あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい

キリストの言った言葉として有名だけど、これはどういう意味があるかについて考えて見る。あまり深く考えない人は、たとえばこんな感じ。
↓人間としての権利
http://www.nskk.org/chubu/nyc/nojuku/nojuku10.html


 聖書の中に、姦通罪で捕まえられた女性をめぐって、主イエスと律法主義者たちが対決する場面(ヨハネ福音書8の1〜11)があります。旧約の律法では、姦淫罪は石打で死刑にされることになっていましたが、判断を求められた主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられました。すると年長者から始まって一人また一人と、立ち去ってしまったと記されています、この出来事は、この世界には罪を犯したことのないものは一人もなく、自分の正しさを根拠に人を裁く権利や資格を持つ者は誰もいないことを明らかにしています。更に、一人の人間の罪は、それを傍観している人の側にもあること。また、一人の人が罪を犯す事になった背景にある社会的責任は社会のすべての人にあることをも意味しています。キリストはその女性を裁き、排除することより、そこで起こった問題をみんなの問題として受け止めることを求め、その人の立ち直りのために赦しと愛とを与えられたのです。
ひねくれた人は、聖書の元テキストに目を通してみます。
四旬節第5主日(「福音のささやき」というサイトから)
http://www.ignatius.gr.jp/fukuin/2004/04-03-28.html

 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」エスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネ 8:1-11
引用者=俺による、太字の部分に注目です。いったい、「律法学者たちやファリサイ派の人々」は、イエスの何を試し、誰にどう「訴える口実」を得ようと考えたのでしょうか。
ちゃんと当該サイトを読むと、続きが書いてあります。

律法の専門家たちなのだから、彼らがその女を最高法院に訴えればよいので、イエスのところに連れてくる必要などまったくないことを百も承知していました。しかし、彼らは、安息日に奇跡を行って病人や障害者を癒すイエスを、律法を破り、神に背く常習的罪人と考えていたので、殺す機会を狙っていたのです。そして、この姦通の女は彼らにとって絶好の機会を与えるものでした。当時ローマ帝国支配下に置かれていたユダヤは、犯罪人に対する死刑の執行権を取り上げられていた。だから、律法で死刑に処すると決められたことも、ローマ総督の許可がなければ、死刑にすることはできなかったのです。だから、もしイエスが姦通の女を石殺しの刑にせよと言われたら、イエスはローマに背くことになった訳で、イエスはローマ総督に訴えられました。また、死刑にする必要はないと言われれば、律法に背く罪を犯すことになっていました。イエスは窮地に追い込まれておられました。しかし、イエスは彼らと議論はされず、黙って地面に何かを書いておられました。暫くしてイエスは、言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
要するに、「あなたは(姦淫した女について)どうお考えになりますか」という、殺せとも許せとも回答できないトラップを仕掛けたイエスの敵に対する「とんち救世主」としてのイエスの口のうまさがそこにはあるように、俺には見えました。しかも「人が果たして人を裁く権利などはあるのだろうか」という、哲学と人道主義すらその言葉には含まれているように、人道主義な人は思えるような美しさがあります。イエスはすごい、と俺が思ってしまうのは、その美しい詭弁能力にあるのでした。
これは、たとえばこんな風に応用がききます。
ホワイトハウスから徒歩5分」(金平茂紀さんのサイトから)
↓2004年05月06日(木)[虐待は暴力であり、暴力は戦争の本質だ]
http://www.smn.co.jp/kanehira/mokuji/040506.html

虐待は暴力であり、暴力は戦争の本質である。今朝のワシントンポスト紙はあらたに3枚の虐待写真を掲載した。裸の囚人の首に犬のように紐をつけて引っ張っている写真。女性のパンティを囚人の頭にかぶせている写真。裸にした囚人たちを何かの固まりのようにまとめている写真。こういう写真が1000枚くらいあるという。きのう、ニューヨークに行く便の機内で隣り合わせた男性が、熱心にニューヨーカー誌を読んでいたので、今回のケースについてどう思うかを聞いてみた。すると、自分は軍にいたが、こんなことは例外的なケースだ、本当に恥ずべき行為だ、と怒っていた。だが、日本人も呆れている、と言ったら、逆に「日本が戦争中にビルマや中国でやったことを同じことだ」と切り返された。
俺なりの結論は、「何かの主義者(人道主義者とかその他)が何かを引用したりする場合は、元テキストの意味をもう少し調べてみると面白いかも」ということぐらいでしょうか。あと、やはり専門家の人(今回は山本襄治神父)は、ちゃんとそこまで理解した上で何かを語っているんだなぁ、と感心したり。
神父のサイトは、こちら。
カトリック麹町 聖イグナチオ教会
http://www.ignatius.gr.jp/index.html
↓福音のささやき
http://www.ignatius.gr.jp/fukuin/fukuin-menu04.html
「姦淫した女」はなぜそのような罪をおかしたのか、また捕虜に虐待・暴力をおかしたアメリカ人は、なぜそのような行為をしたのか、も考えてみたいです。人はなぜ愛と憎悪という感情を持つのか、みたいな、根拠に乏しい(科学的に語ることが難しい)私的意見の提示になりかねませんが…。