J.G.バラード「内宇宙への道はどちらか?」(伊藤典夫訳)とその感想

 これは以下の日記の続きです。
J.G.バラードと健忘症(アムネジア)
 
 今日は、「NEW WORLDS」誌1962年5月号に初出されたJ.G.バラードの「ニューウェーヴ」宣言とも言うべきテキストを掲載してみます。翻訳は「内宇宙への道はどれか?」(季刊NW-SF No.1、1970年)をS・Fマガジンの1997年3月号に改訳・掲載した伊藤典夫氏によるもの。太字は例によって、ぼくによるものです。
 今となっては歴史的テキストですが、これが掲載され、日本に紹介されたときの騒ぎはなかなかのものでした。とはいえ、当時の日本人(日本SF)には少し早すぎた「今のSFなんてダメだ」的テキストですな。まぁ、当時も創元のE.R.バローズやE.E.スミス、早川書房エドモンド・ハミルトンキャプテン・フューチャー)などなど、スペース・オペラの代表作がちらほらと翻訳され、いわゆる「名作SF」(ハインラインとかアシモフブラッドベリとか)よりもセンセーショナルな形で売れていた、という状況があったりしたので、「これからのSFはどういうものがいいのか」に関しての、一つの痛烈な刺激にはなったんじゃないかと思います。
 引用テキストは、S・Fマガジン1997年3月号、p27-31

 米ソ宇宙競争の悲しむべき副産物をひとつ挙げるなら、それはサイエンス・フィクションが一般大衆の心のなかで、バック・ロジャーズのロケットや光線銃と一緒くたにされる風潮をいっそう強めてしまったことだろう。サイエンス・フィクションがこの同一視----現在ある悪評の大半はここから来ている----をまぬがれる見込みが仮にあるにしても、チャンスはまもなく失われ、有人宇宙船の華々しい月面着陸が、この心象をいやおうなく固定してしまうにちがいない。宇宙服姿のヒーローの登場に腹の底からうめき声を上げるどころか、一般読者のほとんどは、ロボット脳とかハイパードライヴといったお決まりの小道具が出てこないといって、がっかりするようになる。これはたいていの映画観客が、西部劇のなかに最低一回は派手なガンファイトがないと、退屈してしまうようなものだ。撃ち合いなしの西部劇もいくつか試みられているが、みんな犬と未開地の話になってしまうようである。わたしが読者として恐れるのは、近い将来サイエンス・フィクションがよほど大胆な活力回復をおこなわないかぎり、現在かろうじいてこの媒体を正当化しているシリアスな周辺素材は失われ、それは怪談や探偵小説とおなじく、色あせた文学形式が落ちゆくリンボー界に追いやられてしまうだろうということだ。
 宇宙小説はもはやSFのアイデアを生みだす主要な源泉ではない。そうわたしが信じる根拠はいくつかある。第一はその大半が変わりばえもせず児童向きであることだが、これは必ずしも作者の罪とばかりいうことはできない。モート・サール(アメリカのナイトクラブ・コメディアン。テレビに進出、政治諷刺で評判をとった)がケープ・カナベラルのミサイル実験場を「東部ディズニーランド」と呼んだように、好むと好まざるとにかかわらず、たいていの人びとのサイエンス・フィクション観はそんなものであり、ロケットや惑星めぐりといった背景が強いる想像力の限界を露呈している。
 レイ・ブラッドベリのような詩人は、いまある雑誌の約束事を受け入れながら、火星のような使い古しの題材さえもうっとりするような自己の世界に造りかえてしまう。だがサイエンス・フィクションは、ブラッドベリ級の作家がつぎつぎと出るという希望にすがって、存続を楽観することはできない。ロケット&惑星ものが本来そなえる興趣の度合いは----肉体的・心理的奥行きのなさや人間関係の限界もあって----あまりにも軽く、これを土台にして、自立した小説形式を保つことは不可能に近いのだ。多少何かがあるにしても、有人衛星のあいつぐ成功のあとには、クルーの限られた心理的体験が−−−−総じてSF作家たちの予見は、意図とは別になかなか正確だったが----SFに出てくるこの種のものの模範になってしまうのがオチだろう。
 もちろん視覚的には、壮大な展望と冷厳な美において、宇宙小説にかなうものはない。これはSF映画やSFコミックが証明しているとおりだが、文学形式を成り立たせるにはもっと込み入ったアイデアが必要なのだ。はっきりいって、それは宇宙船からは得られない。(不思議なことに、近ごろの宇宙飛行士の勤務表をながめるとき、前時代のスペース・オペラでただひとつ本物だったのは、そのぎごちない一本調子の会話である。シェパード中佐の「おい、なんて飛行だ(ボーイ、ホワット・ア・ライド)」という叫びは一概に責められないにしても、チトフ少佐の宇宙第一夜の夢もない熟睡は、イカロスの失墜以来、最大の興ざめではないだろうか。----どんなにたくさんのSF作家が、彼の台本を書きたかったと願ったことか!)
 しかし、いまわたしが宇宙小説の占める中心的役割にいちばん不満をおぼえるのは、訴えかける読者層があまりにも狭すぎることなのだ。サイエンス・フィクションがその地歩を保ち、今後も発展をつづけようとするなら、それは西部小説のように、広範な非専門読者の気まぐれな暇つぶし用だけに、その存続を賭けるわけにはいかない。専門化した媒体がたいていそうであるように、サイエンス・フィクションに必要なのは、鋭い眼力を持った忠実な読者であり、抽象絵画や十二音音楽の鑑賞者とおなじく、特定の楽しみにすすんで食いついていく人びとなのだ。保守的なスペース・オペラ・ファンたちは、現在のSF読者の安定した中心層ではあるだろうが、この媒体を生かしつづける力にはなりそうもない。純粋主義者の通例として、彼らはメニューが変わるのを好まないし、ここでサイエンス・フィクションが進化しないかぎり、遅かれ早かれ他の媒体が割りこんできて、その最大の長所、未来のショウ・ウインドウたる権利を横取りしていくだろう。
 近ごろのわたしは知的興奮を味わいたいとき、サイエンス・フィクションへは行かず、音楽や絵画にこれを求めることがきわめて多い。ところが、これこそが当面の最大の問題点なのだ。批判力のある読者を引き寄せるには、サイエンス・フィクションはいまの内容とアプローチを根本から改める必要がある。1930年代に生まれた雑誌SFは、当時の流線型まがいの建築とおなじように、並みの読者の目にも古くさく見えはじめている。これはたんに時間旅行、精神力学(サイオニックス)、テレポーテーション(いずれも科学とは何の関係もないものだが、それがほのめかす可能性は息をのむばかりで、満足に扱うにはよほどの天才が必要だ)から時代が知れるというだけではない。並みの読者は利口であり、物語の大半がそうしたテーマをほんのすこし焼き直しただけのもので、新鮮なイマジネーションの飛躍とはいいがたいことに気づいているのだ。
 歴史的に見て、この種の職人芸は明らかな衰退のきざしであり、SFの演じるべき本来の役割がつまるところマイナーな雑学的娯楽で、専門誌は通俗科学の流行を日和見(ひよりみ)的に追いかけるだけということになる場合も大いにありうる。
 しかしながら、こうした展望をしりぞけ、サイエンス・フィクションが未来の想像力豊かな通訳として、今後も役割を広げていくと信じるならば、アイデアの新しい源泉をどこに求めたらいいだろうか? まず第一に、SFは宇宙に背を向けるべきだとわたしは考える。恒星間旅行、地球外生物銀河戦争、あるいはその重複タイプ、つまり雑誌SFの誌面の九割をおおうそうしたものから、SFは遠ざかるべきなのだ。偉大な作家ではあるが、H・G・ウエルズはその後のSFの進路に破滅的な影響を及ぼした。彼の提供したアイデアのレパートリーが、過去五十年にわたってこの媒体を占拠することになったというだけではない。単純なプロット、ジャーナリスティックな語り口、シチュエーションや人物設定の標準的な幅など、文体や形式の慣例を確立してしまったのである。自覚があるかどうかはともかく、いまSF読者を退屈させているのはそうしたものであり、それ自体が文学の他の方面での発達に比して、時代遅れに見えはじめているのである。
 なぜSFに実験への熱意があまり見られないのか。過去四、五十年の絵画、音楽、映画と比べるとき、わたしはしばしば不思議に思う。近ごろこれらがまるごと思弁的(スペキュレイティヴ)になり、新しい心のあり方の想像に打ちこみ、新鮮なシンボルや言語を、効力をなくした古いものに代わって構築しているのを見るとき、特にその感を深くする。おなじ意味でわたしは、SFはいまある語りの形式やプロットを放棄しなければならないと考える。こうしたものの大半は、性格描写やテーマの得もいわれぬ相互作用を表現するには、あまりにもあからさま過ぎる。たとえば時間旅行やテレパシーのような仕掛けは、たしかに時間と空間の相関関係を婉曲に説明してくれて、作家たちには都合がいい。ところが奇妙なパラドックスによって、それらはまた作家のイマジネーションの広がりを妨げる役目を果たし、仕掛けがつくりだした狭い境界内でほとんど身動きとれなくさせてしまうのだ。
 目前の未来においてもっとも大きな発展が起こるのは、月でも火星でもなく地球だろう。探求されねばならないのは、外宇宙(アウター・スペース)ではなく"内"宇宙(イナー・スペース)である唯一未知なる惑星は、地球なのだ。過去においてSFは物質科学----ロケット工学、エレクトロニクス、サイバネティクス----を偏重してきたが、これからは生物科学に目を向けなければならない。正確さなどというのは想像力のない人びとの最後の逃げ場であって、そんなものは一顧の値打ちもない。いまほしいのは科学的事実(サイエンス・ファクト)より、もっと多くのサイエンス・フィクションであり、科学解説などといった企画は、古くさいバック・ロジャーズものに上品ぶった衣をかぶせようとしているだけのことだ。
 より厳密にいうなら、わたしはSFがもっと抽象的かつ"クール"になり、テーマを遠まわしに描きだす新鮮なシチュエーションやコンテクストを発明してくれることを願っている。たとえば、時間を輝かしい観光道路のように見るのではなく、あるとおりに人格のパースペクティヴのひとつとして、また時間帯(タイム・ゾーン)、深時間(ディープ・タイム)、原始心理的時間(アーキオサイキック・タイム)といった概念を精密化させて使っているところを見たい。心理文学(サイコリテラリー)的なアイデア、メタ生物学やメタ化学の概念、私的な時間系、模造の心理や時空、さらに精神分裂病患者の絵画に見られるような遠い陰鬱な半世界、こうしたものがもっと増えることを望む。すべてが申し分ない思弁的科学のポエジーでありファンタジーだ。
 サイエンス・フィクションこそ明日の文学たり得る資格を充分に持ち、アイデアとシチュエーションの適切なボキャブラリーをそなえた唯一の媒体であると、わたしは固く信じている。概してSFがそれ自体に課す基準は、他の専門的な文芸ジャンルのどれよりも高いが、これ以後、つらい作業のおおかたを担うのは、作家や編集者ではなく、読者であるとわたしは思う。婉曲な叙述文体、控えめに提供されるテーマ、私的なシンボルやボキャブラリー、そうしたものを受け入れる義務を負うのは読者なのだ。もし誰も書かなければ、わたしが書くつもりでいるのだが、最初の真のSF小説とは、健忘症の男が浜辺に寝ころび、錆びた自転車の車輪をながめながら、自分とそれとの関係のなかにある絶対的な本質をつかもうとする、そんな話になるはずだ。突飛で抽象的に聞こえるかもしれないが、それでけっこう。サイエンス・フィクションには、実験をおこなう余地がまだたっぷりあるからだ。退屈に聞こえるかもしれない。だが少なくともそれは新しい種類の退屈であるはずだ。
 締めくくりの話題としてわたしが思いだすのは、サルバドール・ダリが数年まえロンドンで講演したとき、彼が着ていた潜水服のことである。潜水服の整備にやってきた職人が、どのくらい深くまでもぐるつもりかとダリにたずねた。するとマエストロは手をひとふりし、「無意識のなかまでさ!」と叫んだ。職人は分別くさく「わたしらはそこまで深くは行きませんね」と答えた。それから五分後、言葉にたがわず、ダリはヘルメットのなかでほとんど気を失いかけた。
 そんな"内"宇宙服(イナースペース・スーツ)こそいまでも必要とされているものであり、それを作るのがサイエンス・フィクションの使命なのだ!

 今読み返してみると、なかなか時代を感じさせる「ニューウェーヴ宣言」だったのでした。野尻抱介氏あたりが読んだら大激怒
 ぼく自身の今の心境としては、「抽象絵画や十二音音楽」は、ちょっと堪忍してください、という感じなのですが、1960年代はじめは多分そうじゃなかったんだろうなぁ。バラードの思想というか問題提起は、その意味で「モダン志向」、要するにポスト・モダンなわれわれの時代にとっては「クラシック」と言うようなレベルのものなんじゃないかという、巽孝之の分析は正しいかも。