昭和天皇の実弟・秩父宮の「心の友」と史上最大の兄弟喧嘩(2)

これは、以下の日記の続きです。
昭和天皇の「もう一度戦果を挙げてからでないと」発言と史上最大の兄弟喧嘩(1)
 
見出しは演出です。
大正天皇には三人の息子がいました。直情的な性格の長男・昭和天皇に、皮肉屋で知的な次男の秩父宮、皆に愛される性格の敬虔な三男・高松宮、というのは実はウィキペディアの「カラマーゾフの兄弟」からの引用テキストで、これで庶子のスメルジャコフがいたら「お前らアル・カラマーゾフやってんじゃねぇぞ!」とツッコミを入れたくなるところです*1
その、昭和天皇の一つ下の、秩父宮*2の伝説として「2・26事件の背後には、秩父宮殿下の陰謀があった」という、まるで由井正雪本多正純の出てくる講談みたいな話が、世の中に流布しているわけです。
どういう形で伝わっているか、という話はあとでしますが、その中に事件当時、陸軍歩兵第3連隊第6中隊長だった「安藤輝三」という人物がいます。
WR2255日中戦争の問題点を検証する61号060217岡崎

1935年(昭和11)2月26日、前夜からの大雪が未明になってやっと止んだ。
午前5時、皇道派陸軍青年将校ら1483名がついに反乱を起こした。
近衛歩兵第一連隊の栗原安秀中尉率いる隊は総理大臣官邸を襲撃し、内閣総理大臣岡田啓介を射殺した。(しかしこれは岡田の義弟である秘書官・松尾伝蔵だった)
安藤輝三大尉率いる部隊は侍従長鈴木貫太郎邸を襲撃し、鈴木に発砲するが、一命は取り止めた。
四谷の内大臣斎藤実邸、赤坂区表町の大蔵大臣・高橋是清邸を襲撃して両人を射殺。
杉並区上荻窪教育総監渡辺錠太郎らを殺害し、神奈川県湯河原の前内大臣牧野伸顕の療養先、麹町区桜田内大臣・後藤文夫邸、さらに陸軍省参謀本部や警視庁なども襲撃され、東京の中心部である霞ヶ関三宅坂一帯を占領した。

たとえばこの人が、死刑執行の際に一人だけ「秩父宮殿下万歳!」と言ったという都市伝説があるわけです。
Let's Blow! 毒吐き@てっく: 戦前は皇族の方々も軍や政治に深く関わった・・・そういう時代だった

安藤は事件後、銃殺されるまさにその時まで秩父宮への尊敬を忘れず、処刑前夜の遺書の中には秩父宮への追慕の念を書き連ねて、処刑場で十五名の処刑された青年将校が、全員「天皇陛下万歳」を高唱し従容として死に就いたとき、彼だけが天皇陛下万歳に続いて「秩父宮殿下万歳」を叫んだといわれてる(但し「秩父宮殿下万歳」を叫んだのは栗原安秀大尉という説もある)

以下、『秩父宮昭和天皇』(保阪正康文藝春秋)という本に依拠します。ちなみにこの本は秩父宮に関する面白いエピソードが満載で、とても面白いです。今は『秩父宮―昭和天皇弟宮の生涯』というタイトルで、中公文庫で手に入るみたいです(一応アフィリエイト・リンクつき)。
秩父宮陸軍士官学校時代、「心を許した二人の後輩将校」(章タイトルのまま)として「森田利八*3」と「安藤輝三」が出てきます。p96

この大正十三年四月に、士官候補生として歩三に六ヵ月間の訓練にやってきたのが、三十八期生の安藤輝三である。安藤もまた真面目で朴訥で、そして誰と対話しても姿勢の崩れないタイプの男だった。第三十八期生の士官候補生は、安藤のほかに二人が歩三に配属されてきており、彼らを指導する軍事教官に秩父宮がなった。
秩父宮が安藤と親しくなったのは、単に彼の人間的な真面目さに好感をもったからだけではなかった。何事にも意欲的に取り組み、わからないことがあったら臆せず貪欲に秩父宮に尋ねてくる姿勢を評価したのであった。秩父宮にとっては、そういう態度がもっとも好ましく映ったのである。

森田利八のエピソードも含めて、ここらへんはなんか、ものすごくホモ・ソーシャルっぽいんですが*4、ともかく仲がよかったうちの一人が2・26事件の首謀者だったり、秩父宮の名前を出す人が叛乱軍の中にいたりしたわけです。
昭和天皇が生涯で激怒した数少ない事件として2・26事件は有名なわけですが、
その時歴史が動いた

本庄繁侍従武官長の間で緊迫した会話がなされる。(以下、「本庄日記」より)
本庄「彼らの行為は陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、もとより許すべからざるものなるも、その精神にいたりては、君国を思うに出でたるものにして必ずしも咎むべきにあらず」
昭和天皇「朕が股肱の老臣を殺戮す。かくの如き凶暴の将校等、その精神においても何の許すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」

前の日記に話を少し戻します。
昭和天皇の「もう一度戦果を挙げてからでないと」発言と史上最大の兄弟喧嘩(1)
「近衛上奏文」を含む関係者の意見を個別に聞いた後、1945年4月7日、大戦末期というか最後の内閣が、昭和天皇のご意向のもとに組閣されます。首相はナナナナナナント! 元海軍大将・元侍従長で2・26事件の際に殺されかかった鈴木貫太郎
WR2255日中戦争の問題点を検証する61号060217岡崎

安藤輝三大尉率いる部隊は侍従長鈴木貫太郎邸を襲撃し、鈴木に発砲するが、一命は取り止めた。

の人です。
鈴木貫太郎 - Wikipedia

二・二六事件のときは事件前夜、たか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招待を受けて夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町3番町の侍従長官邸に帰宅した。午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が襲ってきた。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。そのうち3発が鈴木に命中し、鈴木は血を噴いて倒れ伏した。そこへ安藤が入ってきて、軍刀を抜き、鈴木にとどめを刺そうとした(慈悲として完全に相手の命を絶つ日本古来の作法)。このとき、部屋の隅で兵士たちの銃剣に押さえ込まれていた妻のたかが安藤大尉に「とどめが必要だと仰るなら、妻である私がやります」と声をかけた。
安藤はうなずき、兵士たちとともに鈴木に敬礼してから官邸を出て行った。たかは止血の処置をとってから宮内大臣湯浅倉平に電話をかけた。湯浅は医師の手配をしてから駆けつけてきた。鈴木の意識はしっかりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上(昭和天皇のこと)に申し上げてください」と言った。しかし、声を出すたびに傷口から血が溢れ出た。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んでしまったという噂も存在する。

重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、首相として組閣するように命じた。このときのやりとりについては、侍立した侍従長藤田尚徳の証言(侍従長の回想)がある。あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。」と天皇は言った。命令ではなく、“頼む”から首相をやってくれ言われた人物は、初代内閣総理大臣伊藤博文以来、41代で28名が首相になっていたが、後にも先にも鈴木だけである。

2・26事件で襲撃された人の中で、誰を一番残念に思っているかは昭和天皇は口に出すわけはありませんが、内心は「鈴木侍従長」だったんじゃないかと思います。ていうか、襲撃された人の中で一番よく知っていた人、なんじゃないかと。
ということで、
1・秩父宮の年下の友人・安藤輝三は、2・26事件で昭和天皇侍従長鈴木貫太郎を撃ち、死刑になる
2・鈴木貫太郎は一命を取りとめ、昭和天皇により第二次大戦最後の首相にさせられる
という、なかなかドラマチックな話です。
昭和天皇秩父宮の人間関係ですが、「不和」だとか「憎み合っていた」とかあるみたいなんですけれども、ぼく自身は普通の、年の近い同性の兄弟・姉妹にありそうな「無意識のライバル」視は相互にあったと思います。特に昭和天皇は「用心」してはいたでしょうね。その「用心」は、秩父宮ではなく、秩父宮、あるいはさらにその下の高松宮を「神輿」として担ぎ、「天皇親政」の名で権力を得ようとしていた人たち(陸軍の皇道派=2・26事件の首謀グループ))に対しては、戦争を拡大していった「統制派」以上に、あった、と思います。
ちなみに秩父宮は肺病(肺結核)のため、大戦中はほとんど御殿場の別邸で、生きるか死ぬかの状況でしたので、神輿になるのはむずかしいかな、という感じです。
 
これは以下の日記に続きます。
「秩父宮殿下万歳!」と2・26事件の人は本当に言ったのか、と史上最大の兄弟喧嘩(3)
 

*1:実際の性格は少し違うみたいです。また大正天皇には年の離れた四人目の息子・三笠宮もいました。

*2:歴史上の人物として、「陛下」「殿下」の敬称は略させていただきます。不愉快に感じる人がいたらすみません。

*3:今回のエントリーには直接関係ないんですが、また後で語るかもしれません。

*4:司馬遼太郎の『新選組血風録』みたいです。