ホロコーストの「一酸化炭素殺人」について少し調べてみた

ホロコースト否認 - Wikipedia

トレブリンカ、ソビブール、ベウジェーツ、ヘウムノの4収容所では、「ディーゼル・エンジンによって一酸化炭素を発生するガス室」が存在したとされている。しかし、ディーゼル・エンジンは一酸化炭素をほとんど排出しないことが特徴であり、この話は科学的に不合理である。(ディーゼル・エンジンも、不完全燃焼させれば一酸化炭素を或る程度排出するが、ガソリン・エンジンを使えば、はるかに多くの一酸化炭素が得られるのに、わざわざディーゼル・エンジンを選択する理由は何も無い。)

 なんか、見えるサイトの多くがユダヤ陰謀論史観なので頭クラクラしちゃったよ。
 こんなのとかはどうだろう。
ディーゼル・ガス室:拷問には理想的な代物、殺人には馬鹿げた代物(ベルク)
 以下のところは比較的まっとうのように思える。
Nishioka(『アウシュウィッツ「ガス室」の真理』の虚偽)
 ガス・トラックに関してはこんな感じ。
Gaswagen(資料を読まないで読む方法)

 この手紙は、1942年6月5日づけのヴィリー・ユストからヴァルター・ラウフにあてたものでしょう。コゴンたちの資料集の付録に収められていますし、いまでは英訳つきでオンライン化されてもいます。

 オンライン化されたテキスト。
"...ninety-seven thousand have been processed..."
 一酸化炭素に関してはこんな感じ。
Sobibor(ガソリンエンジンによる殺害)

 このガソリンエンジンがソビボルでは、まず使われたのです。大量殺害の方法に関しては、ナチスだって、試行錯誤を重ねていました。ただの大量射殺は問題が多いため、スコポラミンやフェノールの注射、ガスボンベに詰めた純粋の一酸化炭素の利用など、あとで詳細をまとめますが、多様な実験が冷酷に行なわれ、ディーゼルエンジンが採用されたあとに、最終的にツィクロンBという殺虫剤が、アウシュヴィッツで使われるようになったのです。

 で、以下のコメントから。
「ホロコーストの基礎知識について」を読んでたらあまりにも背中がかゆくなったので何か言ってみる

tsukasa 2009/03/22 22:02

ただ「一酸化炭素」で殺した、という事実は確認できなかったなぁ。

ハインツ・ヘーネ『髑髏の結社SSの歴史』(講談社学術文庫)や芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ大量虐殺の全貌』(中公新書)に経緯が述べられてます。
ユダヤ人の大量殺戮は当初、親衛隊特務部隊による大量射殺により行われ舞s田。しかし残虐行為に耐えられず神経を病む隊員が続発したため(処刑を目撃した親衛隊長官ヒムラー自身がショックで気絶した)、一酸化炭素ガスを使う処刑用トラックが試作され、その運用結果から有効と認定されガス室が建設されました。その過程では一酸化炭素ガス派とチクロンB派の政治抗争があり、これに勝利したチクロンB派のプランが採用されました。

 2冊の本から関連テキストを引用してみる。
 ハインツ・ヘーネ『髑髏の結社SSの歴史』(講談社学術文庫)下巻p135-137

 ロシア・ユダヤの絶滅計画が終了する前に、ヒムラーはすでに新しい大量の殺戮の指令を出していた。それには、殺人車輌よりも合理化された、定常的な殺人工場が必要とされていた。そこでは弾丸はガスにとってかわられた。身の毛もよだつガス室の時代が始まりつつあった。
 そのきっかけを作ったのは、ヴァルテ・ガウの総督アルトゥール・グライザーSS中将である。1941年秋、彼はヒムラーとハイドリヒに対し、早急にヴァルテラントの「ユダヤ人を一掃する」ため練達の執行人の指名を要請した。彼の言によれば、まだ10万人のユダヤ人が彼の管轄域に残っており、そのほとんどがリッツマンシュタット(ルージ)のゲットーに住んでいた。
 ヒムラーとハイドリヒは承諾し、ただちにランゲSS大尉を派遣することにした。ハイドリヒは彼に、ロシアですでに使われている最も恐ろしい処理方法、すなわちガス有蓋車の使用を許可し、その年の終わりまでに、ランゲは人類史上初の殺人工場をリッツマンシュタット近郊に建設した。彼が見つけた古い館は、リッツマンシュタットの北西60キロの人里離れたクリムホーフの森の中にあり、彼の獣的残虐行為にはうってつけの作業場だった。そして1941年12月、指揮官ランゲは3台のガス有蓋車を使って作業を開始した。
 続々とリッツマンシュタットからクリムホーフ駅に送りこまれたユダヤ人は、館につれていかれた後、そこで裸になり、シャワーを浴びるために有蓋トラックに誘導された。ただし、彼らの行先は浴室ではなく、死であった。彼らの背後で有蓋トラックのドアが閉まると間もなく、見えないところに設けられた排気口からガスが放出されるのだった。車の外では、死体から最後の貴重品を取り去り、共同墓穴に運びこむために選抜された、ユダヤ人の特別処理班が待ち受けていた。特別処理班のユダヤ人には、この仕事の代償として館の地下蔵で二週間だけ命をながらえる特権を与えられていた。
 この原始的な殺人システムには難点があり、ガス放出がうまくいかないことがしばしばあった。RSHA(帝国公安本部)の運用指示書に15分と規定されている1サイクルが数時間となったことも稀れではなく、また、ドアを開けたときに犠牲者がまだ生きていたこともあった。

 同じく、139-140

 SS帝国指導者兼ドイツ警察長官として、ヒムラーは「安楽死」計画に多数のSS将校と刑事担当官を注入していた。彼らはガスを使う殺人の専門家として評価を得ていた。そのリーダーが、粗野で冷酷な刑事監察官クリスチャン・ヴィルトである。彼は総統直属の「安楽死」計画本部では、筆頭の死刑執行人と目されていた。「安楽死」計画では、彼はてぎわよく静かに人を殺す方法として、もっぱら一酸化炭素を使用していた。
 1942年初頭、ヒムラーからポーランドユダヤ人の早期絶滅の相談を受けたSS医務主任エルンスト・グラヴィツ博士は、ちょうど任務を終えて手のあいていたヴィルトを紹介した。ヒムラーはヴィルトにポーランドでの仕事の続行を指示した。ヴィルトは、ヒムラーからポーランドユダヤ絶滅計画「ラインハルト作戦」を委嘱されていたルブリンのSSPF(SS=警察指揮官)オディロ・グロボグニクのもとに出頭し、ただちに作業を開始した。
 ヴィルトから見れば、ランゲは不器用なアマチュアにすぎなかった。クルムホーフ型のガス自動車の代わりに、彼はディーゼル・エンジンの排気を引きこんだガス室を作り上げた。「吸入・入浴室」と称するガス殺人室は、外から見ると「浴室」の体裁をとっており、「ゼラニウムを植えた小さな階段があり、両側に木の扉のついた5メートル四方の小部屋が3つずつあり、裏側は大きな折りたたみ式のドアになっていた。屋根には『皮肉な冗談』のつもりか、ダヴィデの星がペンキで描かれていた」。
 この処理場のまわりにヴィルトは、ナチス強制収容所ではおきまりの舞台道具、すなわち仮兵舎、練兵場、それに幾重にも張りめぐらせた有刺鉄線を付け加えるのを忘れなかった。同様の絶滅強制収容所はブーク川沿いに次々と建設され、ルブリンを除いて、それらはすべてグロボクニクSS少将の管理するところとなった。
 短期間にいくつかの殺人工場が地上に出現した。ヴィルトの手になる最初の工場は、1942年3月17日、ルブリン−レンベルク線の小都市ベルゼクで完成し、6つのガス室で1日に1万5000人を処理する能力があった。つづいて4月にはウクライナ国家行政区の境界の近くに、最大2万人を処理するソビボール絶滅収容所が開設され、その3か月後にはワルシャワの北東120キロのトレブリンカに、30のガス室と2万5000人の殺人能力を備えた、ヴィルトの仕事としては最大の絶滅収容所が完成した。さらにその秋には、既設のルブリンの収容所にいくつかのガス室が付加され、これが戦後、マイダネク絶滅収容所として悪名を世に馳せることになる。
 こうしてヴィルトは、ポーランド全域の絶滅施設の技術的主導権を占有した。彼は殺人技師としての能力の指標である犠牲者数の記録をかぎりなく更新し、ポーランドユダヤ絶滅計画の無冠の帝王の名をほしいままにした。

 次に、芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ大量虐殺の全貌』(中公新書)p126-128

 だが、ソ連侵攻とともにはじまったユダヤ人の無差別大量射殺は、非常にセンセーショナルであり、直接の執行者たちに心理的抵抗を引き起こしつつあった。親衛隊のトップであるヒムラーでさえも、大量射殺をミンスクで実見し気分が悪くなったと伝えられている。のちに絶滅収容所へのユダヤ人輸送の最高責任者となったアードルフ・アイヒマンも、その名高い「イェルサレム裁判」(1961年)で、1941年9月ないし10月にミンスクで射殺の現場を視察し、死にきれず手足をなお動かしている女性を見て「耐えられなかった」と告白している。
 1941年8月15日、ヒムラーはそのミンスクで、他の殺害方法の検討を国家保安本部刑事警察の責任者で行動部隊(アインザッツグルッペン)Bの指揮官ネーベに依頼した。
 ネーベはベルリンの対犯罪技術研究所から、「安楽死」作戦で一酸化炭素ガスの使用を提案した生物・化学専門家の親衛隊少佐アルベルト・ヴィートマンと親衛隊中佐で第8行動隊指揮官のオットー・ブラートフィッシュ博士(1903〜94)を召喚し、いくつかの実験をベラルーシ内各都市で行わせた。
 まずミンスクで爆薬、モギリョフでトラックを使ったガス殺、そしてノヴィンキでは施設を使ったガス殺の実験が行われた。
 爆薬を使った実験は、密閉タンクに殺害対象を入れ爆殺を図るものだった。だが、時間がかかり、完璧な成果が得られず、大量殺害は望めないという結論が出された。
 ガス・トラックを使った実験は、9月17日に行われた。500〜600名のユダヤ人を中心とした労働不能者が13時間にわたり改造されたガス・トラックに入れられ、一酸化炭素ガスで殺害された
 翌18日には、施設の浴室を使ったガス殺実験が行われ、約900名の周辺地域の精神障害者が殺害された。ガスにはツィクロンB(ベー)が用いられた。
 ガス・トラックの開発にあたっては、国家保安本部のヴァルター・ラウフ親衛隊大佐(1906〜72)が関与していた。彼の文書はドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』(1985年。「ショア」はホロコーストと同義のヘブライ語)でも詳しく紹介され、「大量射殺が兵士にとってかなりの重荷になってきており、自分のガス・トラックはこの重圧から兵士を解放した」と転換の経緯が語られている。そこにみられる意識は、ヒムラーと同様であった。

 同じく、p194

 ユダヤ人殺害の方法は、7つのガス室、ガス・トラックによるガス殺、そして射殺と多様であった。ガスは、ラインハルト作戦の一酸化炭素ガスだけでなく、ツィクロンBも用いられた。ガス殺の期間はほぼ1年で、ラインハルト作戦と並行している。(引用者注:これは「マイダネク絶滅収容所」の例)

 テキスト読むだけでも陰々滅々な気持ちになるものを電子テキスト化していると、PTSDになりそうな気分です。
 でも、どちらのテキストも「要出典」という部分が多いようなので、さらにくわしい情報をご存知のかたは教えてください。
 あと「この部分も電子テキスト化したらどうか」というご意見も承ります。
 とりあえず「一酸化炭素」で殺した、という事実はだいたい確認できました
 人名で検索したりとか。
クリスティアン・ヴィルト - Google 検索
クルト・ゲルシュタイン - Google 検索
ホロコースト:ユダヤ人絶滅・アウシュビッツ強制収容所;鳥飼行博研究室

3.ガス殺は,1939-1941年当時,ドイツ・オーストリア国内で,知的障害者安楽死(T4計画)では一酸化炭素が利用され,ソ連軍捕虜の処刑に移動式排気ガス室を用いたこともある。1941年,ドイツ占領下ポーランド・ボーゼン西方ヘルムノ強制収容所に,試作的なガス室が作られた。1941年9月,アウシュビッツ収容所にもガス室が設けられ,ソ連軍捕虜が,試験的にチクロンBによってガス殺された。1942年3月ベルゼク,4月ゾビブル,7月トレブリンカと排気ガス一酸化炭素を利用したガス室が作られた。1942年7月19日,ヒムラーは,「ポーランド総督領の全ユダヤ人の移送を1942年12月末までに完了すべし」とゲットー在住ユダヤ人の絶滅を指令。その後,ビルケナ強制収容所に,「消毒室・洗面所」に見せかけたガス室が増設,1943年3月-6月,換気装置つき大型ガス室・焼却炉群が完成,チクロンBによる大量殺戮が本格化した。

絶滅収容所でのガス殺(Killing People Through Gas:In Extermination Camps引用)>
 
クルムホフKulmhof(チェルムノChelmno):1941年12月-1942年秋,1944年5-8月,一酸化炭素により,ユダヤ人15万名,ロマ5000名を殺害。
 
ベルゼクBelzec (ルブリンLublin): 1942年3-12月,当初3ヵ所のガス室,後に6ヶ所のガス室で,一酸化炭素によりユダヤ人60万名を殺害。
 
ゾビボルSobibor (ルブリン):1942年4月に3ヵ所,9月に6ヶ所のガス室によって,1943年10月までに,ユダヤ人20万名を一酸化炭素で殺害。
 
トレブリンカTreblinka :1942年7月に3ヶ所のガス室,9月には10ヵ所のガス室で,1943年11月までに,一酸化炭素によって, 70万名のユダヤ人を殺害。
 
マイダネックMajdanek (ルブリン):1941年9月に収容所を解説,1942年4月-1943年11月まで,大量銃殺ユダヤ人2万4,000名を殺害。1942年10月より,当初2ヵ所のガス室,後に3ヶ所のガス室で,1944年3月までにユダヤ人5万名を殺害。使用したガスは,当初は一酸化炭素,後にチクロンB(シアン化ガスcyan hydrogen).
 
アウシュビッツ=ビルケナウAuschwitz-Birkenau (当初ポーランド領だったが,上シレジアに編入): 1940年5月開設,1942年1月,5ヶ所のガス室で,1943年6月からは,さらに4ヵ所の大型ガス室で,1944年11月までに,チクロンBによって,ユダヤ人100万名,ロマ4000名を殺害。
 
強制収容所でのガス殺(Jewish Virtual Library引用)>
以下の強制収容所は,大量殺戮を目的に作られた絶滅収容所ではなく,囚人を拘束し,奴隷労働させるための強制収容所であるが,労働不能者などを処置するガス室があった。
 
マウトハウゼンMauthausen (オーストリア): 1941年秋に1ヶ所のガス室チクロンBを使用。一酸化炭素を使うガス室グーセンGusen支所にあった。併せて,4000名がガス殺された。
 
ノイエンガメNeuengamme (ハンブルク南東): 1942年秋から「ブンカー」"Bunker"でチクロンBを使用して,450名を殺害。
 
ザクセンハウゼンSachsenhausen (ベルリン北) :1943年3月から,チクロンBを使用する1ヵ所ガス室で,数千名を殺害。
 
ナトワイザーNatzweiler(仏語Natzwiller:ストラスブルク南東50km,エルザス): 1943年8月-1944年8月,1ヶ所のガス室で,120-200名をチクロンBで殺害。遺体はストラスブルク大学解剖学研究所ヒルトAugust Hirt博士の元に送られた。
 
シュツォホフStutthof (タンチヒ東34km) :1944年6月に,1ヶ所のガス室を開設,チクロンBによって1000命を殺害。
 
レーベンスブリュックRavensbruck (べルリン北80km):1945年1月,1ヶ所のガス室が設置され,少なくとも 2,300名を殺害。
 
ダッハウDachau (ミュンヘン北東):1942年に新焼却炉設置,それに隣接して ガス室を建設。医学実験のために親衛隊ライシャーRascher博士が試験的にガス殺を実施。 大規模なガス殺は実施されていない。
 
◎以上は,ガス室における一酸化炭素ガスあるいはチクロンBによる殺害数で,奴隷労働,食料不足による過労死,病死,餓死あるいは拷問そのたの処刑は含まない。出所の違いから,数値・記述が一致しない所がある。

 
 これは以下の日記に続きます。
一酸化炭素のホロコーストでの使われ具合について