SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):筒井康隆に対する評価

 これは以下の日記の続きです。
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号)で石川喬司・福島正実を褒めていたのは誰?
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):はじめに
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):星新一に対する評価
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):小松左京に対する評価
 
 SFマガジン1969年2月号『覆面座談会 日本のSF'68〜'69』の引用を続けます。
 A〜E=石川喬司稲葉明雄福島正実伊藤典夫・森優(南山宏)という仮説を提示しておきます。

時代と踊る筒井康隆
 
B ぼくは、小松左京筒井康隆を、よく比較して考えるんだけど、小松左京の場合は一口でいうと、仏つくって魂入れずというところがある。
A そろそろ出てきたな。(笑)
B それに対して筒井の方は、葭(よし)のズイから天井のぞく……(笑)今までの作家はどちらかといえばこの後者の方だった。彼の特長は、現実における自己の存在に対する自意識が稀薄なところだ。だからこそ、へんな軽薄さの魅力が出てかえって一般受けするところがある。だから、彼が大人になっちゃって軽薄さがなくなると、どうなるか。
A ぼくも思いだすことあるよ。アルジャーノンをね。ほら。
C あ、ひどいね。(笑)
B 天性の資質は非常にある。ところがそのことに就いての認識がまるでない。そしてそれが強味なんだ。しかし、いつまでも強味かどうかは疑わしいね。
A 直木賞候補になった『アフリカの爆弾』なんかはそれがたしかに弱味になってる。あれはどうも、小松左京のやってることを、筒井スラプスティックにしたかったんじゃないかと思われる節があるけど、そういう形にすれば誰でも喜んでくれる、面白がってくれると多寡をくくってる感じでね。ところが、話の流れがどう流れていくか、読者にはみんな判っちゃうから、面白くも何ともない。むしろ秘密な感じさえする。あれはぜんぜん買わないね。あれより『色眼鏡』のほうがいい。
E 『アフリカの爆弾』は、途中の手つきが非常に常套的で、細々してるくせにまるで印象が稀薄な感じだったな。だけど、ラストの赤ん坊での締めくくりは短編としちゃみごとだと思った。
B みごととはいえないな。
D 彼の作品は結論がいつもないね。しめくくりの手つきしかない。
C ぼくは『幻想の未来』が面白かったな。『アフリカ』にしろ『ベトナム観光』にしろ彼の世にもてはやされてる作品は、時代の風潮にマッチした、テレビ時代の面白さみたいなものがある。ところが『幻想----』には、SF作家としての筒井康隆がいる。あそこには、彼の内部にある、ナンセンスやドタバタでなく、彼の本質的に持ってるイメージが一つの世界に結晶されている。
B それは同感だな。出来は、同人雑誌小説的だけど、にもかかわらず面白い。いかがなりゆくかの興味があった。
A つまりあの暗中模索がね。今の彼には暗中模索なんてなくなった。きわめて常套的な手段の連続で、ただ変ってるのは目先きだけだ。あれみてると、ぼくはいまのボードビリアン……というよりも司会役たちを思いだす。彼らは目先きの変ったことばかりしゃべるけど、その台詞じたいは常套句ばかりだ。
E あれを書いた時点では、筒井康隆サイケもスラプスティックなかった。今はその反対だ。だから新鮮な感じがするのかもしれない。いまそれが書けたら大したものができるな。あれ自体は、やっぱり、ファンの書いた習作だと思うけど。
A ただ気になったのは、後書きで彼が書いてることなんだ。彼はこの作品を「SFのテーマやアイデアを逆手につかみ、これでもかこれでもかと逆撫でにした」って書いてあるけど[要出典]、ちっともそうしてないんじゃないか。
E 彼の被害者意識じゃないかな。
D これもやっぱり手つきだね。いま彼が書いてるようなものは、きっとあまり残らないと思うな。いまの時代に受けるだけで。彼の安直さ、人生すべてスラプスティックという見方じたい、あれはじつは、彼の逃避にすぎないんだ。しかも、彼は自分でそれを知っていて平気なんだ。そこがイヤだな。
C しかも『賑やかな未来』では、ぜんぶ後書きと前書きをつけて、本心をさらけだしてるんで。
A このあいだ福島正実がどこかで書いてたけど[要出典]、彼が、あの『ファンタジイ・ファンタジイ』のような作品に、あんまり無理に意義を見出そうとしているのは、よくないね。
D 気にくわない。イヤらしいね。
C ただ、ここでぼくが筒井康隆を持ちあげておきたいのは、彼が非常に勇気のある作家だということなんだ。つまり、現代のタブーに、つぎつぎと挑戦してることね。卑俗な見方かもしれないが、創価学会とかNHKとか、普通の人なら触れずにおこうとすることにすすんで触れる。これは勇気というより、精神異常かもしれないけど。つまり自分の避けたいものを余計触れたくなるというね。これは決して社会派的発想ではなく、実存主義の作家たちと同じ地盤に立ってるところからくると思うんだ。人間を知的存在として概念的に捕えるんじゃなくて、もっと血と肉の塊りとして捕える、それがごく自然な発想として出てくる作家だからこそ、受けてるんじゃないかな。
A でも、お言葉を返すようですがね、あのNHKといい創価学会といい、一見大胆に見えるんだけど、実はかなり手前に限界があって、この辺までならまあ大して問題にはなるまいという多寡をくくりたくなるんじゃないかな。その証拠にどの作品にも必ず韜晦があって、致命傷を相手に与えることは決してない。
E 問題を横にそらすね。
C しかしそれだけのことにしてもほかの作家はやってない。
A そりゃそうだけど、ほかの作家がやったら、ああ韜晦できないからやらないということもいえる。
C うん。星新一小松左京はエッセイ書いても面白いけど、彼のはぜんぜん読めないということは確かにいえるな。
A 話はそれるけど、彼の発言はときどき無責任で困るね。いつか、俺は右翼だが、考えてみればSF作家はみな右翼だとどっかに書いてた[要出典]。あれは怪しからんと、みんな怒ってた。
D 彼にはそういう思想的な観念がないね。育ちも環境もそうだし、そこから一歩も出ようとしない。それで満足してる。
C ただね、彼の、人間をモノとして見るという見方は、かなり彼の身にそなわった資質だよ。『人口九千九百億』の中の圧縮されたビルのイメージとか管理人が床をあけると下が大西洋だったとかいう、イメージの喚起力というのは、すぐれた作家的才能だよ。その点は認めなきゃね。
A 彼の場合は、そういう自分を大事にすることがまだ判ってないんじゃないの。
C 「時代と寝ている」というか「時代に踊らされてる」ところは多分にあるね。『幻想の未来』で持ってた貞操を時代という深情けの年増にとられたんだな。(笑)。
A それはやっぱり彼の方にも好き心があったからだよ。(笑)チョイトといわれたとたんにアイヨって行っちゃったんだ。

 …入力しながら、俺のことでもないのにかなり嫌な気分になってきた。特に最後のAさんがひどい。俺だったら死ぬまで許さない
 まあでもCさん一生懸命評価してます。
『アフリカの爆弾』はやはり品切れですかね? えー!? 『幻想の未来』も!?

アフリカの爆弾 (角川文庫 緑 305-2)

アフリカの爆弾 (角川文庫 緑 305-2)

幻想の未来 (角川文庫 緑 305-1)

幻想の未来 (角川文庫 緑 305-1)

 中公文庫は残ってました。
ベトナム観光公社 (中公文庫)

ベトナム観光公社 (中公文庫)

 これも張っておこう。ロングセラー。表紙がいとうのいぢになってる! 
 これは以下の日記に続きます。
SFマガジン覆面座談会(1969年2月号):眉村卓に対する評価