世界があまり変わらないのでブログやめようかと思う

 まぁ見出しは演出ですが。
 政治的な左右を問わず、相変わらず汚い言葉で自分の感じている正義を主張する大小の声にちょっとうんざりして。
 単なるウツ状態がひどいだけでしょうか。毎日毎日、風が強くて寒いので、何もかもが嫌になる。ブログはじめた人が最初に思うことは何なんだろう。単なる自分の日常の覚書メモ? だったら自分だけに見える日記でも自分のパソコンの中に書いておけばいい。ぼくもそういうの書いてます。この「はてなダイアリー」はじめる以前から。なんかブログ者(ブロガー)には、自分の発言(テキスト)で、世界が変わるかもしれない、という幻想は絶対にあると思う。ないとは思えない。でもそんなに簡単に世界(ネット界)は変わらないのだった。ただ、自分は変わるね。少なくとも汚い言葉は使わないようになった(使わないように、意識しているんだけど、まだ多いかな)。それによって人を煽る効果よりも、静かな言葉で人を沈静させる効果のほうが、今のネット状況を見ていると重要のように思えるのですね。
 最近気になるのは、産経のテキストをネタにした批判ブログで、なんかアンチ・ロッテがメジャーになったような気分で少したのもしくも思えるのですが、けっこうまだ汚い言葉を使っているのが洗練不足に感じられ、それは効果的なんだろうかと疑問が生じるのでした。小林よしのりとか産経とかsapioが朝日的言論をネタにしはじめて、それがそれなりの影響力を持つようになってからもう十年ぐらいは経ちますか。「朝日的言論は確かにちょっと変だが、それを批判しているほうもそれなりに変」ということに、気がついている人はずいぶん前から気づいていたとは思う。ただ、産経批判が面白くなってきたのは、小泉以降の政治の迷走時期からかな*1
 ぼく自身はあんまり右とか左とか関係ないんで(自称中立)、右側的プロパガンダエルトゥールル号とか樺太真岡郵便局とか)も左側のそういうのも(最近ないけど)ネタにしたりするわけですが、要するにですね、産経的言論を批判している(ネタにしている)人は、もう少し汚くない言葉を使ってくれないとうまく楽しめない、というのが本日のこのエントリーの骨子*2。具体的にブログ名を挙げるのは避けますが。
 まぁ別に世界が変わらなくても、自分が変わったりすれば、それはそれでブログ続けて、公開テキスト吐き続ける意味はあるんだろうなぁ、とも思う。ぼくがネットに求めているテキストは、自制的なテキストですが、そういうのを書き続けていると絶対ウツがひどくなるだろうから、万人にはおすすめできないのが難点です。
 

*1:小泉時代は、よくも悪くも政治的軸足がずれていなかったような気がする。

*2:朝日的言論を汚い言葉で扱っているブログに関しては、なんかこう、もう慣れました、という感じ。