アニメ『鉄腕アトム』の制作費神話について・1:宮崎駿の手塚治虫批判テキスト全文その他

 これは以下の日記の続きです。
「アニメの制作費が安いのは手塚治虫のせい」というのは本当か
「アニメの制作費が安いのは手塚治虫のせい」というのは本当か・その2
「アニメの制作費が安いのは手塚治虫のせい」というのは本当か・その3(補足)
 
 この本が面白かったので紹介。

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

★『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本』(津堅 信之 著/エヌ・ティ・ティ出版/2,520円)【→amazon

「アニメが作りたいからマンガを書いている」とまで言った手塚治虫。彼が日本のアニメーションに与えた影響を豊富なインタビューを交え、総合的な視点からとらえなおす。

 話の内容は、手塚治虫の作った・作りたかったアニメはどのようなものだったのかについて、またそれはどう評価すべきか、について、実験アニメも含めて語っている(当時の関係者の証言も集めている)、読みごたえのある本なのですが、手塚アニメの話をするとどうしても、日本で最初に毎週放映されるTVアニメを作った人とその作品(『鉄腕アトム』)の功罪になってしまうわけで。
 この本では手塚治虫は「日本のディズニー」を目指してはいなかったこと、当時すでにリミテッド・アニメのチャチな米国製アニメが毎週50本を越える数で放映されていたこと(放映時間は1話10分程度のもの)、金をかけなくても日本のアニメは「物語(ストーリー)」で勝負できるものが作れる、と思っていたこと、アニメの演出家としては手塚治虫はダメだったこと、などが書かれていて、なかなか面白いので、興味のあるかたは是非ご一読ください。
 で、今回からはこの本の中の第三章・「『鉄腕アトム』の背景」の3・2、「制作費に関する異聞」を、コメントを交えながら引用してみます(p120〜134)。ちょっと長いので、何回かに分けることにします。
 ぼくが「「アニメの制作費が安いのは手塚治虫のせい」というのは本当か・その2」で語った、

1・手塚治虫が「鉄腕アトム」を毎週50万円で作っていた、というのはどうだろう(萬年社からプラス100万円もらっていたっぽい)。
2・その「毎週50万円」でも、当時のテレビの一般的な制作費としては安いほうではなかった。とはいえそれをさらにダンピングする会社も出てきたりした。
3・キャラクターの商品化権で関係者が莫大な利益を得ることができ、逆にそれによって「アニメの制作費(を高くすること)」に対する考慮があまり進まなかった。
4・アニメーターの給料は歩合制・出来高制という能力給になった。
あと、
5・当時の関係者とか現場の人というのは、いろいろな条件が違っていたり、記憶違いなどもあるみたいなので、その発言を全面的に信用しすぎるのは危険
というのが、1960年代半ばから1970年代はじめぐらいの、混沌とした日本アニメ黎明期の状況じゃないかと思いました。

 と重なる部分も多いですが、関係者の証言が多種多様で、とても参考になります。
 まず、宮崎駿『出発点』(徳間書店)の『手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した』(初出:「Comic Box」1989年5月号)と思われるテキストの全文を引用してみます。
 以下のところから。
痕跡症候群 | 【ウソ】漫画界の噂【ホント】

宮崎駿手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した』
 
手塚さんは闘う相手だった
 
 手塚さんの特集だそうですが、悼む大合唱はたくさんあるだろうから、それに声を揃えて一緒に大合唱をする気は、ぼくにはないです。
 要するに、手塚さんを神様だと言っている連中に比べてずっと深く、関わっているんだと思います。闘わなきゃいけない相手で、尊敬して神棚に置いておく相手ではなかった。手塚さんにとっては、全然相手にならないものだったかもしれないけど。やはりこの職業をやっていくときに、あの人は神様だと言って聖域にしておいて仕事をすることはできませんでした。
 まずぼくが手塚さんの影響を強くうけたという事実がある。小中学生のころのぼくは、まんがの中では彼の作品が一番好きでした。昭和二十年代、単行本時代−最初のアトムのころ−の彼のまんがが持っていた悲劇性は、子ども心にもゾクゾクするほど怖くて、魅力がありました。ロックも、アトムも、基本的に悲劇性を下敷きにしていたでしょう。アトムは後期になって変わってゆくけど・・。
 それから、十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。
 ぼくは全然真似した覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥の引き出しにいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて・・。
 本当に抜け出せたのは、東映動画に入ってからですね。二十三、四歳です。東映動画に入ったら、ひとつの別の流れがあったから、その中で自分なりの方向をアニメーターとして作っていけばいいとわかった。アニメーターとしてというのは、キャラクターを自分の持ち物にすることではなくて、それをどうやって動かすかとかどうやって演技を表現するかという、動きを追求することのほうが自分にとって問題になっていったから、いつの間にか絵がだれかに似ているかということはどうでもよくなっていきました。
 それに、影響といえばぼくはまず日動(日本動画社)時代から東映動画へと流れてきた一種の伝統のようなものの影響下にあると思うし、他にも当時のまんがの白土三平の考え方に影響を受けたり、そういうことは無数にありました。小学生のころも、福島鉄次という「砂漠の魔王」を描いた人には、一時手塚さんよりも激しくマイっていましたから。
 
作家の手管
 
 ぼくが、いったいどこで手塚さんへの通過儀礼をしたかというと、彼の初期のアニメを何本か見たときです。
 漂流している男のところに滴が一本たれ落ちる「しずく」(1965.9)や「人魚」(64.9)という作品では、それらが持っている安っぽいペシミズムにうんざりした。かつて手塚さんがアトムの初期のころ持っていたペシミズムとは、質的に違うと思って−あるいはアトムのころはぼくが幼かったために安っぽいペシミズムにも悲劇性を感じてゾクゾクしただけかもしれない。その辺はもう確かめようがありませんが。要するに、残骸がそこにあった。いくつかある小さな引き出しの中で昔使ったものを開けてみて、ああこういうものもありましたよ、と出してきて作品に仕立てたという印象しかなかったんです。
 それより以前に、「ある街角の物語」(62.11)という、虫プロが最初に総力を挙げてつくったというアニメーションで、バレリーナとヴァイオリニストか何かの男女二人のポスターが、空襲の中で軍靴に踏みにじられ散りぢりになりながら蛾のように火の中でくるくると舞っていくという映像があって、それをみたときにぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました。
 意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の”神の手”を感じました。−それは、「しずく」や「人魚」へと一連につながるものです。
 昭和二十年代の作品では作家のイマジネーションだったものが、いつの間にか手管になってしまった。
 これは先輩から聞いた話ですが、「西遊記」の製作に手塚さんが参加していたときに、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれどなぜその猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知ったときに、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。
 ぼくの手塚治虫論は、そこまでで終わりです。
 そのあと、アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います。いちいちそれを言葉に挙げていうのはしんどいから言いませんが、「展覧会の絵」(66.11)も、何だこの映画と思ってみていた。「クレオパトラ」(70.9)も、ラストで「ローマよ帰れ」と言うあたりに、嫌味を感じました。それまでさんざん濡れ場ばかり一所懸命やっていて、何が最後に「ローマよ帰れ」だと思って、その辺に手塚さんの虚栄心の破綻を感じたんです。
 一時彼が「これからはリミテッドのアニメーションだ。三コマがいい三コマがいい」とさかんに言っていましたが、リミテッドアニメーションは三コマという意味ではないですし、その後、言を翻して「やっぱりフルアニメーションだ」とあちこちで喋るに至って、フルアニメーションの意味を知らずに言っているんだと思ってみていました。同じようにローストスコープをあわてて買いこんだときにも、もうぼくらは失笑しただけです
 自分が義太夫を習っているからと、店子を集めてムリやり聴かせる長屋の大家の落語がありますけど、手塚さんのアニメーションはそれと同じものでした。
 昭和三十八年に彼は、一本五十万円という安価で日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に低いという弊害が生まれました。
 それ自体は不幸なはじまりではあったけれど、日本が経済成長を遂げていく過程でテレビアニメーションはいつか始まる運命にあったと思います。引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけで。
 ただ、あのとき彼がやらなければあと二,三年は遅れたかもしれない。そしたら、ぼくはもう少し腰を据えて昔のやり方の長編アニメーションの現場でやることができたと思うんです。
 それも、今ではどうでもいいことですけど。
 
”昭和”の終わり
 
 全体論としての手塚治虫をぼくは”ストーリーまんがを始めて、今日自分たちが仕事をやる上での流れを作った人”としてきちんと評価しているつもりです。だから、公的な場所では「手塚治虫」と彼のことを書いていました。
 ライバルではなく先達ですから。「伊藤博文」と書くのと同じで過去の歴史として書いたとにかく、そういう評価は間違ってないつもりです。
 だけどアニメーションに関してはこれだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますがこれまで手塚さんが喋ってきたことというのは、みんな間違いです。
 なぜ、そういう不幸なことがおこったかと言えば、手塚さんの初期のまんがをみればわかるように、彼の出発がディズニーだったからだと思います。日本には彼の教師となる人はいなかった。初期のものなどほとんど全くの模写なんです。そこに彼は独自のストーリー性を持ち込んだ。持ち込んだけれど、世界そのものはディズニーにものすごく影響されたまま作られ続けた。結局、おじいさんを超えることはできないという劣等感が彼の中にずっと残っていたんだと思います。だから、「ファンタジア」を超えなきゃいけないとか「ピノキオ」を超えなきゃいけないとか、そういう強迫観念からずっと逃れられなかったとしか思えない−ぼくなりに解釈すれば。
 興味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば・・・・。
 亡くなったと聞いて、天皇崩御のときより”昭和”という時代が終わったんだと感じました。
 彼は猛烈に活動力を持っている人だったから、人の三倍やってきたと思う。六十歳で死んでも百八十歳分生きたんですよ。
 天寿をまっとうされたと思います。

 ちょっと元テキストに当たってないので正規なものではありませんが、これを元に少し話します。
 もはや手塚治虫氏は亡くなって反論もできないし、宮崎駿氏はあんなに巨匠になっているので、虫プロの仕事を「好きじゃないだけでなくおかしいと思」う、という発言や、「鉄腕アトム」の制作費の前例で「アニメの製作費(制作費)が常に低いという弊害が生まれ」た、というのは、アニメ好きの間では否定することが難しい、事実のことになっているみたいですが、『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本』には少し違ったことが、ぼくが前に述べたことよりくわしく書いてありました。
 今日はちょっとその前の話として、宮崎駿氏のテキストの、

 これは先輩から聞いた話ですが、「西遊記」の製作に手塚さんが参加していたときに、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれどなぜその猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知ったときに、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。

 この部分も違うことが書いてあったうえ、そのテキストはネット上でも拾えるので引用しておきます。
WEBアニメスタイル:東映長編研究 第10回 白川大作インタビュー(2)  手塚治虫と『西遊記』

(前略)
白川 うん。そういう風に手塚さんが受け取るのも当然だと思いますよ。でも、最初に言ったあるひとつの事が、見る角度によって違って見えるというのが、その事なんです。東映動画のアニメーターの中には、ずっと手塚さんの原作あるいはキャラクターが、ある種の縛りとしてあったと考えている人もいるでしょうし。手塚さん側からすると自分が「こういう風に作りたい」と思ってたものと似ても似つかないものになってしまったという気持ちもあるだろう。例えば、手塚さんが、どうしてもこうやりたいのに、東映動画の現場に反対されてできなかったのが……。
── 燐々の事ですか?
白川 燐々を殺すべきでないと、一番強く主張したのは、僕なわけです。
── あ、そうなんですか!
白川 手塚さんは、そうすれば悲劇で終わる世界最初のアニメーションができた、と言うんですよ。だけど、僕は絶対にそれは嫌だと言い張ったんです。せっかく映画を楽しみに来た子供達を、悲しませて帰すような事はしたくないと思ったんですよ。第一、お釈迦さまや観音さまが付いていてそれはないだろうって。藪下さんも同じ意見でした。で、手塚さんも、最後は承服した。もちろんしぶしぶでしたけどね。それが、良かったか悪かったかは別として、アニメーションというのが――特に当時の東映動画の作品が、色んな人が色んな立場でいろんな物事を言って、それが最終的に集約されていくシステムで作られていた事は事実だから。誰が言ったから悪いとかさ、誰が間違ってるとか、そういう事は必ずしも言えないと思うね。
── 手塚さんのストーリーボードの段階で、燐々は死んでるんですか。
白川 死んでいました。手塚さんが東映動画へあんまりこられなくなってから、ラフで描いてきたストーリーボードに、燐々のお墓に、悟空がぬかずく画があったのを覚えています。準備室でストーリーボードを元に内容について討議している段階で、僕は「これは絶対反対だ」と言ったんです。

「そのほうが感動するからだ」じゃなくて「悲劇で終わる世界最初のアニメーション」を作りたかったからだ、みたいな感じです。
 『火垂るの墓』は、悲劇で終わる(かどうかは微妙な考えかたの相違があるだろうけど、主人公の死で終わる)世界で何本目のアニメーションなんだろうか。
 今日のテキストはコピペで楽だったんですが、次回からは『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本』の、「鉄腕アトム」に関するテキストを本格的に引用してみます。
 
 これは以下の日記に続きます。
アニメ『鉄腕アトム』の制作費神話について・2:萬年社の「三十万円」