ネットで「沖縄戦における赤ん坊虐殺」のテキストを探してみましたが

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060922/baby
 
引き続き「壕の中で、赤子の泣き声が敵に聞こえると、わが子を殺した母親」の存在を探してみたんですが、だいたいこんな感じでした。
戦争と子ども ―沖縄戦に学ぶ―

②幼児処分
日本兵と住民が共に避難していたガマで起こった事件のひとつです。日本兵にとって、アメリカ兵から逃げているガマの中で、住民は邪魔な存在でした。特に赤ん坊の泣き声は、敵兵に見つかってしまうと言う恐怖心をあおりました。よって、日本兵による幼児虐殺がガマで起こりました。

↑どの「ガマ」か不明。「幼児虐殺」は「日本兵」によるもので「母親」によるものではない。
沖縄戦 - Wikipedia

ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した事例も報告されている。

↑「事例」の「報告」に関する詳細は未確認。
沖縄戦 - Wikipedia

南部に現存する「轟の壕」では、壕内で幼児を虐殺するなどしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口附近において盾にした挙げ句馬乗り攻撃で多数の犠牲が出た。そのため、投降した住民が米軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという。

↑情報元(資料と呼べる程度の元ソース)は未確認。
轟の壕 幼児 - Google 検索
Amazon.co.jp: 沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕―国内が戦場になったとき: 本: 石原 昌家
ガマ(自然壕)の悲劇

沖縄県平和記念資料館:地獄の戦場、ガマ(洞くつ)の内部展示。
ガマの中に避難している住民、赤子の口封じをする母親、そして住民を威嚇する日本兵

当時、轟の壕には数百人の住民が避難しており、その後、数十人の日本兵が敗走してきた。壕の中では、アメリカ軍に見つかるからと、空腹で泣き叫ぶ赤ん坊が日本兵に絞め殺され、投降しようとする住民や沖縄の方言を話す住民はスパイとして斬り殺され、米軍の激しい掃討作戦の中、避難壕から住民が追い出され、壕内で餓死する子供もいたと言われている。

↑どうも「壕の中で、赤子の泣き声が敵に聞こえると、わが子を殺した母親」という話は、沖縄県平和記念(祈念)資料館の「ガマ(洞くつ)の内部展示」における「赤子の口封じをする母親」という立体展示物から一般に広まったことのように、ぼくには思えました。
その「赤子の口封じをする母親」の像が、誰の証言(直接・伝聞証言を問わず)にもとづいて、誰が設置したのか(その設置・展示は、どの程度事実にもとづいているのか)に、とても興味を持ちました。
沖縄県平和祈念資料館 | 常設展示

本守備軍は首里決戦を避け、南部へ撤退し、出血持久作戦(しゅっけつじきゅうさくせん)をとった。
その後、米軍の強力な掃討戦(そうとうせん)により追いつめられ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。
壕の中では、日本兵による住民虐殺(じゅうみんぎゃくさつ)や、強制による集団死、餓死があり、外では米軍による砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮(さつりく)があってまさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵の世界であった。

↑公式サイト。画像入り。
記憶 戦後60年 新聞記者が受け継ぐ戦争

「ばか野郎、あっちへ行け。おまえらがいるから敵が来るんだ」
頭の中が真っ白になった。米軍の上陸前は「ともに頑張りましょう」と言っていたのに。沖縄人はもはや邪魔者だった。場所の特定を恐れ、空腹で泣き叫ぶ子どもを絞め殺す「友軍」の兵士もいたと後で聞かされた。
(中略)
六月十六日、最後にたどり着いた伊敷集落のガマ「轟の壕(とどろきのごう)」で、長女和子は乳も出ない自分の胸の中で静かに息を引き取った。餓死だった。暗闇で死に顔もよく見えなかった。

Amazon.co.jp: 沖縄戦 ある母の記録―戦争は親も子も夫も奪ってしまった…: 本: 安里 要江,大城 将保,石川 真生
Peace On Iraq: 沖縄(2)−南部戦跡を訪ねて〜アブチラガマ〜

やがて1945年5月25日、命令により病院は撤退。住民約200名と日本兵、そして生き残った負傷兵の雑居状態になってからは、米軍による黄燐弾攻撃などにより犠牲者が増え続ける。その際日本兵は、泣き声がうるさいと敵兵に見つかると赤ん坊を殺させ、「お前たちが生き残っても御国のために何の役にもたたん」と言って、住民を盾にして立て籠もったという。

↑具体的な資料の明示はないけど、比較的「わが子を殺した母親」に近い記述。
今、沖縄が語り継ぐ戦争の実相(1)

現在の冷たい静寂の中で、当時の様子を想像してみた。そこではありとあらゆる悪臭の混沌が常に臭覚を襲っていただろうし、人間の叫びか泣き声か、あるいは外から漏れてくる砲弾か銃声か、いずれにせよ恐怖の音の混沌が常に聴覚を襲っていたに違いない。さらには日本兵に銃で威嚇され、母親は自分の赤ん坊を泣かせることもできず、口封じをさせられていたという。その同じ闇のどこかで、日本兵による住民虐殺や強制による集団死、マラリアや餓死があった。

↑「という」という伝聞情報が、引き続き気になります。
今のところの結論としては、
1・具体的な部隊名・個人名は不明だが、「幼児を殺した日本兵」はいそうな気がする(ていうか、いる確率は高そう)。
2・「(口封じとして)わが子を殺した母親」の存在は確認できなかった。
なので、沖縄の資料館の展示としては、「赤子の口封じをする母親」ではなく「赤子の首をしめる日本兵」のほうが、事実に近い展示物になるのでは。
とはいえそれもまた「伝聞情報」に近いものではありますが。
引き続き、伝聞情報・伝聞証言以外の、「自分の家族がそういう目にあった・そういうことをした(特に、赤ん坊を日本兵に殺された・赤ん坊を自分の手で殺した)」という実体験者の証言テキストを探しています。
どこかにあったら教えてください。
とりあえず、以下の本には目を通してみようかと思った。
Amazon.co.jp: 沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕―国内が戦場になったとき: 本: 石原 昌家
Amazon.co.jp: 沖縄戦 ある母の記録―戦争は親も子も夫も奪ってしまった…: 本: 安里 要江,大城 将保,石川 真生