沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(0)

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061016/jiketu
 
今日からしばらくの間、1988年2月10日におこなわれた「第三次教科書裁判・沖縄出張法廷(出張尋問)」における、安仁屋政昭さんの証言をテキスト化してみます。
「沖縄出張法廷(出張尋問)」に関しては、以下のところをご覧ください。
第三次教科書裁判の「集団自決」に関する判決その他
資料は、『裁かれた沖縄戦』(安仁屋政昭編・晩聲社・1989/11)を使うことにします。
で、その前に、『裁かれた沖縄戦』の「はじめに」から、気になる「富山真順兵事主任」に関する部分だけを、ちょっと引用しておきます。
富山真順さんの朝日新聞の「証言」記事は、やはり目を通してみる価値がありました。
繰り返しになりますが、
1・あまり他では聞いたことがないのだが、富山さんが「俗に」と言っている「兵器軍曹」という軍隊内の人間がいる(正式名称は「兵器係の軍曹」?)。
2・その「兵器軍曹」が「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」と「数人の役場職員も加えて二十余人」を前に、「三月二十日ごろ」の「午前十時ごろ」に「命令」した。
3・「玉砕場のことなどは何度も話してきた」と、富山真順さんは言う。
以上3つの点について、ぼくには3つの疑問点があります。
1・その「兵器軍曹」の名前(姓名)は何と言うのか(存在するのか)。
2・「兵器軍曹」の「命令」を聞いた人間は「二十余人」も存在するようだが、富山真順さん以外の人間による証言は存在するのか。
3・この「玉砕場のことなど」について何度も話した、という富山真順さんの、「役場門前」に関する「朝日新聞1988年6月16日夕刊」以前の証言は存在するのか。
いずれも、「存在」が確認されないと富山真順さんのこの「証言」がどこまで本当なのか、疑問が生じる疑問点なのです。もちろん、存在が確認されなくても、富山真順さんの「証言」が全否定されるわけではありませんが。
ということで、以上の件について、ぼくが調べられたら調べてみます。何年かかるかわかりませんが。
で、『裁かれた沖縄戦』では、それは以下のように書かれています。p12-15、「はじめに」から。

住民と軍との関係を知るもっとも重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員である。戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。元兵事主任の証言は次のとおりである。
1・1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。新城真順氏は、軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
2・そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り、訓示をした
「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」
3・3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
4・3月28日、恩納河原(おんながわら)の上流フィジガーで住民の「集団死」事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ち込み、住民の「自殺」を促した事実がある。
榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。しかも、住民をスパイの疑いできびしく監視しているなかで、軍が手榴弾を住民に渡すということは尋常ではない。この場合、赤松隊長の個人的な心情は問題ではなく、軍を統率する最高責任者としての決断と責任が問われなければならない。住民が密集している場所で、手榴弾が実際に爆発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ、「自決強要」の物的証拠というものである。
曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。
この点について、原告代理人の反対尋問に対して曽野綾子氏は、
「記憶にございません。とすれば、どこかでお目にかかってお辞儀をしたとか、そういうことはあるかもしれませんが、私はひどい近視でございますので、お顔も全く記憶にございません」
「伺っておりません。それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」
と、このような証言をしているのである。
兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識にてらしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら「神話」の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる。

(太字は引用者=ぼく)
えー!? 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」というのは「訓示」だったんですか。続いて「命令」とあるので、明らかに著者は使いわけていると思うんですが、ぼくには「命令」と「指令」「指示」「訓示」といったものとの違いが、軍事用語的にどうあるのかよく分からりません(誰か知っている人は教えてください)。
まぁ何となく「国歌斉唱の際には起立せよ」みたいな感じ? 「訓示」を聞かなかったらどうなるんだろう。「訓示を聞いて、訓示通りに死なない奴は殺す」だったら魔女裁判みたいでものすごく嫌だ。
で、興味深いことは、この安仁屋さんのテキストでは、富山真順さんと曽野綾子さんが会った場所は「なぎさ旅館」だった、という具体的な場所が出ていることです。ただ、「○○という」と、富山さんの「証言」を安仁屋さんは「伝聞」しているだけなので、富山さん自身の「証言」の記録がもう少し欲しいところです(朝日新聞の「記事」も、曽野綾子さんの著作も、その意味では「伝聞」なんですが)。
ちょっと話がややこしくなるんですが、おのおののテキスト(証言)がいつおこなわれたか、についてちょっと整理しておきます。順番はこんな感じです。
1・「沖縄出張法廷」における安仁屋政昭さんの証言(1988年2月10日)
2・曽野綾子さんの、東京高裁における証言(1988年4月5日)
3・朝日新聞富山真順さんの証言(1988年6月16日)
4・『裁かれた沖縄戦』の「はじめに」(1989年11月)※今回引用したもの
ぼくとしては、「2」の曽野綾子さんの証言の前に、曽野さんが「1」の安仁屋さんの証言内容を知らなかった、ということは信じられないんですが、それは今がネット時代だからかな。とにかく、あとで曽野さんの証言も引用しますが、今回の安仁屋さんのテキストは、朝日新聞で富山さんが証言してから1年以上もあとのものである、ということは覚えておいてください。
で、ぼくの意見なんですが、これは曽野さんも富山さんも嘘を言っていない、と仮定するなら、何度も繰り返すことになりますが、「富山さんは曽野さんに会ってはいるが、曽野さんの記憶に残らないようなことぐらいしか話さなかった」んじゃないかと思っています。
根拠は、あまり説得力はないかもしれませんが、
1・『渡嘉敷村史』(1987年)の富山真順さんの「証言」には、集団自決その他に関する重大な話は書かれていない(これについては、またテキスト引用するかもしれません)
2・1988年6月16日の朝日新聞夕刊以前には、「兵器軍曹」の話は見当たらない
3・富山さんは「玉砕場のことなどは何度も話してきた」とは言っているが、「役場門前のこと(手榴弾のやりとりに関すること)などは何度も話してきた」とは言っていない
ということからです。
もちろん、二人のうちのどちらかが嘘を言っていたり(あるいは記憶違いをしていたり)する可能性のほうが高いのでは、という考えもありますが、それについて語るとものすごくイデオロギーが前面に出ちゃいそうなので、ぼく個人は回避したいと思います。
最後に、もう一度繰り返しますが、富山真順さんの「証言」に関して、ぼくが感じた3つの疑問点に、誰か答えられる人はこの日記のコメント欄でコメントいただけるとありがたいのです。
1・その「兵器軍曹」の名前(姓名)は何と言うのか(存在するのか)。
2・「兵器軍曹」の「命令」を聞いた人間は「二十余人」も存在するようだが、富山真順さん以外の人間による証言は存在するのか。
3・この「玉砕場のことなど」について何度も話した、という富山真順さんの、「役場門前」に関する「朝日新聞1988年6月16日夕刊」以前の証言は存在するのか。