1949年4月の「赤本」に関する週刊朝日の意見

「1955年の悪書追放運動」から数年前、赤本全盛期(だったと思う)の頃の週刊朝日の記事、「こどもの赤本 俗悪マンガを衝く」です。
 手塚治虫が『新宝島』を出したのは、ウィキペディアによると「1947年1月30日」(原作・構成/酒井七馬、作画/手塚治虫)。多分このせいで近藤日出造に「低俗な子供漫画は大阪がもとである」とかひどいことを言われたと思うんですが…。

週刊朝日 1949年4月24日号 こどもの赤本 俗悪マンガを衝く
 
 マンガ本、マンガ本と子どもたちにせがまれる。ふところと相談して買ってやると、まるで吸いこまれるようにして、読みふける。が、はたして親たちは、これらのマンガ本にはどんな絵が描かれ子供たちにどんな感化力を与えているか、考えて見たことがあるだろうか。……これは文化国家の大問題であると、私たちは思うのだが……。(編集部)==写真はあるアメリカ漫画雑誌の表紙
 
強い赤本の感化力
 
 犯罪とまではいかないが、明かに漫画本の影響とみられる事例がいくつも報告されている。
 中野で新制中学二年生を頭にチンピラ不良団が捕った。聞いてみると、この連中の最初のきっかけは長編漫画「怪盗○○」の影響だということが分った。下駄でコツコツ踏めば盗む、強く踏めば逃げるという仲間同士の規約も「怪盗○○」からのヒントであった。かと思うと、孤児の絵物語りを耽読したあげく、実母を勝手に継母と思いこみ家出した少年の例が池袋にある。
 杉並のある中流家庭の今年新制中学の三年になる子が妹と喧嘩し、母親に叱られた腹いせに家出し、東上線のガード下に七日間穴倉生活をつづけた。この原因は探偵物語「地底の怪物」の筋書を真似たものだった。
 いや、家出ならもっと大仕掛? なものもある。北区のある新制中学の二少年は「コロンブスの世界漫遊記」に感銘し、新島発見の旅に出かけた。家出支度も大変なもので、漫画の筋をそのまま、ジャックナイフ、食糧、着替え、ロープ一條、懐中電灯、現金五百円(何と可愛らしい)を準備し、千葉の海岸から二百四十円で八人乗りの遊覧船を借り受けて漕ぎだした。沖合七キロまで来たとき折よく航行中の漁獲採集船に発見され、警察へ身柄を送られたが、二人ともこの失敗に屈せず二度も三度でも決行して「昭和のコロンブスになるんだ」と口惜し涙に咽びながら語ったという。
 これらの事例は一がいに漫画本の影響とのみはいい切れないかも知れない。あの年ごろの子供たちの夢ということもあるかも知れない。が、それだけ漫画本の子供たちに及ぼす強烈な感化力ということは無視出来ない事実であろう。

 探偵物語「地底の怪物」というのはどんな本なのか、少し調べたけれど分かりませんでした。

 
犯罪の手口をまなぶ
 
 このような感化力のなかで、一番おそろしいのは、漫画本を通じて子供が無意識のうちに犯罪の手口を覚えこむということだ。
 青少年の犯罪の動機はいろいろあるが、つきつめてしらべてみると、漫画に最初のヒントを得たというのが案外多い
 アメリカで十四才の少年が同じ年の女の子を、性的要求を拒絶したという理由で絞殺したという報告が何かの本に出ていた。もちろん、本能的なものがあろうが、この少年は一週間前に同じ理由で、ある男が年下の女を殺した漫画本を読んで、こういう場合は殺さなければならないものと思いこんでいたのだということであった。
 これはアメリカの話であるが、今日の日本の世相とアメリカの辿ったそれを比較すれば、それは単に海の彼方の話とはすまされないであろう。日本の場合は自体はもっと深刻、かつ広範囲であるかも知れない。ただそういう調査が整っていないだけのことである。
 街頭補導でひっかかる子供の鞄やポケットから出て来るのは、教科書ならぬ「怪魔ロケット」「ゴーガンの館」「怪盗赤卍」「漫画科学忍術」「仙術を学ぶ」という題の漫画本である(以下補導員少年二課員)ことははっきりこの傾向を物語っている。
 大たい人間の本能的な要求というものは、これを合理化し、社会性を持たせることが大切なのだが、漫画となるといろいろ理屈をいっている暇がないので、本能的な行動を無批判に奨励しているような結果になる。しかもそれを読む子供に批判力がなく、つくる筆者に良心がないのだから、その影響や思うべしである。
 
漫画本欲しさに盗み
 
 漫画本は一体どうしてそんなに子供たちにとって魅力があるのだろう。それは「戦争中子供たちの世界は貧しく、学力が低下したため、いいものをうけつけない、そこで手っ取り早く漫画本、冒険小説ということになったのだ」(赤トンボ中華、藤田圭雄氏談)ということに大半は依存するのかも知れない。
 漫画本、漫画本、子供たちはヤッキになって読み漁る。なかにはこの漫画本を買うために親の金を盗みだすものもある。というのは漫画本は子供たちの間では貸し借りをするのがほとんどきまりである。あっちの子、こっちの子と取りかえっこをして読む。その時相手が三冊も五冊も持っているのに、親分が一冊しか持っていないと権利を失うからだ。
 子供の社会には子供の仁義があって漫画本を読みたいということより、漫画本の貸し借りをして子供の社会の仲間入りをすることの方が大切なことになってしまう。
「少年の犯罪のうち、窃盗が七八・八パーセントを占めているが、さらにこのうち漫画の万引きが六パーセントで、書籍のほとんど全部は赤本だ」(警視庁調査)という報告はこの事実を雄弁に裏書きしている。

「漫画の万引きが六パーセント」って、そんなに多くないのでは? 他にはどんなもの窃盗してたんですかね?

 
丹下左膳や怪盗○○流行
 
 さてこんなにしてまで子供たちが読みふけっている漫画本が、どんな内容のものかとのぞいてみると、これが身の毛もよだつような話なのである。中身が凄くて身の毛がよだつのではない。子供の将来を考えてみて身の毛のよだつ思いがするのである。
 一番こまるのは講談だね、ヤクザだねの漫画である。これからの子供はデモクラシーの原則を身につけて、世界の社会の一員として暮していかなければいけないのに、漫画本の中には水戸黄門や、柳生十兵衛や、忍術など時代錯誤のものが多い。なかにはバクチ打ちや、侠客などのヤクザものもある。これは今日の日本のボス制度、地下組織の問題と考え合せると、ぜひともなくさなければならないのに、研究所の調査によるとこういう漫画は全体の三割近くあって、しかも最近はますますふえる傾向にあるという。
「去年ぐらいまではこういうものはなかったのですが、日本の民主化が停滞してくるにつれて、多くなって来たのです、まったくよくしたものです」と漫画本を調査した児童文化関係者は話してくれた。
 編集部で浅草、上野、神田で約五十冊ほどを買い集めて調べてみたが、そのなかには例えば「江戸の花、火消しの三ちゃん」----い組の息子三ちゃんと、ろ組の息子竹松がケンカをしたため男同士のケンカになる。ろ組の頭の方が強く、い組の頭を殺したので、い組の頭の子が仇討ちをするという筋。「縄張り争い」「子供のツケ火」などが扱われたものや、講談だねでよく使われるのは「水戸黄門漫遊記」----助さん、格さんとの主従関係を扱っていながら「これからは民主主義でいこうよ」と黄門に言わせているのは苦笑ものだった。
 忍術使いでは、相変らず猿飛佐助が人気がある。「エノケンの猿飛佐助」エノケンが扮する猿飛が、徳川の狸親爺のかわりに本物の狸をつかまえてくるという筋。相変わらずドロンドロンの「火遁の術」などが飛び出す。「投げ縄のチビ八捕物帖」といった捕物帖ものも多い。大ていの漫画が勧善懲悪で、最後には善人が勝つことにはなっているが、子供にはかえって悪人の方が面白いことが多い。「丹下左膳謎の怪屋敷」にしても、左膳の家にあらわれる化け猫退治だが、化け猫が左膳を苦しめるのが面白く、「新魔鉄仮面最後の決闘」では「エンコの鉄」「ハンニャの政」など登場人物が非常に悪い。「オクラホマの決闘、怪人黒仮面」では、留置場に入れられた悪漢が、看守にワイロをやって逃げる場面があったりした。

「デモクラシーの原則」とか「日本の民主化」とか、言ってることがすごいですね! 水戸黄門は非デモクラシーだったのか。

 
原稿料は“買い取り”
 
 省線I駅西口、新興マーケット街の迷路を辿っていくとXという喫茶店がある。一見なんの変哲もないこの喫茶店の扉を開くと、中には満々としたタバコの煙。ベレー帽に、ほう製(?)の面々はいわずと知れた自称芸術家たちだ。この連中の中には三文画家がいる、美校生がいる。映画関係者も入っている。とにかく絵心を持っているという連中である。そこに一風変った人物が入ってくる。この人種には紳士風がある、商人風がある、貧相な親爺がある、太った親爺がある、バン持ちで彼らこそ、どこからともなく現れる子供赤本の企業者たちだ。
 取引が始まる。原稿はたいてい買切りの一万円。「紳士」のカバンから一万円の札束が渡されれば、もうそれきりの御縁で「紳士」はどこかへ消えさる。……漫画原稿はこのように普通他の童話集や少年小説のように印税ではなく、ほとんど全部が“買取りの原稿”になっている。普通六四頁ぐらいの本で最低二千円から最高三万円まで。もっとも赤本漫画の一流? では二、三十万の原稿料を払ったのもあるというが、これは例外だ。
 したがって無名の漫画家の中には月に四、五篇、多いのでは十二篇も描いており、筋も教育も、民主主義もあったものではない
 漫画出版のいわゆる玄人筋にいわせると、漫画集団なんというところに納っている連中に頼むんじゃ、間尺に合わない。第一、写真製版でないと駄目だとか、インキが悪いとか、いろいろやかましいし、またそういう御歴々は買取り原稿というわけにはいかない。印税一割を払うためには少くとも三万は刷らなければならない。そのうえペコペコ頭を下げて頼みにいくのも馬鹿馬鹿しくて……」と、うそぶくのである。
 その手取早い方法……まず原稿募集を夕刊紙あたりに出せば、二、三十は集まるし、紙芝居屋や学生アルバイトの売込みなどもやってくるので、原稿にはこと欠かないというのである。
 
住所のわからぬ発行所
 
 喫茶店の取引、原稿募集、買込みで原稿は集まるとして、一たい誰が、何処で発行するのだろうか。試みに赤本漫画の奥付けを見給え。そこには住所がないか、あるいは有っても実際に尋ねると決してそんな店など有りはしない。
 こういうヤミの発行所は全国に二千五百とも三千ともいわれるが、このうち、曲りなりにも数冊以上出版しているのは東京に六十軒、大阪に二十軒、その他合せても百軒とは上らない。大てい裏長屋か二階の間借り、表札を並べているのは良いほうで、社員の二、三人も使っているのは全国でまず十軒というところだろう。
 ちょっと面白い原稿が入ったから、安い紙が手に入ったからとかで、俄か作りの○○書房が奥付の上だけで、出来ては消え、消えては出来、まことに正体の掴めない状態だ。
 このような出版屋は三種類に分けることが出来る。一つは素人の濡れ手で粟式のやり方、第二は経営状態不良の出版社の内職、第三が印刷屋の内職だ。一番よく見られるのが第三で、京橋あたりの印刷屋で片手間の赤本作りにはチョイチョイぶっつかるものだ。大たい一月に一冊だせたら上々で、やはり品物がねると金廻りが悪くて困るようだ。

 どこまで本当なのか不明ですが、当時の状況などが面白いです。この後の記述はもっと面白い、というか興味深い。

 
原価は一冊十七、八円
 
 B6版六十四頁建、一色刷、表紙だけ四色といった本を一万部刷るとして、ちょっとソロバンをおいてみる
 原稿料はまず一万円、製版は「書き版」で二万円、紙はカストリ雑誌と同様センカ、それも六十キンセンカといわれるのが多く、一連三千五百円として一万部刷るには二十連いるから七万円。印刷屋の払いが七万円、しめて十七万円ということになる。つまり一冊十七円程度。これが一冊六十円、六十五円という定価になる。
 別に原価計算とか適正利潤とかややこしいことは抜き、主人一人の企業だから人件費もいらぬ、住所は奥付にないから取引高税もいらぬ、まことに儲け第一の仕事でる。ことに印刷屋の内職なら印刷費も実費で済むので原価は十五円を割るだろう。
 しかしながら出版屋は十七円の本を六十円で売れるのではない、小売店との間に日配か取次店があるのだ。一応名のある版元なら日配と小売店の両方を通過する。赤本の場合は取次店に頼むのだ。良心的な取次店なら、あまり俗悪な本は扱わない。ところがまた、俗悪な本ばかり扱う取次店もあるのだ。
 版元と取次店との電話で話は成立する。こういう場合、取次店への卸値は五・八掛から六・三掛くらいで、つまり定価六十円の本は三十五、六円で取次店へいくのだ。原価十七円との差、十八、九円が版元へ入る。この本は一万部刷ったのだから十八、九万円が発行所の儲け……といけばいいのだが、そうは問屋がおろさない。というのは原稿-製版-印刷-製本-発送-現金受取りの間に半年はかかり、取次店からの金はなかなか入らないからだ。ことに最近の金詰りで回転がずいぶん鈍く、六ヶ月で売れ切れたら上々。しかもそれが過ぎれば返本の山がつくというのだからなかなか大変だ。従来初版一万が常識だったが最近は五千ぐらいに下り、売れたらまた刷るという方法をとっている。
 日配がいよいよ閉鎖されるというので、新興取次店は誕生している。東京に六、七十軒の取次店が大たい三組合に分れているが、それぞれ特色を持って活動している。
 比較的やわらかいものを扱うT組合で、月に二回市を開き、その日の勘定は数百万円に上るという。普通の出版社からは、出版するとこういう取次店の組合に取扱いを頼む。しかし俗悪な漫画の場合などは取次店一軒一軒に直接交渉で取次を依頼する。組合を通じてはなかなか俗悪漫画など扱ってもらえないからだ。
 定価の六掛ほどで買った取次店は、これを小売店に六・八掛から七・二掛で売る。六十円の本なら四十円から四十二円くらいだ。取次店が買ったのは三十五、六円だから、儲けは一冊五、六円というところ…。

 …と、原価とか計算してます。「日配がいよいよ閉鎖される」というのは、GHQから「過度経済力集中排除法」(財閥解体のための法律ですかね)→「閉鎖機関令」の該当指定を受けて、1949年3月にあったことらしいです。日配というのは当時ほぼ独占的に全国の書店に本・雑誌を卸していた取次です。

 
子供を連れてロス市へ
 
 東京では御徒町、浅草橋、蔵前あたりが取次店の沢山あるところ。だから地方の小売店からは買出しの連中がここらに詰めかける。リュック一杯に本を詰め込み、黄色の大風呂敷に玩具を包んだ風体をこの辺りではよく見かける。この買出し部隊はよく子供を連れて出かける。子供の方が新刊ものによく注意してるし、大人と興味が違うからだ。
 金詰り、購買力の低下などから返本が多くなったこのごろ、倉庫を持たぬ版元は返本の山で金の回収ができないうえに場所を塞ぐので大弱りだ。そこで持て余した返本をツブシ屋に売る。そういうツブシ屋から縄で縛った一束(百冊)いくらで本として売れそうなのを買い取っていわゆる特価本といって主に地方農村に出るのが業者仲間のヤポン屋である。
 買取り屋でさばかれる漫画本は原価をちょっと上廻ったところ。六十円の本が二十円とはしないだろう。ところが取次店を経た正当ルートより、かえって売行き確実というところから版元から返本ならぬ新本を買取り屋用として印刷されている。ことに赤本の本場大阪あたりから送られてくるのが多く、運賃を払っても東京の出版元と対抗できるという話。第一版は正統ルートで、第二版以後は両方に託すという例も多い。
 買取り屋は今年になってから出現、いま東京で三十軒ばかりあるが、飴屋、荷物預り屋、テキヤの親分も交り一応まともなのは十二、三軒、上野、御徒町近辺に多くロス市場と呼ばれている。
 
どんなものが売れたか
 
 こうして出版される漫画本は一体どのくらい出ているのだろう。ある業者によれば、漫画の単行本は月に百五十である。だから年に千八百だ。それが一万ずつ刷るとしても千八百万冊、定価七、八十円で十二、三億円になる。このごろは一ころのように売れなくなった。一昨年の暮から去年の二、三月がヤマで、それ以後は素人出版もすたれ、既成出版も手堅い商いに傾いている。返本も最近は三割--四割とあって特価本も去年夏ごろから出はじめた。
 戦後よく売れたのでは「少年王者」(泰明社)で五十万、「新宝島」(育英出版)四十万、「黄金バット」(秋田書店)二十万、その他横井福次郎のターザンもの、宮尾しげを西遊記など十万台がつづいている。
 良心的な出版社は講談社、中村書店、鈴木仁成堂、東京漫画社、みどり社、金の星社鶴書房で、やはりいいものはよく売れるそうだ。こういうAクラスなら卸屋で二、三日、小売店で一ヶ月とは残らない。大阪ものはコスト安(東京で六十円なら五十円で出来る)と絵が子供向きなのでよく売れる。琵琶湖のほとりに大泉貸工場があることと、大阪がもとからマニラボール(表紙用原紙)の本場なこと、また映画に「怪傑ゾロ」が出るとすぐ同じ種目の漫画本を出すなど企画が巧みなのでなかなか足速いという。
 漫画新聞では、週刊漫画新聞が一番大きく十万を刷ったこともある。その他東京では科学冒険マンガタイムス、子東京、名古屋で中京漫画新聞、大阪で「コドモ大阪」があるが、みな経営不振で悩んでいる。雑誌では「マンガエホン」「コドモエホン」「マンガクラブ」などある。
 やはり一番うけるものは冒険もの、小学校五年----新制中学三年が読者層で、新制中学からの投稿が一番多い。なかにははるばる長野あたりから原稿を持ってくる中学生がいるが、そういうのはコンコンと諭して返している。戦争中の学力低下で、子供たちは読む本より見る本を好む。しかし漫画の「フキ出し」(説明)はなるべく多い方がいい。つまり子供たちは一つの漫画をゆっくり楽しむのだ。また漫画新聞など結構母親が愛読している模様で、まず親にとり入るために少し高級な読み物をつけているのもある。婦人雑誌の「お子様ページ」の逆をいくものである。
 漫画本が一番売れるのは正月で、夏から秋にかけてガタ落ちになる。それはプロ野球が始まり興味をそれに奪われるからであろうという。

 なんで大阪が赤本生産地になったのかとか、プロ野球が、とか、知らないこと書いてあります。

 
どうすればよいか
 
 このような赤本の氾濫も、大局的には子供の興味を中心に生れて来ているのだから、教育の大きな流れにそうていると楽観視している教育家もある。またこれまでは、日本の教育は、制度や形式の整備に忙しくて、学校や教育委員会にしても、子供漫画まではとても手が廻らなかったと正直に告白している教育委員もある。しかしこの問題は学校や教師や漫画家だけの問題ではなくして、むしろ親たちの問題なのだ。下谷のある俗悪漫画本の出版屋の主人は
うちの発行する本は絶対に家の子供には読まさないことにしてある
 といっていたが、この告白は味わうべきものだ。
 フランスやイギリスには、大人を対象とした風刺的な政治漫画は非常に多いが、無意味に子供を刺激したり、くすぐったりするような漫画はほとんど見当らない。
 子供たちにはその時々に古くからある美しい民話とか、有名な童話とかを、芸術味豊かな、しかも夢幻的な童心の世界を失わない絵で表現した絵本が与えられているという。
 なぜそうかというと、スイスの場合を例にとると、社会全体が自分たちの周囲の子供たちの教育には非常な関心を払っていて、もし童心を毒するような本が現れると、新聞をはじめあらゆる機関がこれに批判を加えて抹殺してしまう。これが決して、どこから強制されたものでもなく、世論として自発的に起ってくるところに、子供の教育に対する温い愛情と関心の深いことがわかる。
 ソヴエトにはロマンティックな絵本が豊富にある。芸術もまた思想性をもたねばならぬという精神は絵本の中でもはっきりと現れている。最近封切られたソ連漫画映画「セムシの仔馬」をみるとその間の事情がよくわかる。
 各国で一番漫画の多いのはアメリカだ。それは今日ではアメリカ人の生活の一部分ともいえよう、千九百四十八年六月のアメリカ広告協会の発表によると、アメリカの代表雑誌五十のうち、月刊の漫画雑誌がリーダーズ・ダイジェスト、ライフの二誌につづいて、ベスト・テン中三、五、六、七、九、十位を占め、タイム、ルック、コリヤーズ、アメリカン、コスモポリタンなどの大雑誌をはるかに引き離している事実、この五十冊のうちにはいっている代表的漫画雑誌の発行部数の総計だけでも、実に三千六百万部を越えるということは何よりもアメリカ漫画の占める地位を物語っている。もちろん漫画物語もスリラーもの、スーパーマン(超人)ものから子供漫画、家庭漫画にいたるまで数え切れないほどあり、俗悪はものも少くないが、根本を流れるものはクライム・ダズ・ノット・ペイ(Crime does not pay=悪は亡び、正義は栄える)の精神がはっきりしている。
 子供漫画では約一千万のティーンエイジャーの愛読者を持つといわれるベティー・ベッツの漫画、あるいは現在ティーンエイジャーはもちろん大人の間にも圧倒的な人気を持っているリル・アブナーという漫画などは、その明けっ放しの明るい楽しさがアメリカ人の人生観を最もよく代表しているが、使用されている言葉も主としてスピーキング・イングリッシュで、下品なスラングなどは用いてない。最近の報告によるとあくどい漫画に対してはP・T・Aが抗議したり、良心的な漫画家や出版社が組合をつくって自己検閲をやるようになったということだ。P・T・Aがここでは大きく働いている。P・T・Aといえばフランスでもやはり漫画本が悪くなったのに閉口して、今年の二月にこのひどい漫画本の展覧会をやって社会的に制裁を加えているということである。今のところ日本はそういう動きは見られない。
 赤本ハンランに悲鳴をあげた各学校のP・T・Aや母の会などからは、散発的に警視庁で取締ってくれと要求が出ているが、警視庁で出来る法規の範囲は刑法第百七十五條ワイセツ罪で取締るぐらいのところで、けっきょくP・T・Aなり一般ジャーナリズムの自発的運動と自覚を待つより他はないであろう。そういう意味で、子供の赤本は大人の日本人の一般的文化の反映かも知れない。(四・七 大阪にて 高治峰一(?))

 ソ連漫画映画(アニメ)『せむしの仔馬』(1947年)は、旧版はフィルムが痛んで現在は見ることはできないみたいです。
 ベティー・ベッツは『若い人のエティケット』(子供マンガ新聞社 1949)とかあるんだけど、よく分からない。「Betty Betz」で検索してみてください。

 
漫画家はこうみる
 
愛情の欠如が致命的 清水崑氏談
 赤本漫画は、昔大都映画で怪奇な世界を見せるだけで、芸術性の全然ないのがあったが、あれと全く同じだ。絵はまずいし汚い。表紙に骸骨の絵をつかったり、血が出ていたり、ピストルの弾がスポンスポン命中していたり、首をつっていたり、投げつけたりひどい暴力主義だ。読んだあと受ける感じは、昔田舎のドサ廻りの芝居を見たあとの、あのいやな感じである。全く暗い不快な感じであり、見られない。胸が悪くなってヘドが出そうになる。われわれはこういう漫画をどうしたらなくすることが出来るだろうかと相談したことがあるが、結局われわれがよい漫画を描くより仕方がないということになった。赤本漫画に描かれている絵はみなもう悪く固ってしまって、のびようのないのがほとんどである。なかには全くの素人もあるし、小さい時写し絵なんかやったと思われるのまである。最近小学生の三、四、五年生の漫画の懸賞募集の審査をしたが、その時の子供たちのものの方がずっとよかった。科学漫画などもはるかによかった。ああいう子供たちに描かせたらもっとよいものが出来るだろう。
 赤本漫画の共通の欠点は、良識のないことである。ユーモアがない。ロマンティックな夢もない。といってしっかりとした写実もない。ことに絵に愛情のないことは致命的だ
 
算盤主義を排せ 近藤日出造氏談
 低俗な子供漫画は大阪がもとである。大体大阪人というものがそういうものだ。売れて金さえもうかればそれでいいという恥知らずなのだ。その恥知らずのつくったのが、こういう赤本漫画だ。そして彼等はこれを見て喜んでいる。少し絵画的な目を以ってすれば見るに堪えるものじゃない。絵というようなものじゃない。
 切った、張ったも出てきていい。その芯にヒューマニズムがあれば、子供はまだそれによって楽しみながら教育されていく。しかしそういうのを描くには相当しっかりした頭脳がなければ出来ることじゃない。科学漫画の荒唐無稽も一種のロマンだからいいが、やはりそれには必然性が無いのではロマンでもなんでもない。またこれらの本をえらぶ親がなっていない。趣味も教養もない親がえらぶのだから見ていておかしい。親は分厚で派手で値の安いのを探している。内容の良し悪しなどは問題じゃない、こういうものが一番売れるということからみても、この頃の世論というものが信ぜられないのだ。赤本が売れて法隆寺が焼ける。それが今の日本文化の姿だ。
 
空想に納得がいかない 横山隆一氏談
 赤本漫画はすべて真似で出来ている。外国漫画や、日本漫画で名のある雑誌に出たのを真似している。ガリバーは小人島へ行くというアイディアがいい。こういうような人の苦労して考えたのをとって描いている。だから構図も盗っているが、絵そのものは全然違い品などは少しもない。子供の喜びそうなくすぐりばかりだ。顔などはどれを見てもグロテスクなものばかりだ。肝心な主人公の顔がとんでもないグロテスクである。
 科学漫画など、絶対不可能となると電気をかけたり、薬を飲んで急に強くなる。強くなるのはいいが、その出方が全然納得がいかないのだ。空想でもみんな納得のいくものならいい、しかしそれがないのだ。
 赤本漫画を描く人の画力は小学校程度である。誰にでも描ける。時には絵に心得のある本当の親爺が描いたかと思われるのがある。
 漫画家は料理にたとえればコックのようなものである。材料が新鮮であるか、おいしいか、よく吟味しなければならない。それが赤本漫画家となるとちょっとも吟味しない。くさっていようが色つけに有害な薬品だろうが使う。要するに子供が見た目に喜びさえすればいいのだ。
 赤本漫画は昔は駄菓子屋か縁日の露店にあったものだが、今では大きな本屋にまで出ている。大きな本屋など、こんな本など扱わぬようにしてもらいたいものだ。

 …赤本漫画全盛時代の元気が、ある意味うらやましいです。
 
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