沖縄戦の集団自決を語る人が、なぜかあまり語ることのない「阿嘉島」「鈴木大尉」について

ということで、またコツコツと沖縄戦における集団自決について調べてたりするわけですが、集団自決のなかった島として「阿嘉島」というのがあるわけです。
沖縄戦 集団自決事件をめぐる 『反日神話』の背景

ここに海上挺進隊という特攻基地があった。 座間味島に梅澤少佐を隊長とする第一戦隊、阿嘉島慶留間島の二島に野田少佐の第二、渡嘉敷島に赤松大尉の第三と、隊長以下各百四名ずつ(兵員数は、後記『明日への選択』所収中村粲教授「『軍命令』はなかった」によるが、関係資料によって多少の異同あり)の三戦隊が配置され、米艦隊が沖縄本島に進攻したらその背後から奇襲する計画であった。

阿嘉島慶留間島の「野田隊」と、渡嘉敷島の「赤松隊」とは、ほぼ同じ人数のようです。
で、野田隊長の「集団自決命令」のようなものも、証言としては残されているようです。
第3回口頭弁論原告準備書面

(3)大城昌子『自決から捕虜へ』

座間味村の離島の部落で最も小さい慶良間の住民大城昌子はその供述録『自決から捕虜へ』(乙9・729頁)のなかで、慶良間部落民が決行した集団自決について以下のように述べている。
 
前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。
米軍の上陸後二時間程経った午後十時頃、追いつめられ一か所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。数時間前までだれ一人として想像もできなかった事が、わずかの時間でやってのけられたのです。

(太字は引用者=ぼく)
ただこれは「伝聞情報」なので、大城昌子さんが野田隊長から直接命令を聞いた、という証言でもないみたいです。
以下のところでは、このようになっているようですが、
大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会 準備書面(5)

阿嘉島では、第2戦隊の野田義彦隊長が、1945年(昭和20年)2月8日の「大詔奉戴日」に、住民に対し「いざとなったときはいさぎよく玉砕するように」との訓示を行っている(乙9・730頁の大城昌子の手記にも「阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていました」とある)。

この「訓示を行っている」の裏取りはできませんでした(もう少し調べてみたいです)。
しかし、この裁判の「原告」のサイトは前から知ってたんですが、
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
「被告」のサイトは知りませんでした。
大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会へようこそ
これで、準備書面その他、双方の言い分を聞く(読む)ことができるのです。
それはそれとして、第二次大戦におけるアメリカ軍が沖縄で上陸した島は、微妙な時間差はあるみたいですが、阿嘉島が最初のようです。
沖縄戦と住民:軍政・集団自決・捕虜処刑 鳥飼行博研究室

3月26日0804,阿嘉島に最初に上陸した第305連隊第3大隊は,200名の海上挺身隊員と朝鮮人労働者から計機関銃と迫撃砲による攻撃をかけたが,すぐに背後にある丘陵に撤退。阿嘉島では午後に米軍が日本人58名を殺した。

悲惨だった沖縄戦 太平洋戦争最大の上陸作戦

太平洋戦争最大の上陸作戦を敢行した米軍にとって水深四○メートルから七○メートルある慶良間海峡と阿嘉海峡は、島が入り組み、格好の天然の軍港・補給基地となった。一九四五(昭和二十)年三月二十六日、米軍は阿嘉島に上陸。星条旗を掲げた浜はいま、港に変わり慶留間島との間に昨年、アーチ橋が完成した。

で、こんなことがあったという話です。
沖縄戦での住民集団死(集団自決)・捕虜処刑 鳥飼行博研究室

阿嘉島では,日本軍中尉が自発的に投降したが,これは彼が言うに,自殺することなど意味ないことだからである。5月後半,座間味島の米軍パトロールに,日本軍少佐が捕虜となり,慶良間列島に残っている日本人を降伏させることに協力した。

(太字は引用者=ぼく)
で、この「日本軍中尉」は誰で、本当にそのようなことを言ったのかどうか、に興味を持ったわけです。
捕虜になった日本軍少佐は、「梅澤戦隊長(梅澤裕氏)」であることは確かです。
座間味島の戦闘(海上挺進第1戦隊)

米軍は4月10日から第2次攻撃を開始した。我が部隊は逐次北東方に圧迫され、11日には梅澤戦隊長は重傷を負った。戦隊長は組織的戦闘は継続不能と判断し、各隊に独自の行動を採ることを命じた。(戦隊長は後米軍に収容され、阿嘉島海上挺進第2戦隊の武装解除説得にあたった)

このようなテキストもありました。
「集団自決」の再検討― 沖縄戦の中のもうひとつの住民像 林博史

ここでは米軍が上陸したにもかかわらず「集団自決」がおこらなかった沖縄本島周辺の島々について見てみたい。
 
a 阿嘉島22
 
慶良間諸島の一部、座間味村に含まれる阿嘉島には、海上挺進第二戦隊とその配属部隊が駐留していた。三月二六日朝米軍が上陸し、住民は山中に避難する。そして翌二七日住民は「自決」を覚悟し、機関銃の前で時を待った。ところが米軍が撤退したという情報が入り、「自決」は未遂に終わった。米軍は二七日に島中央の山頂にまで到達したがすぐに海岸に引き返し、二九日には島から撤退していった。その後は昼間少数の米兵が上陸する程度であり、これが住民に幸いした。    
また日本軍のなかに、普段から「兵隊は国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命を大切にしなければいけないがね。……だから私は絶対に死なない。敵が上陸したらすぐに逃げるんだ」と口ぐせのように住民に語っていた整備中隊の少尉がいた。その少尉は米軍が上陸してくると朝鮮人軍夫二〇人ほどを引き連れ、白旗を掲げて投降していった。戦隊長と不仲だった中尉も白昼堂々と投降していった。将校のなかにこういう人物がいたことが住民の意識になんらかの影響を与えていたのではないかと推測される。ただ阿嘉島ではほかの慶良間の島々と同じように住民がスパイだとして虐殺されたり、朝鮮人軍夫が処刑されている。

(太字は引用者=ぼく)
この「整備中隊の少尉」にも興味を持ちました。そのようなことを「住民に語っていた」という記録・証言をちょっと、その実名とともに探してみたいところです。
「戦隊長と不仲だった中尉」は、前に引用したテキストの「日本軍中尉」と多分同じ人だろうと思います。
戦隊長の名前は「野田少佐」、正確には「野田義彦」さんというようです。
【沖縄戦】 沖縄と前島と渡嘉敷島(その1) 【マルレ】 - 徒然日記「多事某論」 楽天支部

阿嘉島
海上挺進第2戦隊(球16778) 指揮官野田義彦少佐
海上挺進基地第2大隊(暁16789) 指揮官古賀宗市少佐
 →20.2.17臨時独立第2大隊改編本島へ移動
・特設水上勤務第***中隊(資料不足にて不明)

このサイトにはこんな興味深いテキストもありましたが、

昭和49年に刊行された沖縄県史第10巻(沖縄県教育委員会編)では「鉄の暴風」以降の論旨を基本的に踏襲しているものも多く、○レ艇の出撃中止・自沈命令−暗にこれが集団自決を招いたと言いたいのであろうか?−に関して戦隊長であった赤松大尉の責としていますがこれは事実ではなく、偶然にも米軍上陸時に戦備視察の為に来島中であった第11船舶団長(軍船舶隊長)大町茂大佐の指導と命令によるものでした。
むしろ赤松戦隊長はこの機を逃さず戦隊全力をもって来航した米軍艦艇への出撃を意見具申しています。
沖縄の多くの書籍にはこの出撃回避を赤松戦隊長の怯懦に起因しているという記述があるそうですがこれは軍隊に対する全く不見識と言うほかありません。
軍隊という組織にあっては上官の命令には例え個人的に反対であっても、命令を遵守することが軍紀維持の根幹であり生命であるからですね。

(太字は引用者=ぼく)
この話はとりあえず阿嘉島と関係ないので置いておいて。
阿嘉島の野田隊長に関しては、こんなテキストもありました。
沖縄集団自決冤罪訴訟 第3回口頭弁論原告準備書面

(2)中村仁勇『青年義勇隊』
 
当時県立一中の二年生だった座間味村阿嘉の中村仁勇は、地元で組織された義勇隊に入り、部隊と一緒に行動していたが、同人の『青年義勇隊』(乙9・703頁)の中で、戦隊長の野田少佐がとった住民に対する措置について次のように述べている(708頁〜)。   
野田隊長は、住民を殴ったり、処刑したりして、みんなからは反感をもたれていましたが、ただ一つ、住民に対する措置という点では立派だったと思います。
二十六日の斬り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って「部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか」ときいたわけです。野田隊長は、「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」と指示したそうです。
杉山というのは、杉に似た木が何本か生えているところで、そこは三方に高い山があって谷間になっています。どこから弾がとんできてもあたらない安全地帯です。そこに、三八〇名ほどの島民が一カ所にかたまって避難していました。避難というより、部落民はそこで一緒に死ぬつもりで集まっていたわけです。私もその夜は杉山へ行って家族と一緒にいました。
翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が三名ついているのが見えました。後で聞いたんですが、糸林軍医が二名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。

割と野田隊長に関しては「ひどい人」という証言が多いようなので、この『青年義勇隊』も含めて、いくつかの書籍(テキスト)を読んで、いろいろ考えてみたいです。
以下のものも伝聞情報的なものですが、ネットで読めるものとして。
阿嘉島

私は社長に遠慮がちに阿嘉島での集団自決について質問したが、阿嘉島では守備隊長が「島民は前面に出る必要はない」との方針であったため、島民の犠牲者は少なかったとのことであった。

もう一つ、証言として。
琉球蛙:戦闘中止命令は・・慶良間からの証言12

座間味海洋文化館・宮里清五郎氏の証言。
 
どうにも止まらない―おじいの証言。
「(慰安婦は)座間味に7人、阿嘉に7人、渡嘉敷に7人おった。」
「阿嘉の隊長は結局8月15日まで戦争止めなかった。それで陸士の二期先輩の梅沢隊長が呼ばれてね。(本島の)屋我にいたんだが、座間味の人は大勢あそこに収容されてね、
隊長は怪我してたんだが担架に乗せられて運ばれてきた。それで抵抗やめなさい、と言ったんだが(阿嘉の)隊長は、天皇陛下から電話貰うまでは止めない、まあ(この通りではないが)当時の軍隊の教育は徹底してるから、もっと上の人の命令じゃないと聞かない、という話だ。」
 「大体、日本人は言っても聞かない、だから乗り込んで叩くしかない、台湾をやめて(上陸しないで)、沖縄(を直接攻撃すること)に決めた、これは(太平洋地域総司令官)ニミッツが急に変えたらしいですよ。」

(太字は引用者=ぼく)
なかなか現場の軍隊に戦争をやめさせるのは難儀なようです。
もっと伝聞情報っぽいものでは、こんなのとか。
沖縄離島制覇計画: 阿嘉だけじゃない!慶留間・座間味島

慶良間諸島は、阿嘉島以外の島には、年輩の人がほとんどいないのだけど、阿嘉島だけは年輩のおじいやおばあが、皆さん生き残っているのだそうです。
というのも、慶良間諸島は、最初に米軍が日本上陸した地であります(これは比較的有名な話)。その際、慶良間諸島の各島では、住民が集団自決したところが大変多いのです(ちょっとシリアスさーちー)。これは、当時の定説では、米軍は残虐で、捕まると大変なことになる、家族を苦しめたくなければ、その前に家族を速やかに殺してあげなければならないということになっていて、それに従って家族を殺して、自分も自殺をする人が多かったためです。今でも情報の乏しい離島ですから、当時の離島の情報の乏しさは推して知るべしです。日本兵からそういう情報を提供されたら、一も二もなく信じてしまう人が多かったことは想像に難くありません。
が、そんな中、阿嘉島では、唯一、集団自決がなかったそうなのです(うーん、今回のさーちーは教養が身に付きますね)。それは、阿嘉島にいた軍人さんで鈴木大尉という人が、住民達に対して「米軍はそんな酷いことをする人ではない。自分は進軍して死んでくるが、その後は、みんな米軍に投降するように」旨の指示を出して、敵軍に向かっていったそうな。そして、阿嘉島の住民だけはその指示に従ったために村人は死なずに済んだという話です(ちなみに、当時はまだ橋でつながっていなかった慶留間島では、すぐ隣なのに集団自決が発生しているとのこと。)。今でも、島のおじいやおばあは、鈴木大尉を大変尊敬していて、各自の家で祀ったりしているそうです。

ちょっと「大尉」という位の人が出てこなかったのでおどろきました。今までの引用テキストで出て来たのは「少佐(隊長)」「中尉」「少尉」で、「「集団自決」の再検討― 沖縄戦の中のもうひとつの住民像 林博史」のテキストの中では、中尉・少尉は投降している、とのことでした。
目黒川の畔にて: 米軍慶良間上陸60年目の日に座間味島訪問

慶良間諸島への米軍上陸時に、座間味、慶留間、屋嘉比、渡嘉敷の4島では「集団死」と呼ばれる悲劇が起きていたのだそうです。米軍に捕らわれることを恐れ、集団で命を絶ったのです。座間味では、野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役を含む村職員と家族67人が壕内で死亡したのだそうです。座間味村の丘を上がっていく中腹にその慰霊碑を確認しました。
慶良間海洋文化館という民間の施設が座間味島にありますが、慶良間の歴史を物語るなかに戦時中の写真なども展示され、元沖縄総合事務所の職員をされていたという「館長」さんからも、気持ちのこもったお話しを伺いました。
仲村村長の話では、慶良間の全ての島で同じように集団死があったわけではないとのことでした。座間味の隣の阿嘉島では集団死はなかったとのことでした。その理由について、村長は、「阿嘉の守備隊の鈴木大尉という人物が、命をつなぐ重要性を島民に説いていた。鈴木大尉は、稲作の指導も島民にしていたが、条植えを指導する中で、その技術をきちんと引き継いでいくためにも島民は生き残らなければならないと言って、自らは突撃の死を遂げていった」ということをお話しになっておられました。
座間味など他の島では、別の守備隊関係者が、米軍に補えられた際の恐怖心を煽ることで、村民の半数が亡くなる(400人)という悲劇に繋がったとのことでした。

(太字は引用者=ぼく)
この「鈴木大尉」、ものすごくいい人みたいです。
大田さんから「今この一言」

唯一、沖縄戦で一種の救いともいうべき武士道に近い事例があった。慶良間諸島は渡嘉敷(とかしき)島の前島に守備軍の一部が駐留しようとした時、渡嘉敷国民学校の比嘉儀清分校長は、軍隊にいた経験から「平和な島の住民を守るには絶対に軍隊を駐屯させてはならない」という信念の持主で、駐留のためやってきた守備軍の鈴木常良陸軍大尉にたいし、決死の覚悟で兵隊の撤退を要請した。それに対し当初は怒りまくった鈴木隊長は、比嘉分校長の熱意にほだされ、同校長にすべてを任せるといって撤兵に応じた。その後、約150人ほどの米兵が同島に上陸したが、兵隊もいず無防備なことを知ると、船上からスピーカーで「この島には一切の砲撃を加えないし、捕虜もとらない。安心して平常通りの生活をしなさい」と言い残して去った。こうして慶良間の他の島々では、友軍による虚殺とか集団自決とか玉砕といった言語に絶するおぞましい地獄絵図が繰り広げられ、米軍従軍記者が「最悪の醜い戦争」と報じたほどであった。しかし前島だけは、270人の住民が何事もなく生き残れたのである。鈴木大尉と比嘉分校長の行為こそ武士道に準ずるものと思われてならない。

この「鈴木常良陸軍大尉」と、阿嘉島の「鈴木大尉」とは、どうも違う人みたいなんですが、そこらへんイマイチはっきりしません。
一応こんなテキストがあるわけなので、多分違う人だと思います。
【沖縄戦】 沖縄と前島と渡嘉敷島(その1) 【マルレ】 - 徒然日記「多事某論」 楽天支部

海上挺進基地第3大隊(暁16790) 指揮官鈴木常良少佐
 →20.2.17臨時独立第3大隊改編本島へ移動

ということで、連休が終ったら以下のテキストでも探してみることにします。
昭和史研究所会報・<第81号>目録

会報バックナンバー
沖縄県慶良間列島「集団自決」<元阿嘉島防衛隊員の手記>
「軍が自決を強制」は疑問 (続)
住民と朝鮮人の投降許した隊長 大城守成 (沖縄県 76歳)
…住民・軍夫の投降許可
朝鮮人は生き残れ
…暖か味ない厚生省

Amazon.co.jp: アリランのうた―オキナワからの証言: 本: 朴 寿南

4 阿嘉島朝鮮人「軍夫」・島民殺害(元特幹兵・儀同保氏の証言
防衛隊から陸軍二等兵になった大城守成氏の証言
渡倶知郁子さんの証言
金城清吉・中島広さんの証言)

Amazon.co.jp: ある沖縄戦 慶良間戦記: 本: 儀同 保
特に「儀同保」さんの本は、何冊か目を通しておいたほうがいいかもしれません。
Amazon.co.jp: 陸軍水上特攻隊 ルソン戦記―知られざる千百四十名の最期: 本: 儀同 保

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
儀同 保
大正15年4月、新潟県の山村に生まれる。小学校卒業の後、検定(専検、教員)試験を受け、代用教員をつとめる。昭和19年4月、船舶特幹隊に第1期で入隊。海上挺進第2戦隊員として、沖縄慶良間列島に配属され、翌年3月からアメリカ軍と戦闘。8月、捕虜収容所に入り、21年1月に復員。その後、村役場につとめながら司法試験に合格。司法研修所をおえて、35年から東京で弁護士の生活に入る。いくつかの労働組合や会社の顧問、団体の役員、中央選管委員をつとめる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

まとめると、
阿嘉島」の「鈴木大尉(中尉?)」および「野田隊長」のことについて、もう少しくわしく知りたい(調べたい)。
ということです。