日本人奴隷の売買を禁じた秀吉の発令(?)は「バテレン追放令」ではありません

 見出しは(少しだけ)演出です。
 ネットで検索するとこんな感じなわけですが、
バテレン追放令 奴隷 - Google 検索
加賀百万石異聞・高山右近(19)

秀吉 の天下取りの思惑とは別に、大村、有馬の両キリシタン大名を脅かす九州の雄、島津を打ち破るのは右近の願いでもあったに違いない。秀吉と右近の関係は九州平定でますます強固になったと思われた。だが、島津を破り、右近の役割が終わったのを見計らったように箱崎の陣にあった秀吉は突然「バテレン追放令」を出し、右近に棄教を迫ったのである。
 近年、研究者の間で内容の理解の仕方に論争までおきているが、追放令は外国人向けと見られるものと、国内向けの条例のようなものの2種類が出された。定説に従えば1つは次の五項目からなっている。

一、日本は神々の国である。キリシタン国から邪法を授けるのはよろしくない。
一、彼らは諸国で宗門を広め、そのために神社仏閣を破壊した。かつてないことであり、罰せられることである。
一、バテレンは二十日以内に自国に帰るべきである。
一、商船は商売のためであるから、別の問題である。
一、今後、神と仏の教えに妨害を加えなければ日本に来るのは自由である。

 もう1つの国内向けとみられる法令は11カ条からなっている。一条から九条までの内容は▽キリシタン信仰は自由であるが、大名や侍が領民の意志に反して改宗させてはならない▽一定の土地を所有する大名がキリシタンになるには届けが必要▽日本にはいろいろ宗派があるから下々の者が自分の考えでキリシタンを信仰するのはかまわない―などと規定する。
 注目すべきは次の十条で、日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止。十一条で、牛馬を屠殺し食料とするのを許さない、としていることである。
 以上の内容からは▽右近が高槻や明石で行った神社仏閣の破壊や領民を改宗させたことを糾弾▽有力武将を改宗させたのはほとんどが右近によってで、右近に棄教をさせることで歯止めがかかると見た▽バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。
 さらに重要なのは、日本の民と国土は、天下人のものであり、キリシタン大名が、勝手に教会に土地を寄付したり、人民を外国に売ることは許されないということである。天下統一とは、中央集権国家の確立にほかならない。キリシタンは、その足元を乱す、かつての一向宗と同じ存在になる危険性があると秀吉が感じていたことがわかる。
 「バテレン追放令」は、キリシタンが対象であるかのように見えて、実は日本が新しい時代を迎えるため何が課題かを暗示する極めて重要な出来事だったのである。

●〔西欧に資料多数〕
 秀吉のバテレン追放令は、世界のキリスト教史でも重大事件で「バテレンたちの数百枚に及ぶ膨大ともいえる文書がヨーロッパに存在している」(「南蛮のバテレン松田毅一著)という。日本側にも資料は多く、博多で秀吉の茶会に同席していた茶人紙屋宗湛(かみや・そうたん)が残した日記によれば、天正15年6月19日(西暦では1587年7月24日)のことで、秀吉の宴席から2人の使者が出され、1人は博多湾に浮かぶバテレンの船へ、もう1人は高山右近の陣営に走ったと書かれている。

 で、この「国内向けとみられる法令」なんですが、実はどうもこんな情報があったりして、
「バテレン追放令」の「十条」について(コメント欄)

出典は「神宮文庫」内の『御朱印師職古格』で、1939年、渡辺世祐氏が学会に向けて発表

 1939以前には知られておらず、調べた限りでは「神宮文庫」以外の場所にもあるかどうかは未確認でした(五項目からなる「松浦文書」は、資料がたくさん残っているようでした)。
 その条例は、以下のようなものです。これが掲載されているネットテキストって本当に少ないので、覚えておいてくださいね(転送・転載ですが)
「日本史なんて怖くない」 | melma!(No.323)

=======<史料引用・キリシタン大名の規制>===========
一(1)、伴天連{ばてれん《注》}門徒の儀は、其者{そのもの}の心次第{こころしだい(心のまま、自由)}たるべき事。
(2、3は略)
一(4)、弐百町二三千貫《注》より上の者、伴天連ニ成{なり}候に於{お}ゐてハ、公儀{こうぎ}の御意{ぎょい}《注》を得奉{えたてまつ}り次第ニ成申{なりもう}すべき事。
一(5)、右の知行{ちぎょう}より下を取{とり}候ハバ、八宗九宗の儀候間《注》、其{その}主一人宛{ずつ}ハ心次第成るべき事。
(6、7は略)
一(8)、国郡又は在所{ざいしょ}を持{もち}候大名{だいみょう}、其家中{そのかちゅう}の者共、伴大連門徒ニ押付成{おしつけなし}候事《注》ハ、本願寺{ほんがんじ}門徒の寺内{じない}を立{たて}し《注》より太{はなはだ}然{しか}るべからざる義に候間、天下{てんか}のさわり《注》ニ成るべく候条、其分別{そのふんべつ}これ無き者ハ御成敗を加へら
るべく候事。
(9は略)
一(10)、大唐{だいとう(明)}、南蛮{なんばん(ポルトガル・スぺイン)}、高麗{こうらい}え日本仁{じん}を売遣{うりつかわし}候《注》事曲事{くせごと}。付{つけたり}、日本ニおゐて人の売買停止{ちょうじ}の事。
一(11)、牛馬を売買しころし食事{くうこと}、是又{これまた}曲事{くせごと}たるべき事。

右の条々、堅く停止{ちょうじ}せられ畢{おわんぬ}、若{もし}違犯{いほん}の族{やから}これ有らば、忽{たちまち}厳科に処せらるべき者也。

天正十五年六月十八日 御朱印
(神宮文庫所蔵文書)

《注》史料の{ }は読み、( )は意味を表す
   伴天連 キリスト教の宣教師。ここではキリスト教をさす
   弐百町二三千貫 知行地二百町は貫高(銭納換算年貢額)二三千貫に相当した
   公儀の御意 秀吉の許可
   八宗九宗の儀候間 仏教にもいろいろと宗派があるから。八宗とは南都六宗天台宗真言宗。九宗はこれに禅宗を加える
   伴天辺門徒ニ押付成候事 キリスト教への入信を強制する
   本願寺門徒の寺内を立し 一向宗徒が寺内町を作ること。一向一揆の拠点となった
   さわり 障害
   日本仁を売遣候 日本人を奴隷として海外に輸出する
   神宮文庫所蔵文書 伊勢神宮の内宮・外宮に伝わる記録などが収められている

 で、これはぼくの判断なんですが、伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」にしか残されていないテキストが本当に全国の大名や日本に来ていた外国人に伝えられた(発令された)ものとしていいのかどうか、という疑いがあります。
 さらに言うと、「第十条」の、

一、大唐{だいとう(明)}、南蛮{なんばん(ポルトガル・スぺイン)}、高麗{こうらい}え日本仁{じん}を売遣{うりつかわし}候《注》事曲事{くせごと}。付{つけたり}、日本ニおゐて人の売買停止{ちょうじ}の事。

 これは、テキストを読むとわかるとおり、「付」はともかくとして、「南蛮人」に対する人身売買の規制ではなく、領主・大名に対する規制です。
 というか、これは「バテレン追放令」ではなく、テキスト全体としては、「日本史なんて怖くない」の人が書いている通り、「キリシタン大名の規制令」と、解釈するほうがいいように、ぼくには思えたのですが、皆さんはいかがでしょうか。
 そこで、こんなテキストに関してはもう少し批判的に見ないといけないだろうな、というわけで。
himosan's OpenLab - Slavery in Japanese Society : 日本社会と奴隷制 -

 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 天正15年(1587年)6月18日には「宣教師追放令」は出していないし(出したのは6月19日)、18日に出された「キリシタン大名の規制令(仮)」が正式に「発布」されたかどうかは、ぼくには未確認でした。
 したがって、「日本ニおゐて人の売買停止」を、日本人・外国人を問わず秀吉が公に命じたかどうか、も未確認なのでした。
 
 
 あと、こんなテキストも。
安野 眞幸 (あんの まさき)

『バテレン追放令――16世紀の日欧対決』(日本エディタースクール出版部)
サントリー学芸賞 サントリー文化財団 サントリー
秀吉が天正15年(1587年)6月19日に「バテレン追放令」を発したことは、「教科書」にも記されており、一般的によく知られているが、多少ともキリシタン史に関心を持つ者には、何とも理解しかねる不審な点が残る。まず「松浦家文書」の中の五ヵ条の文書だが――
 「……この文書のポルトガル語訳が納められているフロイス『日本史』の翻訳を松田毅一と共にすすめた川崎桃太から、当文書が『今に至るまで、日本の歴史家の何びとによっても厳密に現代語に訳されていない』ことが厳しく指摘されている。川崎の指摘をまつまでもなく、当文書に関する本格的分析・検討は、未だ充分には行なわれていない。本稿は、こうした課題に応えることを目的としている……」いわば本書は前記の「不審な点」への克明な解明である。
 ところがこの文書の外に、伊勢市の神宮文庫が所蔵する『御朱印師職古格』所載の天正15年6月18日付――ということは前記文書の一日前の十一ヵ条からなる文書がある。そして前記「五ヵ条」とこの「十一ヵ条」の内容は著しく違う。一体この二つの文書はどのような関係にあるのか。実はこれは、今まで正確な解明は行われていなかった問題である。そして私は本書によってはじめて、「なるほどそうであったのか」と納得することができ、同時にそれによって、「バテレン追放令」の眞相を理解できた。
 簡単にいえば、秀吉は、「伴天連門徒」の大名を糾合して薩摩を討ったが、相手の降伏とともに、両者を自己の統治下に組み入れようとしたのが十一ヵ条の方で著者は次のように記す。
 「……〈伴天連門徒と神社仏閣の両勢力を共に秀吉政権の保護下に置き、両者に平和を命ずる〉ことがこの時点での『天下』の内実であり、右近を頂点とする『キリシタン党』やコエリュに率いられた『イエズス会』に対し、このような形での統合を試みたとすることができる」
 簡単にいえば秀吉の考えは神儒仏基の平和共存をもとにすべてを自らの天下に統合することであったが、右近もコエリュも当然のことながらこれを受けいれることはできず、そこで秀吉は「キリスト教国家のイデオロギー」と対決せざるを得なくなる。
 この十一ヵ条には「神国」という言葉も「邪法」という言葉も出て来ないが、相手の拒否に対して、はじめて五ヵ条の追放令が出される。といっても四条、五条は黒船の来訪は差し支えないし、仏法をさまたげないなら「きりしたん国より往還くるしからず」である。そして相手のイデオロギー絶対化に対して、対抗するように「日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事」となる。
 以上の経過は欧米と日本との間に、明治以降にもしばしば生じた図式であり、本書の副題である「16世紀の日欧対決」は現今の諸問題にもさまざまな示唆を与えてくれる。
山本 七平(評論家)評