漫画家・佐々木マキに言った手塚治虫(マンガの神様)のひどいこと
佐々木マキ『うみべのまち』(2011年・太田出版)あとがき。
私は神戸の下町の、貧民細民あまたおわします地区に生まれ育ったので、私の家も、クツがないとか給食費を持っていけないとか、雨漏りがひどいとか米びつが時々カラになるといった程度には貧乏であった。
保証金なしの貸本屋というのは、戦後神戸から始まったそうで、私の子供時分には、どの町内にも二軒ずつくらいあって、それぞれ盛況であった。
私は特に杉浦茂のマンガが大好きだった。杉浦先生はいわゆる貸本マンガ家ではなかったが、貸本屋は一般少年誌も貸していたし、ふろくの別冊マンガも四、五冊タコ糸で綴じて、一冊の貸本として扱っていた。
また近所の子供たちは、それぞれの家にある雑誌を持ち寄って、それら総てを回し読みしたので、「少年画報」も「少年」も、「おもしろブック」も「漫画王」「冒険王」も、「少年クラブ」も「漫画少年」も、見ることができたのである。中には自分の提供分として、妹や姉の「少女クラブ」、「りぼん」や「少女」、「女学生の友」、はては「ジュニアそれいゆ」などを出すものもいて、おかげで私は上田としこや今村洋子のマンガ、藤井千秋や日向房子のさし絵などを懐かしく思い出すことができる。
しかし、とりわけしあわせな時間は、何といっても杉浦氏の未読のマンガとぽんち揚げなどの菓子が目の前にあって、その二つを味わうべく、日にやけた畳に腹這いになる時であった。その時だけは厭なことも辛いこともみんな忘れて、体の中を春風が吹くような、しあわせな気分に浸れるのだった。現実逃避。マンガはまさに避難場所だった。中学生になるとか資本屋の小説と近所の映画館が私のシェルターになった。
十歳の時から色々なアルバイトをしてきたが、マンガを投稿して原稿料を貰うというアルバイトにめぐりあったのは、まことに幸運というほかない。一九六六年のこと、私の兄がどこからか、「ガロ」を創刊号から最新号までひと抱え借りてきたので、私もつげ義春のマンガを楽しみに見ていたら、「ガロ」では投稿作品を募集していたのである。マンガを描いて金を貰う。これなら人に会わずにすむし、時間の融通がきいて真夜中でもできる。
初めての投稿が「ガロ」に掲載された時、現金書留の封筒にメモがはいっていて、おそろしく下手な字で、貴君のマンガは面白いのでこれからも描いて送るように、と書いてあった。この筆蹟の主こそ青林堂社長、長井勝一であった。私はこの紙片を残しておかなかったことを後悔している。長井さんにはずいぶん世話になった。「朝日ジャーナル」が初めてマンガを連載するという時に、私を推薦してくれたのも長井さんだった。
私のマンガについて言えば、初めは普通の風刺マンガを描いていたが、そのうち、コマとコマが因果関係や時間の流れを表わすのではなく、詩の中でコトバとコトバが響き合うように、コマとコマが響き合う、そんなマンガが描けないものかと思うようになった。その試みの第一作が「天国で見る夢」である。
「朝日ジャーナル」は私に自由で実験的なマンガを望んでいた。私もその期待に応えていたら、マンガの神様と呼ばれていた人の逆鱗に触れたのである。神様は綜合雑誌に一文を寄せて、私のことを「狂人である」と断じ、「朝日ジャーナルは狂人の作品を載せてはならない。ただちに連載を中止すべきである」と主張したのだった。興味のある方は一九六九年夏頃の「文藝春秋」だったと思うが、そちらを参照されたい。
もしもマンガを描くことのみで生計を立てている者をプロのマンガ家と呼ぶのなら、私がプロであったのは、わずか十箇月に過ぎない。「ガロ」はすでに稿料の出ない雑誌として知られていた。
また私は、神様の怒りに触れなくても、これ以上前衛的実験的なスタイルでマンガを続けていくための材料もアイデアも、もはや持ち合わせていなかった。私は気が済んだというか、自分なりの実験は一応おしまいにして、さて次に何がやりたいのか自身にたずねたら、それは一九五〇年代の杉浦茂に戻りたい、ということだった。
すなわち、明るくてアナーキーで、呑気でナンセンスな、かわいらしいマンガを描いてみたいと思ったのだ。しかし私の場合、そういうものを発表する場所はどこにもありはしなかった。
仕方なく、私はずるずるとイラストレーションや絵本の方面へ、生活の資を得る場を求めて移動したのである。アナザー・タウン、アナザー・ジョブ。
それでも私は時折、マンガを描きたい衝動を抑えられなくなるのである。それで〈絵本〉のフリをシテ『たわごと師たち』とか『怪盗スパンコール』といった児童マンガを描いてみるのだが、ほとんど売れないまま、たちまち絶版になるのだった。
昨年つまり二〇一〇年、神保町の書店が私の絵本の原画展をやってくれたとき、会場のアンケート用紙に、中学二年生(の多分女性)が「中一の夏、おしいれのガロ1969年2月号が見つかり、先生のマンガを読んだところ、しょーげきを受けました。なぜなら、自分が思っていたマンガらしいマンガだったからです」と書いてくれた。このマンガは「かなしい まっくす」のことだろう。私は少なくともこの子にとっては今でもマンガ家である。ちなみに私の税金申告書の職業欄は一九六九年から現在まで〈マンガ家〉のままである。
マンガの神様というと…一人しかいないですよね? 天皇といえば黒澤明、将軍様といえば立川談志、ムッシュといえばかまやつひろし、ミスターといえば長嶋茂雄、神様といえば手塚治虫。
ということでそのあたりの資料を探して見ましたが…見つかりましたです、1970年3月号文藝春秋巻頭随筆。ずいぶん佐々木マキ氏の記憶と日時が違ってますが、これしかない。
わからぬ漫画 手塚治虫
うちの子はまだちいさいのだが、盛んに漫画らしいものを描く。幼児の絵はそれ自体漫画的な感覚のものだが、まあ大抵の場合、意味がわからないので説明を要する。説明をきいても尚更わからないこともある。
昨年の夏あたりから、朝日ジャーナルに掲載しているSという若い画家の作品が、一部マスコミで取り上げられているが、どうやら学生にちょっとした反響があるそうで、評論家の中にはそれを若い世代の心情を結びつける向きさえある。それによると一般には「わからぬ漫画」で通用しているそうで、ある新聞では、岡本太郎氏はじめ、そうそうたる文化人に、Sの漫画の解釈をしゃべらせていた。
そんなことをすること自体がまさに“マンガ的”である以上に、なんの価値もないものだが、日本のジャーナリズムや文化人たちはなんと「わからないもの」に好意的であろうかと感心する。当のSはまだプロフェッショナルというには未知数で、本人みずからなにを書こうとしたのかよくわからないといったことを述べている。それを、勝手に、意味ありげな理屈をつけて解説するのは、ジャーナリズムのお手のものかもしれないが実にナンセンスだ。
なにも「わからぬ漫画」は、Sの発明によるものではない。文春漫画賞の選考の前後には、ばたばたと自費出版の個人作品集が出る。ベテラン、無名とりまぜて、その半分以上が文字通り「わからぬ漫画」集である。
またデザイナーや純粋美術の方面から、漫画と称して発表されるものも、大半はよくわからない。それを丁寧に漫画界の重鎮たちが推薦文をつけているのもおもしろい。
「むずかしい漫画」というのは、いわゆる共産圏には存在せず、そのハシリは、アメリカのスタインベルグあたりではないかと思われる。彼の「パスポート」という作品集などは、イラストレーションのお遊びのようなものが多く、それも絵が立派だから見られるのだが、一時日本のおとなの漫画に、かれに影響されたらしい難解な作品がかなり出たことがある。
またこれえらの難解漫画は、第二次大戦後の作品で、それ以前には、現在残っている漫画の中にはみあたらない。あったのかもしれないが、霧消してしまっているのだろう。
ぼくが思うのに、漫画が純粋絵画や装飾から独立してその目的をもった時点で、すでに民衆に「よびかけよう」という姿勢があったはずである。プロパガンダもしくはアッピールの目的で、大衆によびかけるには、よくわかるものを与えなければならないのは常識だ。なぜなら民衆を構成する大部分はコミュニケーションすらもたないてんでんばらばらの人間で、注釈や解説の必要なものでは途端に敬遠してしまうだろう。
もちろん「わからぬ漫画」も漫画である以上、その存在意義を認めないわけではない。ただ少数の理解者やエリート達に配られるものならば、同人誌や、自費出版の作品集で充分ではないかということだ。
それがマスコミに載り、「わからぬ漫画」がいやおうなく大衆におしつけられた時、その作品はすでに意義を失っているのである。Sの作品は同人誌的傾向の「ガロ」という雑誌に載っていればよかったのだが、それが発行部数を誇る週刊誌に掲載された時点で、その無意味さがはっきり露呈されたのだ。
チャップリンの偉大さは、皇帝から放浪者にいたるまでよくわかる作品を、大衆の中で終始つくりつづけたことにある。故エノケンもそうであった。ここで興味深いのはエノケンの晩年に、たっての依頼をうけて、かれが「臍(へそ)閣下」という喜劇映画に出演した話がある。喜劇とはいえ、一般大衆にはすこしも笑えないすこぶる独善的な作品だったのでエノケンが怒ってしまって、この映画は続編をつくる予定だったのが、もう協力はしないと断ってしまったということである。
作品自体を批判する前に、映画に対するエノケンの姿勢と、当事者の姿勢とがまるでかみあわなかったことにナンセンスをおぼえた。高木東六氏からこんな話をきいた。NHKの「あなたのメロディ」で、アマチュアの作詞作曲の応募作品の中に、とびきり個性の強いおもしろいものがあったので、出演してもらおうと思ってNHKが通知を出したら、なんと返事が精神病院からであった。
さすがに驚いて、ではせめて出演のかわりに、作曲者の写真でもと依頼したら、ものすごい重症患者のポートレートを送ってきたので、ついに不採用になった、というのである。もしこれが知らされずに、そのままNHKで演奏されていたら、批評家は狂人の作品をほめちぎっていたかもしれないのである。
赤ん坊に絵筆を握らせて作った絵を誰が描いたか知らせずに発表したら、知らぬが仏の文化人の間で熱狂的な理解と賞賛をまきおこすかもしれない。「わからぬ漫画」へわかったような注釈をくっつけた記事を読むたびに、ぼくはふと考えるのである。
…佐々木マキさん、少し話盛りすぎてないかな?
「私のことを「狂人である」と断じ」とか「朝日ジャーナルは狂人の作品を載せてはならない。ただちに連載を中止すべきである」とは、神様も言ってないですよ? どっちかというと笑っちまうぐらい子供っぽい嫉妬。「じぇったいにゆるちまちぇん!」みたいな感じ。
ところでいつごろから手塚治虫は「マンガの神様」ということになったんですかね? 1970年代はじめぐらいの手塚治虫は、原稿は出来てない、虫プロは丸こげ、あげく会費半年300円(鉄腕アトムクラブ)というgdgdな状況だったはず…当時は多分神様とは言ってもタタリ神だった気がします。1980年代になってからかなぁ、手塚治虫=マンガの神様。
そんなことより昔の手塚治虫ってこんな風に言われてたんだぜ…。
→週刊朝日 1949年4月24日号 こどもの赤本 俗悪マンガを衝く
低俗な子供漫画は大阪がもとである。(中略)赤本が売れて法隆寺が焼ける。それが今の日本文化の姿だ。
その画法が、アメリカ日曜新聞の冒険漫画の亜流を行ったようなものでも、さすが格段の腕前で、この程度の絵が揃っていればP・T・Aの有力者も、目くじら立てて漫画の追放を企むこともあるまい。しかし、その手塚治虫が、この頃しきりに大人漫画への進出を志し、今のところ「絵の点」での力量不足のため、進出思うにまかせず、との噂をきく。
一応「大人漫画家」で通っている絵の下手糞な僕が、こうした噂を伝えるのはどうかとも思われるが、僕は、この噂を伝えることにより、一般の子供漫画家というものが、いかに箸にも棒にもかからない粗末な「絵描き」であるかをいいたかったのだ。
エノケンの『臍閣下』って、1969年の映画(最晩年)です。
→蔵出し映画缶 1960年代 自主制作映画
→『臍閣下』 作品詳細、上映スケジュール − エンタメ〜テレ 最新映画ナビ
核時代のこの世に生まれ育ったエロス(八戒)テロス(悟空)グロス(悟浄)の妖怪三人組が、精力絶倫を誇る臍一族の支配者に挑戦するという話。現代の暗黒を卑猥と哄笑の精神で描いたグロテスク喜劇。
スタインベルグの『パスポート』に関しては以下のサイトなど。
→おとなまんが! | ロベルトノート
→ソール・スタインバーグ「The PASSPORT」1954年 ソウル・スタインベルグ、Saul Steinberg
手塚治虫のイカれ具合は、たとえばこんなところに書いてあります。
→「ブラック・ジャック創作秘話」 漫画の神様、手塚治虫の知られざる伝説!ただの神じゃあ済みません!! 3階の者だ!!〜ブログ編〜/ウェブリブログ
ぎりぎりの進行で上がるアニメに「リテイク!!(撮り直し)」「ブラック・ジャックはね、こんなふうに歩かないんですよ!!」
まさに外道。
ブラック・ジャック創作秘話?手?治虫の仕事場から? (少年チャンピオン・コミックス・エクストラ)
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