったのはウソだった」との念書を書かされ押印した件」というのがなかなか面白いのでちょっと紹介しておきます。
『母の遺したもの』(宮城晴美・高文研)p268-270

さらに梅澤氏は、決定的な手段に出た。住民に「忠魂碑前に集まれ」と伝令を出した助役の宮里盛秀の実弟M・Y氏(戦後、宮里から改姓)から、「集団自決は梅澤部隊長ではなく、助役宮○盛秀の命令であった」という念書をとったのである。
1987(昭和62)年3月26日、座間味島の慰霊祭に訪れた梅澤氏は、M・Y氏を訪ねた。梅澤氏は「自分が命令していないという書面を準備しているので、証明の印鑑を押してくれないか」と、M・Y氏に頼んだ。しかしM・Y氏は、「自分自身、当時は島にいなかったし、知らないことなので押印できない」と断った。その翌日も再び訪ねてきたが、やはり断ったという。
ところがその夜、M・Y氏の元戦友という福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。
何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話では朝七時ごろになっていたという。「決して迷惑はかけないから」と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したのである。
それから20日ほど経った4月18日の『神戸新聞』に、「座間味島の集団自決の命令者は助役だった」「遺族補償得るため“隊長令”に」という大見出しで報道され、さらに4月23日の『東京新聞』夕刊にも同じ内容の記事が掲載された。このなかでは、「Aさん」(M・Y氏)は『集団自決は、部隊長(梅澤氏)の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役だった兄の命令で行われた。これを弟の私は、遺族補償のため、やむを得ず隊長命として(補償を)申請した』との親書を梅澤さんに寄せた」とある。
この書面と同じものかどうかわからないが、母の遺品のなかに次のような文書のコピーがあった。筆跡の特徴からして、明らかに梅澤氏の書いたものであった。

昭和20年3月26日よりの集団自決は梅沢部隊長の命令ではなく、助役宮○盛秀の命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します。
 
昭和62年3月28日         元座間味役場 事務総長 M・Y
梅沢裕 殿

役場の「事務局長」というのは、村議会の事務局長のことである。「元」ではなく、現職の事務局長であった。亡くなった助役の苗字も、遺族の戦後改姓の「宮○」になっている。
梅澤氏は押印された要旨をもって民宿にもどり、「バンザイ」「バンザイ」と、ひとり大きな声で叫んでいたという。船が那覇に向けて出港する数時間前のことで、M・Y氏が目を覚ましたころには、梅澤氏はすでに船上の人だった。
いずれにしろ、「迷惑はかけない」という約束は完全に反故にされ、M・Y氏や母のもとへ、マスコミが押しかけるようになった。島は騒然となり、M・Y氏は座間味村遺族連合会を更迭され、母は村当局や一部の住民から厳しい批判の目を向けられるのである。

と、この本(『母の遺したもの』)の中ではその「軍の命令はなかった」という証明の書類を取るのにかなりルール違反の手を、梅沢氏は使った、みたいに書かれているわけです。何しろ酒飲ませて「迷惑はかけないから」と嘘言って証文取ったみたいなもんですから。
で、その件に関しては「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」はこのようなことを言っています。
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会:平成18年3月24日沖縄集団自決冤罪訴訟第3回口頭弁論 原告準備書面(2)要旨

(前略)
3 最初に真実を報じたのは、昭和60年7月30日付神戸新聞でした。「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望のふちにたたされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道しました。そこには軍陣地を訪ねた5人のうちの唯一の生き残りである宮城初枝の「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」という証言が掲載されています。こうした動きのもと、沖縄県史」の解説文で《梅澤命令説》を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、「紀要」に梅澤隊長の手記を掲載したうえ、梅澤命令説の根拠となった手記「血塗られた座間味島」を書いた宮城初枝が、「真相は梅澤氏の手記のとおりであると言明している」と記述し、実質的に県史を修正している。その後、昭和61年6月6日付神戸新聞は、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」との見出しを掲げ、大城主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」というコメントを掲載しています。
4 続く、昭和62年には、座間味村役場の宮村幸延元援護係が真実を証言した。遺族会の会長でもあった宮村幸延は、「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任兼村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。」とし、命令を発した宮里元助役の「弟である宮村幸延が遺族補償のためやむをえず隊長命令として申請した」ことを証した親書を梅澤さんに手渡したのです。昭和62年4月18日付神戸新聞は、「命令者は助役だった」「遺族補償得るため『隊長命』に」の見出しを上げ、宮村幸延の「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を拡大解釈することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」と苦しい胸のうちを吐露するコメントを掲載しました。
(後略)

とりあえず、『母の遺したもの』では伏字になっていた「宮○盛秀」氏というのは「宮里盛秀」氏で、その実弟の「Y・M氏」というのは「宮村幸延」氏だ、ということがわかりました。
宮村幸延 - Google 検索
検索してみると、こんなテキストがあったり。
沖縄戦集団自決についての昭和史研究所の取り組み

厚生労働省側としては歴史的事実であったかどうかということについては答えることはできない、あくまで昭和三二年の調査に基づいているのだと主張していました。しかし軍命令ではなかったんだということになれば軍の名誉も保たれることではないのかといったが理解してもらえなかった。産経の石川さんはこの問題について、教科書のあやまりを正す必要があると述べておりますね。
このことは産経の「一筆多論」(平成一五年四月七日)の中でも記しておられます。結論としては、渡嘉敷については行政側では軍命令があったということになっております。 これが軍命令のなかったことが立証されている座間味とは違うところです。
平成一七年四月二日に、赤松さんの二六回忌があり、戦友会が主催したわけですが、ご遺族の方々も出席されいろいろな話を聞くことができました。
平成一四年に日本政策研究センターから、座間味と渡嘉敷のインタビューを受け、これが一四年の八・九月号の「明日への選択」に載りました。それがまとまって「教科書は間違っている」というブックレットになりました。
平成一七年四月一八日には靖国応援団が梅澤氏を招き、西宮で聞き取りを行いました。宮村幸延氏が書いた詫び状の原本も持参して来られました。
『母の遺したもの』では、あの詫び状は梅澤氏が書いたものだ、と記されており泡盛で宮村氏を酔わせたなかで捺印させたと書いてあるがと梅澤氏に聞いたところ、泡盛など飲んでない。ビールは少々飲んでいたがあれは宮村氏が自分で書いて印を押したのであると云っておられました。
『母の遺したもの』は全部は信用できない、お母さんとあれを書いた娘さんとは考え方が違うようだ。 そして沖縄タイムスですが、これも現場を知らない方が書いたんですね。 「集団自決」をした場所も間違っているし、赤松隊長が住民に壕に入るなと怒鳴ったことになっているが、壕なんかなかったと赤松隊長の部下であった知念さん、そして谷本さんも証言してました。三月二八日には壕はなかったのですね。最初はたこつぼですね。人が入れる壕らしきものが出来たのはそれから数ヶ月経ってからです。このような間違いが沢山あるわけです。ですから沖縄タイムスは訂正してもらいたいですね。

こちらのテキストでは、去年(平成17年・2005年)に梅沢裕さんに聞いたことなどが書かれています。
ということで、昨年の夏ごろにぼくもこの「集団自決」の件については興味を持っていたのですが、「集団自決の軍命令はなかった」という話のそもそものはじまりとなった、『ある神話の背景』(曾野綾子著)というテキストがその時点では手に入らなかったんですね(大きい図書館などには置いてあるのが確認できましたが)。
ところがなんとその本は、実は今年(2006年)の5月に、ワックという出版社から違う題名で、新書判として復刊されていたんですね。
『「集団自決」の真実』曽野綾子・ワック)(アマゾンのアフィリエイトつき)
『「集団自決」の真実』曽野綾子・ワック)(アマゾンのアフィリエイトなし)
(うわ、レビューしている筆頭が西岡昌紀さんだったですか)
興味のあるかたはご覧になってみてください。上のほうで買うとぼくに少しだけアマゾンの本が買えるポイントがつきます(数十円ぐらい?)。下のほうはつきません。どちらも販売価格は同じ(税込み980円)ですのでお好きなほうをどうぞ。
割と大きい書店だったら、今だったらアマゾンで買うよりも比較的簡単に手に入ると思います。
ついでに、こちらのほうも。
『母の遺したもの』(宮城晴美・高文研)(アマゾンのアフィリエイトつき)
『母の遺したもの』(宮城晴美・高文研)(アマゾンのアフィリエイトなし)
(この話はもう少し続きます)
(2006年9月4日記述)