アニメ『鉄腕アトム』の制作費神話について・3:アニメーターは儲かる職業だった

 これは以下の日記の続きです。
アニメ『鉄腕アトム』の制作費神話について・2:萬年社の「三十万円」
 
 今回は「虫プロの経営努力」、つまりアニメーターは儲からない職業ではなかった、という当時の証言などの話をします。
 引き続き『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本』の、第三章・「『鉄腕アトム』の背景」の3・2、「制作費に関する異聞」を、コメントを交えながら引用してみます(p120〜134)。太字は引用者(=ぼく)によるものです。

虫プロの経営努力
 
 以上のように、『鉄腕アトム』の受注契約額については、真相がいまだに明らかではないのだが、原作者でありアニメ制作責任者の手塚治虫、法人としての虫プロ、代理店の萬年社それぞれの対応には、度合いの多少はあるものの、一応の合理性がある。つまり、手塚の「五十五万円」にしても、手塚のいう「ダンピングすることでテレビアニメを独占したい」という発想そのものには、一定の合理性を認識すべきであると思われる。
 したがって、「五十五万円」という数字が決定したとしても、それを議論の出発点とするのではなく、その背景にある諸事情から議論しなければならなかったはずだ。先にも指摘したように、過去の研究者は、手塚の発言のあいまいさや、あまのじゃくな面は知っていたにもかかわらず、『アトム』制作費に関しては、手塚を中心とした伝聞のみを信じきっていたのではないか。筆者が本節冒頭で、金額面にはあまり意味はないとした理由は、こうした事情による。
 それでも「五十五万円」という数字が公になり、それが業界内に流布した影響は大きかったようで、「テレビアニメは意外に安価で制作可能で、しかもスポンサーとの関係も築け、経営的に成立しそうだ」という風潮ができてしまった点は事実だろう。結果として、東映動画やTCJのような既存会社ばかりでなく、東京ムービーのような新規会社も続々とテレビアニメ事業に参入した。
 先に引用した古田の調査によると、TCJの『エイトマン』と東映動画の『狼少年ケン』の契約上の制作費について、「『エイトマン』は、「他の(午後六時台の)番組より高かった」。また、NETの『狼少年ケン』は「五十五万円プラスアルファ」「五十五万円より高いが百万円には達しない」ということであった」と、当時の番組担当者(三輪俊道(元TBS)、村田英憲(エイケン社長)、宮崎慎一(元NET)から証言を得ており(前出『鉄腕アトム』の放送に関する時代考察)、やはり『アトム』の「五十五万円」という制作費が基準にされたのではないかと推測される。
 こうした流れの中で、虫プロが萬年社から「二重契約」を得ていたのだとすれば、良く言えば虫プロという一法人の経営戦略が功を奏したと言えようが、業界全体の在りようを考えると、これはやはり禁じ手である
 しかし、この問題の議論では、やはり「五十五万円」という数字に固執すべきではない。
 その最大の理由は、そもそも、『アトム』は初回放映から最終回まで、ずっと「一本五十五万円」で制作していたのではなかったからである。ましてや、『アトム』以降の『ジャングル大帝』その他の虫プロテレビアニメ作品の事情は、さらに違う。
 本書のインタビューにおける営業の須藤将三の説明は、次のようなものである。

「穴見さんが萬年社から虫プロへ移籍して、今度は穴見さんが萬年社と値上げ交渉をするわけです。手塚さんには最初「五十五万で」と言っていたのが、実際の「百五十五万」であることを報告したのはおそらく2クール放映後(半年後)くらいだったと思いますが、もちろん、経理上は最初から百五十五万円で処理していました。その後も値上げを交渉をしていって、『アトム』は放映された四年間で、最終的には一本三百万円を超えるまでにはなったと思います。当時は、白黒作品で三百万円くらい、『ジャングル大帝』のようなカラー作品だと五百〜六百万円でやっていたと思います。私が担当した『バンパイヤ』は白黒ですが、一本三百五十万円でやったんですよ」

『バンパイヤ』(一九六八〜六九)は、虫プロ関連会社の虫プロ商事が制作した実写・アニメーション合成作品で、全編アニメーションの作品とは単純比較はできないが、おおむねそういう相場だったようだ。ただし、山本瑛一によると、『バンパイヤ』は「大赤字だった」という(『虫プロ興亡記』)。
 その山本も、経営には関係していなかった『ジャングル大帝』での事情を、本書のインタビューで次のように語っている。

「私は『アトム』の後で『ジャングル大帝』をやったんですが、これも売値はよく知らないんですが、私に渡された予算が一本二百五十万円なんです。もちろん、事務職員の人件費や営業経費、諸経費とかを除いた、制作現場での純粋な予算です。それに二百五十万円かけられるということは、代理店への売値としては、かなりの数字でないとできないはずです」

 こうした作品そのものの売値に加えて、『アトム』は日本におけるキャラクタービジネスの原点と称されるように、お菓子のパッケージやオマケ、文房具等にキャラクターをあしらい、その商品の定価や売り上げに合わせてロイヤリティを得るマーチャンダイジングを展開して、虫プロは大きな収入を得ていた。また、『アトム』の場合は、あめりかNBCへの作品売り込みにも成功して、こちらからも収入があった。山本瑛一によると、一本一万ドル、五十二本では二億円近くの収入になったという。(『虫プロ興亡記』)
 以上のような状況を考慮すれば、虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。「『アトム』を五十五万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった」という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。
 最後に、これはしばしば関係者が証言しているにもかかわらずあまり再検討されることがないのだが、虫プロスタッフの給与水準という側面から考えてみたい。
 山本瑛一は、初任給を「三万円」と提示され、驚愕したと回想している。(『虫プロ興亡記』)山本の前職おとぎプロでの給与の二倍だったからだそうだが、おとぎプロはもともと主宰の横山隆一が漫画制作の余技に近い形でアニメーション制作を実施していたスタジオであり、給与水準はもとも低かったと考えられる。しかしながら、同時期、つまり一九六三(昭和三十八)年に東映動画に入社した新人アニメーターの給与は一万九千五百円だったというから(一九六三年四月に東映動画に入社(定期採用)した宮崎駿の初任給は一万九千五百円だったという(片桐卓也編「宮崎駿・年譜」、アニメージュ編集部編『映画「天空の城ラピュタ」ガイドブック』徳間書店、一九八六.三七四〜三七九頁)。ちなみに、宮崎よりも六年あまり前の東映動画へ臨時採用された大塚康生の初任給は六千五百円だったという(大塚康生『作画汗まみれ・増補改訂版』徳間書店スタジオジブリ事業本部、二〇〇一))、それと比較しても、虫プロは破格の給与水準だったと言えよう。
 また、アニメーターではなく撮影スタッフとして入社し、二年後に営業スタッフとなった須藤将三は、本書のインタビューで、営業時代の事情を次のように回想する。

一般的な企業でも月給が二万二千円だった時代に、私は七万円もらっていました。しかも、「給料をいくら上げてほしいか?」と聞かれたことがあって、私は冗談で「五万円上がったらもう死んでもやりますよ」と言ったら、次の月に本当に五万円上がってきました(笑)。いきなり十二万ですよ。そんなの会社の経営とは言えないじゃないですか。それに、私もそんなにもらっても使い道がないんですよ。毎日徹夜ですから。だいたい家に帰るのは着替えを取りに帰るだけで。

 一方、一九六四年三月に制作スタッフとして入社した富野喜幸(とみの・よしゆき、現・由悠季、一九四一〜)は、「虫プロの初任給は一万五百円だったと思う」と回想しているが、同年末には演出へ移行し、さらに翌年秋には「東映テレビのケン坊だって、月に二万なにがしだ。今の私の収入は月々四万円以上の出費を支えている」と回想するまでに、安定した収入を得ている。(富野喜幸『だから僕は…』徳間書店、一九八一)
 アニメーター・演出の杉井ギサブローは「自分を含め当時の中核スタッフは、一番もらっていた時期で月二十万近かったと思う」と回想する(本書のインタビューによる)。
 さらに、『アトム』『ジャングル大帝』等の脚本を執筆した辻真先(つじ・まさき、一九三二〜)は、虫プロでの初回の脚本料として受け取ったのが一本五万円で、これは辻がそれまでに仕事をしていたテレビアニメ『エイトマン』の脚本料の二・五倍だったという。(二〇〇四年七月四日、東京都江東区の森下文化センターにおける講演で、辻真先が語った内容による)
 
 虫プロの給与決定方針が「どんぶり」だったと言えばそれまでだが、忘れてはならないのは、それだけの給与が支払えるだけの収入が、当時(設立初期)の虫プロにはあったということである。それはつまり、先述したように『アトム』最初期の「五十五万円」から契約金額を上げていく努力をしていたし、ロイヤリティ収入を確実に取っていたからこそ可能だったのであって、そこには相応の経営戦略があり、「アニメーターは貧乏」という状況にはない。徹夜が連続する労働状況の厳しさは今日と同様かそれ以上だったようだが、給与面に関しては、少なくとも初期の虫プロ社員は「裕福」だったわけである。
 もちろん、こうした状況は時期と立場によっても相当に異なり、特に社員が四百人以上にも拡大して、それでも社内だけでは仕事をさばききれずに外注に頼るようになり、併せて役員の穴見薫が経営健全化を目指して経費の管理を徹底してからは、末端のアニメーターの給与は著しく抑えられていたようである。
 それでも、今日までアニメーターの給与水準が著しく低く抑えられてしまっているのは、『アトム』以降に新規参入してきたプロダクションの経営努力の有無や度合いにも、その要因を求めるべきではないのか。また、当初は版権収入を要求しなかった放送局や出版社が、次第にそれらの権利を要求しはじめ、アニメ制作会社の収入が相対的に低くなってきたことも遠因として挙げるべきであり、これは虫プロには直接的な責任はない。
 須藤将三は、本書のインタビューで、次のようなエピソードを明かした。

「バタやん(川畑栄一)が、ある広告代理店から『アトム』を使ったコマーシャルを受けたことがあるんですよ。CMの中に、アトムを一カットか数カットかを使いたいというものです。その時に、百万円近いお金を取ったんです。その時にバタやんと話したのは、アニメーションに対する評価が低すぎる、とにかくアニメーションは手のかかるもので、人間のやることなんで、もっと価格を高くしないと。一方の代理店は、その時は虫プロに頼まないとアトムが使えなかったので、いくら高くても仕方がないわけです。結局代理店は、バタやんが言ったとおりのお金を払ってくれた。その当時としたら、非常に高い金額を要求して、勝ち取ったんです。だから、そういうスタンスでやっていれば、今のアニメーション制作環境は、もっと良くなっていた可能性はあります」

 もちろん、その後のアニメ界の在りようについては、須藤の証言にあるようにあくまで可能性の問題であって、以上の状況をもとに結論を導き出すのは危険かもしれない。しかしながら、それと同じく、手塚の「一本五十五万円」という一度きりの放言をもとに、その後のアニメ界を論じるのは、もっと危険であり、理不尽でもある。
 山本瑛一によると、『アトム』をきっかけとしたマーチャンダイジング展開と、海外への作品販売は、いずれも手塚の発案だったという。(『虫プロ興亡記』)
 虫プロ設立当初の手塚は、アニメの商品価値を高め、それに伴う収入を得てスタッフに還元し、さらにその収入をもとに次なる作品制作に活かすという、現実的な経営戦略を提案していたのであり、その点は正確に評価しなければならない。
 ちなみに虫プロが開発した省力化システムの最たるものであるバンク・システムについても、『アトム』放映開始一ヵ月半前に、すでに手塚本人が新聞紙上で次のように発表し、(非常に強引な解釈ながら)その効果を強調している記事があるので、紹介しておく。

「この“バンク・システム”でやれば、採算はとれるはずです。実は“鉄腕アトム”の企画は昨年からあったのですが、採算があうかどうかの検討で一年間かかった。一本目はもちろん赤字です。しかし、十五本目くらいから利益があがってくるはずです。“バンク・システム”だと、たくさん作ったほうが安くつく」(東京新聞「こどもに空想力を、採算のとれる新方式で」、『東京新聞』一九六二年十一月十九日付)

 これで、『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本』からの引用を終わります(p120〜134)。