「暴力装置」の起源はレーニン? ウェーバー?
新聞の報道から。
→仙谷氏、自衛隊は「暴力装置だ」発言 自民の抗議で直後に撤回し「謝罪する」 - MSN産経ニュース
仙谷氏、自衛隊は「暴力装置だ」発言 自民の抗議で直後に撤回し「謝罪する」
2010.11.18 11:23
仙谷由人官房長官は18日午前の参院予算委員会で、自衛隊について「暴力装置でもある。特段の政治的な中立性が確保されなければいけない」と述べた。10日付の「隊員の政治的中立性の確保について」とする事務次官通達に関する質疑のなかで述べた。
ただ、自民党の抗議を受けて、直後に撤回し、「実力組織と言い換える。自衛隊の皆さんには謝罪する」と陳謝した。
→仙谷官房長官:「自衛隊は暴力装置」 すぐに訂正「実力組織」 - 毎日jp(毎日新聞)
仙谷官房長官:「自衛隊は暴力装置」 すぐに訂正「実力組織」
仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、自衛隊を「暴力装置」と発言、質問者の自民党の世耕弘成氏から抗議を受け撤回した。そのうえで「不適当だったので、自衛隊の皆さん方には謝罪する」と述べた。
仙谷氏は自衛隊と他の公務員との政治的中立性の違いについて「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもあるから、シビリアンコントロール(文民統制)も利かないとならない」と発言。委員会室が騒然となったため答弁中に「実力組織と訂正させていただく」と言い換えた。【高山祐】
正式な議事録公開されないと伝聞情報だけなんですが、こんな秀逸なエントリー・まとめも。
→暴力装置 - 今日も得る物なし
訂正箇所は「暴力装置」じゃなくて「軍事組織」じゃないの、これ。
仙谷は「軍事組織」と言ってしまったことに関して発言を撤回したつもりなんじゃねえの?
→Togetter - 「自衛隊は暴力装置に決まってるだろ…」
新聞記事の追加。
→仙谷氏「暴力装置」発言 謝罪・撤回したものの…社会主義夢見た過去、本質あらわに(産経新聞)
仙谷氏「暴力装置」発言 謝罪・撤回したものの…社会主義夢見た過去、本質あらわに
2010.11.18 22:31
仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、自衛隊を「暴力装置」と表現した。直後に撤回し「実力組織」と言い換えた上で「法律上の用語としては不適当だった。自衛隊の皆さんには謝罪する」と陳謝した。菅直人首相も午後の参院予算委で「自衛隊の皆さんのプライドを傷つけることになり、おわびする」と述べた。首相は18日夜、仙谷氏を執務室に呼び「今後、気を付けるように」と強く注意した。特異な言葉がとっさに飛び出す背景には、かつて学生運動に身を投じた仙谷氏独特の思想・信条があり、民主党政権の自衛隊観を反映したともいえそうだ。(阿比留瑠比)
「昔の左翼時代のDNAが、図らずも明らかになっちゃった」
みんなの党の渡辺喜美代表は18日、仙谷氏の発言について端的に指摘した。
「暴力装置」はもともとドイツの社会学者のマックス・ウェーバーが警察や軍隊を指して用い「政治は暴力装置を独占する権力」などと表現した言葉だ。それをロシアの革命家、レーニンが「国家権力の本質は暴力装置」などと、暴力革命の理論付けに使用したため、全共闘運動華やかなりしころには、主に左翼用語として流通した。
現在では、自衛隊を「暴力装置」といわれると違和感がある。だが、旧社会党出身で、東大時代は日韓基本条約反対デモに参加し、「フロント」と呼ばれる社会主義学生運動組織で活動していた仙谷氏にとっては、なじみ深い言葉なのだろう。
国会議事録で「暴力装置」との表現を探しても、「青春をかけて闘った学生を、自らの手で国家権力の暴力装置に委ね…」(昭和44年の衆院法務委員会、社会党の猪俣浩三氏)、「権力の暴力装置ともいうべき警察」(48年の衆院法務委、共産党の正森成二氏)−などと主に革新勢力が使用していた。
18日の国会での反応をみても、自民党の丸川珠代参院議員は「自衛隊の方々に失礼極まりない」と批判したが、共産党の穀田恵二国対委員長は「いわば学術用語として、そういうこと(暴力装置との表現)は当然あったんでしょう」と理解を示した。
民主党の岡田克也幹事長は「人間誰でも言い間違いはある。本来、実力組織というべきだったかもしれない」と言葉少なに語った。
仙谷氏は著書の中で、「若かりし頃(ころ)、社会主義を夢見た」と明かし、その理由としてこう書いている。
「社会主義社会には個人の完全な自由がもたらされ、その能力は全面的に開花し、正義が完全に貫徹しているというア・プリオリな思いからであった」
仙谷氏は後に現実主義に「転向」し、今では「全共闘のときの麗しい『連帯を求めて孤立を恐れず』を政治の場でやるとすってんてんの少数派になる。政治をやる以上は多数派形成をやる」(7月7日の講演)と述べている。とはいえ、なかなか若いころの思考形態から抜け出せないようだ。
「ちょっと言葉が走った。ウェーバーを読み直し、改めて勉強したい」
18日午後の記者会見で、仙谷氏はいつになく謙虚にこう語った。
(注)「ア・プリオリ」は「先験的」の意味
ウェーバー『職業としての政治』、講演は「1919年1月28日」らしいけどテキストとして公表された年は不明。レーニン『国家と革命』は刊行が「1917年」。レーニンのほうが「暴力(装置)としての国家」について言及したのは(多分)古いな。
産経新聞、多分堂々と間違ってる?。
ドヤ顔の人たち。
→http://twitter.com/nozaki_yasuhito/status/5091619682385920(野崎靖仁)
仙谷官房長官が自衛隊を「暴力装置」と発言。マックス・ウェーバーは警察や軍隊などの物理的強制力を「暴力装置」と呼んでいるので、自衛隊は当然「暴力装置」です。「暴力装置」という言葉は学術用語なので否定的な意味も肯定的な意味もありません。批判している人はウェーバーを知らないのか?
→http://twitter.com/finalvent/status/5159091810865152(finalvent)
国家を暴力装置だとしたのは、レーニンの『国家と革命』では? 暴力の政党独占は国家の機能論であって本質ではないのだけど、レーニンはよくわかってなかった。
→http://twitter.com/sasakitoshinao/status/5163273053802497(佐々木俊尚)
仙谷氏は東大全共闘→弁護士→社会党、という経歴を考えればウェーバーの暴力装置なんて当然知ってるはず。というかまずウェーバーですか、って彼にメディアは聞けば良かったのでは?
→http://twitter.com/PeaceMark51k/status/5424825602408448(KOIKE Ryuta)
.@Transalp400v 思想の専門家としてひとこと:ウェーバーじゃなくてレーニンだろ、と言ってる人は、おそらくレーニンの『国家と革命』をきちんと読んでいないと思いますね。センゴク氏がどちらのニュアンスで発言しようとしていたかはまた別の問題ですが。
それを見守る人。
→http://twitter.com/Keuzer/status/5467013937897472
なんか「暴力装置はウェーバーだろ無学乙」「この場合レーニンだろ低学歴乙」「ウェーバーレーニンごときでインテリぶるなFラン乙」「庶民の使う言葉に合わせてやれないのが問題だろ低層インテリ乙」という痛ましいインテリバトルが
まとめ。
→Togetter - 「マックス・ウェーバーは「暴力装置」という言葉を使ったか?」
→Togetter - 「マックス・ウェーバーは「暴力装置」という言葉を使ったか?(2)」
これが「高度な情報戦」というものか。
この件に関する、おいらのまとめはこちら。
→Togetter - 「佐藤正久氏「暴力革命を是とし」って…ウェーバーじゃなくてレーニンじゃないの?」
佐藤正久氏のトンデモテキストは訂正発言と削除がありました。
→http://twitter.com/SatoMasahisa/status/5729106113073153(佐藤正久)
マックス・ウェーバ−が暴力革命を是とするとした呟きは誤りでした。取り消せて頂きます。ご指摘ありがとうございました
佐藤正久さんは多分いい人です。
「軍隊はすべからく、資本家階級国家の暴力装置である」これ、レーニン『国家と革命』の言葉? すべからくの用法変だけど…
→軍隊はすべからく、資本家階級国家の暴力装置である - Google 検索
しかし、岩波文庫に関しては、それに当たる言葉が見当たらない。「軍隊はすべからく、資本家階級国家の暴力装置である。労働者階級は、その階級独裁のもとで軍隊を管理・指導しなければならない」というテキストは、どの本(翻訳)の、どのページからの引用?
→「国家と革命」第二章
第二章 国家と革命。一八四八―一八五一年の経験
一 革命の前夜
(前略)
プロレタリアートには、国家権力、すなわち、中央集権的な力の組織、暴力組織が必要である――搾取者の反抗を鎮圧するためにも、社会主義経済を「組織」するうえで、膨大な住民大衆、すなわち農民、小ブルジョアジー、半プロレタリアを指導するためにも、必要である。
マルクス主義は、労働者党を教育することによって、プロレタリアートの前衛――権力を奪取し、全人民を社会主義へみちびき、新しい体制を指導し組織する能力をもち、またブルジョアジーぬきで、ブルジョアジーに反対して、自分の社会生活を建設するうえで、すべての勤労被搾取者の教師となり、指導者となり、首領となる能力をもつ前衛――を教育する。これに反して、今日支配的な日和見主義は、労働者党を大衆から切り離された高給労働者の代表者に育てあげている。つまり、資本主義のもとでかなりよい「地位につき」、アジ豆のあつもの〔*〕とひきかえに自分の長子権を売り渡す、すなわち、ブルジョアジーに反対する人民の革命的指導者としての役割を放棄する代表者を育てあげているのである。
「国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート」――マルクスのこの理論は、プロレタリアートが歴史上はたす革命的役割についての彼の学説全体と不可分に結びついている。この役割を仕上げるものが、プロレタリア独裁であり、プロレタリアートの政治的支配である。
だが、もしプロレタリアートには、ブルジョアジーに鋒先をむけた特殊な暴力装置としての国家が必要であるとすれば、この暴力組織の創出は、ブルジョアジーに自分のためにつくりだした国家機構をまえもって廃絶することなしに、それを破壊することなしに、はたして考えられるか、という結論がひとりでに出てくる。『共産党宣言』は、この結論のごくまぢかまで接近している。そしてマルクスは、一八四八―一八五一年の革命の経験を総括するさいに、この結論について述べている。
出てきたよ、「暴力装置」。大月書店の翻訳ではそうなっているのか。1952年10月25日第1刷発行。岩波文庫のレーニン『国家と革命』は1957年11月25日第1刷。それより5年前だな。(「版」に関しては、下のほうに追記あります)
しかし「国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート」「ブルジョアジーに鋒先をむけた特殊な暴力装置としての国家」というのは、ちょっと原文通して見ると腰抜かすレベルでの違和感。赤い、赤すぎるよ、レーニン。
せっかくなので岩波文庫(宇高基輔・訳)で当該部分を探す。元テキストは1957年11月25日第1刷、1977年9月20日第25刷。
まず、p40。
プロレタリアートには国家が必要だ、----日和見主義者、社会排外主義者、カウツキー主義者はみなこうくりかえしているが、そのさい彼らは、これがマルクスの学説だと断言しながら、それにつぎのことをくわえるのを「忘れている」。すなわち、第一に、マルクスによれば、プロレタリアートに必要なのは、死滅しつつある国家、すなわち、ただちに死滅しはじめ、しかも死滅せざるを得ないように構成された国家だけであること、第二に、勤労者には「国家」、「すなわち支配階級に組織されたプロレタリアート」が必要だということ、これである。
国家は特殊な権力装置であり、ある階級を抑圧するための暴力組織である。では、いかなる階級をプロレタリアートは抑圧しなければならいか? いうまでもなく、搾取階級すなわちブルジョアジーだけである。勤労者には、搾取者の反抗を抑圧するためにだけ国家が必要なのだ。
…なんか頭痛い。「国家」は「ブルジョアジー」を抑圧するための「プロレタリアート」の「暴力組織」である、って…なんか、時代だな、としか言いようがない。
もう一箇所。これは大月書店とほぼ同じところ。p42-43
プロレタリアートには、国家権力、すなわち、中央集権的な権力組織、暴力組織が必要であるが、それは、搾取者の反抗を抑圧するためにも、社会主義経済を「組織」する事業において膨大な住民大衆、すなわち農民、小ブルジョアジー、半プロレタリアを指導するためにも必要なのである。
マルクス主義は、労働者党を教育することによって、プロレタリアートの前衛----権力を掌握して、全人民を社会主義にみちびき、新しい秩序を指導し組織する能力をもち、またブルジョアジーぬきで、ブルジョアジーに反対して、自己の社会生活を建設する事業で、すべての勤労被搾取者の教師となり、指導者となり、首領となる前衛----を教育する。これに反して、今日支配的な日和見主義は、労働者党の党員を、大衆から切り離された高給労働者の代表に育て上げる。つまり、資本主義のもとでかなり「うまい暮らし」をして、あじ豆のあつものとひきかえに自己の長子権を売りわたす、すなわち、ブルジョアジーに反対する人民の革命的指導者たる役割を放棄するような代表者に育てあげるのである。
「国家、すなわち支配階級に組織されたプロレタリアート」----マルクスのこの理論は、歴史におけるプロレタリアートの革命的役割についての彼の全学説と不可分にむすびついている。この役割を仕あげるものがプロレタリア独裁であり、プロレタリアートの政治支配である。
だが、もしプロレタリアートにブルジョアジーにたいする特殊の暴力組織としての国家が必要であるとすれば、そこからおのずから出てくる結論は、ブルジョアジーが自分のためにつくりだした国家機構をまえもって廃絶することなしに、それを破壊することなしに、このような組織の創造が考えられるかどうかということである。『共産党宣言』はこの結論のごく間近にまで近づいている。そして、マルクスが、1848-1851年の革命の敬意を総括するさいにのべているのは、まさにこの結論である。
要するに、暴力装置(暴力組織)は、プロレタリアートが国家として利用するもの、というトンデモな(?)論調。
で、次にマックス・ウェーバー(ヴェーバー)『職業としての政治』(脇圭平・訳)「国家」に関する言及を引用してみる。元テキストは岩波文庫、1980年3月17日第1刷、1998年5月15日第34刷。p8-10
それでは、社会学的にみた場合の「政治」団体とは何か。したがって「国家」とは何か。国家もまた、その活動の内容から考えていったのでは、社会学的に定義することはできない。どんな問題であれ、まずたいていの問題は、これまでどこかでどの政治団体かが一度は取り上げてきたと考えられるし、といってこれだけは、いつの時代でも百パーセント、政治的な団体----この政治的と呼ばれる団体は現在でいえば国家であり、歴史的にみれば近代国家の先駆となった団体である----の専売特許だった、と断言できるような、そんな問題も存在しない。むしろ近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能となる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」トロツキーは例のブレスト-リトウスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。もし手段としての暴力行使とまったく縁のない社会組織しか存在しないとしたら、それこそ「国家」の概念は消滅し、このような特殊な意味で「無政府状態(アナーキー)」と呼んでよいような事態が出現していたに違いない。もちろん暴力行使は、国家にとってノーマルな手段でもまた唯一の手段でもない----そして、そんなことをここで言っているのではない----が、おそらく国家に特有な手段ではあるだろう。そして実際今日、この暴力に対する国家の関係は特別に緊密なのである。過去においては、氏族(ジッペ)を始めとする多種多様な団体が、物理的暴力をまったくノーマルな手段として認めていた。ところが今日では、次のように言わねばなるまい。国家とは、ある一定の領域の内部で----この「領域」という点が特徴なのだが----正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり国家が暴力行使への「勝利」の唯一の源泉とみなされているということ、これは確かに現代に特有な現象である。
だから、われわれにとって政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいであろう。
…「暴力装置」という言葉は、少なくともウェーバーの翻訳には出てこないですね。「国家」の定義と「暴力」を絡めて語ってはおりますが。
トロツキーが「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」と言ったときの、前後の文脈を見て、彼の「国家」の定義を確認しないといけないな。
2ちゃんねる軍事板のログから。
→もはやマックス・ウェーバーの「暴力装置」は非常識 - 2ちゃんぬる
ウェーバー本人は権力ってつまりは暴力っしょと言ってるだけで、個別の組織については言及してないっぽい
max weber policeとかmilitaryでぐぐってもヒットしない
また日本だけの現象か
公権力に留まらないありとあらゆる権力について語ってる
要するに、
1・「暴力装置(暴力組織)」という言葉を「国家」と関連して語ったのはレーニンが先。ただしその際の「国家」の定義が「支配階級に組織されたプロレタリアート(プロレタリア独裁)」という、マルクス主義的に正当(世間的にはトンデモ)なもの。
2・翻訳で確認できる限りでは、ウェーバーは「暴力装置(暴力組織)」という語を使ってはいない。ただし「国家」の定義として「ある一定の領域の内部で(略)正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」と、社会学的にまともに思えるようなことを言っている。
3・「レーニンが「国家権力の本質は暴力装置」などと、暴力革命の理論付けに使用した」ことは確かだが、国家権力=暴力革命に敵対するもの、という、新左翼的な考えがどこから出てきているのかは不明。
こんなテキストも。「日本共産青年同盟機関誌「青年戦線」第8号より無断転載」とのことですが。
→国家と革命
3.暴力革命とプロレタリア独裁
国家権力の本質が、支配階級による被支配階級にたいする暴力装置である以上、プロレタリアートの革命は、この支配階級の暴力を打ち破る、プロレタリアート自身の組織された階級的暴力の行使としてなされなければならない。
レーニン『国家と革命』の中で、「暴力革命」について言及している部分を引用。p19
他方では、マルクス主義の「カウツキー主義的」歪曲ははるかに巧妙である。国家が階級支配の機関であることも、階級対立が和解できないことも、「理論的には」否定されていない。しかし、つぎの点が看過されるか、もしくは糊塗されている。すなわち、もし国家が階級対立の非和解性の産物であるならば、またもし国家が社会の上に立ち、「社会からみずからをますます疎外していく」権力であるならば、明らかに、被抑圧階級の解放は、暴力革命なしには不可能であるばかりでなく、さらにまた、支配階級によってつくりだされ、またこの「疎外」を体現している国家権力装置を廃絶することなしには不可能であるということが、それである。
「であるならば」(仮定)を「である以上」(断定)に置き換えてないか?
p37
プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である。プロレタリア国家の揚棄、すなわちあらゆる国家の揚棄は、「死滅」の道による以外は不可能である。
「不可能である」(分析)を「なされなければならない」(義務)に置き換えてないか?
あと、過去に有名人が「暴力装置」について語ったとされる例。
→全学共闘会議 - Wikipedia(柴田翔)
「ゲバルトが出始めた時には、その意味が十分判っていなかったという気がする。僕がそのとき考えたことは、ゲバルトは国家の暴力装置に対抗するための対抗暴力として出てきたと理解した。僕はたとえ対抗暴力であってもゲバルトには反対だったけど、現象としてはそう理解していた。ところが大学の教師である自分の目の前で学生たちがゲバ棒を振りまわしているのを見ているうちに、そういう側面もあるけれどもそれはいってみればタテマエと判ってきた。そうではなくて、連中はゲバ棒を持ちたいから持っているんだ、ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じているんだという気がした。これは良い悪いの問題以前に、まさに現実としてそうだということが見えてきた。ところが戦後日本近代、戦後民主主義が前提にしていた人間観の中には、それが含まれていなかった。人間は本来理性的動物であって、暴力衝動などは、その人間観の外へ追いやられていた。」(「全共闘―それは何だったのか」現代の理論社:1984年刊:148頁)
ゲバルト時代の反省。
→早稲田大学 大隈塾 戦後日本政治の流れを振り返る(仙谷由人)(2005.10.3(月))
私の感覚では、良いか悪いかは別として自衛隊の存在を国民の8割くらいが認めているのではないでしょうか。確かに暴力装置としての大変な実力部隊が存在し、法的に言えば自衛隊法や防衛庁設置法でもって定めているのです。それならば、これが違憲の法律だと言わないのならば、憲法に自衛隊が存在することの根拠を書かないというのは、憲法論としても法律論としても如何なものかというのが本当は論点の核心にならなければいけない。しかしながらそれは殆ど素通りをして、憲法の文言を変えて自衛隊を憲法上の存在とすることによって軍国主義化するとか、そうでないとか、戦争をすることになるか否かという議論ばかりが現在まで延々と続けられてきた。衆議院の憲法調査会を5年間やりましたけれども、そういう両極端の議論を100回繰り返しても物事は何も進まないと私も随分発言しましたけれども、それがまだまだ主流になってこない。
現状認識を織り込んだ上での、自衛隊=暴力装置という判断。
→集団的自衛権と国連観に違いがみえた(2009年03月30日)
石破茂
(前略)
破綻国家においてどうしてテロは起こるのかというと、警察と軍隊という暴力装置を独占していないのであんなことが起こるのだということなんだろうと私は思っています。国家の定義というのは、警察と軍隊という暴力装置を合法的に所有するというのが国家の1つの定義のはずなので、ところが、それがなくなってしまうと、武力を統制する主体がなくなってしまってああいうことが起こるのだと。そしてまた、テロは貧困と圧政によって起こるというのは、それはうそで、貧困と圧政の見本みたいな国が近くにありますが、そこでテロがしょっちゅう起こっているという話はあんまり聞いたこともない。そこでテロは起こらない。
石破さん、ウェーバーの国家の定義を意識してる?
それで、ですね。
岩波文庫『職業としての政治』刊行日を確認すると、1980年3月17日第1刷。元本は1968年に平凡社から出ているみたいだけど、1980年以前と以後で「暴力装置の語源はウェーバーなのは常識」「いやレーニンでしょ」と、社会学的なものを勉強した人の意見が違うのでは。仙谷氏は多分後者。1968年(全共闘真っ盛りの時期)にも、ウェーバーの「国家」の定義、知ってた学生はいたと思うけど、まぁ岩波文庫ほど一般的ではない気がする…自信ないけど。
仙谷氏(を含む全共闘世代)がウェーバーの国家の定義を、一般的に知っていた、という判断はどうなんだろうな。「常識」とされたのはやはり1980年代以降の気がする。
やはり「ビートルズなんて常識」という人と同じく、「ウェーバーの国家の定義なんて常識」という人とは、世代論争になってしまうかも。@finalvent さん50代、@sasakitoshinao さん1961年生まれ(49歳)(もうじき50歳)、たいていの人は佐々木俊尚さんより若いかもだな。分かってる限りでは、@nozaki_yasuhito さん1969年生まれ(41歳)、とか。
柴田翔さん1935年生まれ(75歳)、仙谷由人さん1946年生まれ(64歳)、石破茂さん1957年生まれ(53歳)。仙谷さんの世代では、ウェーバーは常識だったとは断定できない。
岩波文庫のレーニン『国家と革命』は1957年11月25日第1刷。大月書店のそれは1952年10月25日第1刷発行。全学連・全共闘世代に十分読まれていると思う。ちなみにその2つは、「全学連世代ですか」と聞くとムッとして「全共闘世代です!」と答える人がいるぐらい違う。素人にはよくわからない。
しかし、ウィキペディアがものすごい勢いで書き換えられて笑う。
→「暴力」の変更履歴 - Wikipedia
→「暴力の独占」の変更履歴 - Wikipedia
(追記)
岩波文庫の『職業としての政治』、1952年に出ているのでは、という指摘がありました。
調べてみたら、岩波文庫で1952年、西島芳二氏訳で出ている様子。1980年版は新版か…。
それだと、全学連・全共闘世代も、社会学的なものに興味を持っていた人間だったら読んでないとだめ(読んでいて当然)かもだな。
国会図書館で検索したところ、
1939年・三笠書房・清水幾太郎訳
1952年・岩波書店・西島芳二訳
1954年・河出書房・出口勇蔵訳
1959年・角川書店・西島芳二訳
1962年・河出書房新社&平凡社・清水幾太郎+清水礼子訳
1965年・河出書房新社・清水幾太郎+清水礼子訳
1968年・平凡社・脇圭平訳
と、1960年代までに、これでもか、と言うほど出ている。
それらの翻訳の中に「暴力装置」という語は出ているのだろうか。国会図書館に行かないと調べられない…。
ていうか、『国家と革命』も『職業としての政治』も翻訳の版ありすぎ。ウィキペディアより情弱でも、もういいです…。
(さらに追記)
こちらの人がさらによく調べているので、参考にしてください。
→「暴力装置」の起源と系譜 - 名無しさんの弁明
「暴力装置」という言葉は神山茂雄が初めて使用し広まった。
というのが今まで僕が調べた結論である。
おいらの10倍ぐらいえらいよ!
(さらに追記)
引用した「「国家と革命」第二章」は、以下のところによると「1952年10月25日第1刷発行1956年11月10日第8刷改訳発行1965年3月25日第23刷改訳発行」の「大月書店 国民文庫-102」「全書刊行委員会・訳」のようです。元テキストに当たって確認したら「ようです」は外します。
大月書店・国民文庫にも、訳・改訳・新訳と3つの版があるのか。
→国家と革命(大月書店・国民文庫)