「厚木飛行場のマッカーサー」の写真をいつ何で見たかという記憶の問題

lovelovedog2008-03-29

 こんなテキストがあったので驚いた。

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

【→親米と反米(amazon)

戦後日本社会は、基本的に深く親米的であり続けたのではないか.その感覚は、「反米」世論が高まったときすら、通奏低音として流れ続けていたのではないか.戦前戦後にわたる、大衆的なレベルでの親米感覚に焦点をあて、日本の近代や戦後天皇制、ナショナリズムの構造との不可分な関係について考察し、それを超えていく視座を模索する

↑の本の、p62、p65-66。

マッカーサー、厚木に降り立つ
 
 ペリー来航から約一世紀を経た一九四五年八月三〇日、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、空から日本本土に降り立った。翌日の新聞はその様子を次のように伝えている。

暫くして星の標識の入った巨鯨の胴腹から銀色の梯子が下された。扉が開いた。一同固唾を呑む。やがてマックァーサー元帥が現れた。薄い上着なしのカーキー服に黒眼鏡、それに大きな竹製のパイプ、南方生活の長い彼としては割合に陽焼けせぬ薄赤い顔をしている。六十六才にしては若い。梯子を降りる前扉のところでややしばらくたたずみ、左右に眼をくばって、写真班のためにポーズをつくる。やがて梯子を下りて飛行場の前草の上に立った。(朝日新聞、一九四五年八月三一日)

タラップ上の大見得は空振り?
 
 だが、このマッカーサー日本上陸という決定的な瞬間で最も興味深いのは、彼の演技と日本での報道の間の奇妙なギャップである。マッカーサーは、バターン号のタラップから降り立つ瞬間の自分の姿を周到に計算していた。後に有名になるこのときの映像からも、彼がメディアのまなざしに過剰なまでに意識的だったことは明白である。そもそもこの日の到着に際し、彼は日本政府の出迎えを断っても、新聞記者団には取材を認めていた。多数のカメラが取り囲むなかでタラップに降り立つと、彼は一瞬立ち止まり、さあ写真を撮ってくれとばかりにポーズをとった。軍服に身を包み、サングラスに軍帽、コーンパイプというお決まりのいでたちは、紛れもなく敗戦国に降り立つ新しい支配者にふさわしく見えたはずだ。
 だからこそ、多くの「占領」をめぐる言説で、この日のタラップ上の威厳に満ちたマッカーサーの姿は翌日の新聞に載り、敗戦国の国民を圧倒したかのように語られている。しかし実は、袖井林二郎がすでに指摘したように、日本の新聞各紙は、これほど印象的な写真を翌日の紙面に採用してはいないのである袖井林二郎マッカーサーの二千日』中公文庫、二〇〇四年)。たとえば翌日の朝日新聞に掲載されたのは、マッカーサーアイケルバーガー中将が腕をとりあって微笑む何の変哲もない写真だった。しかも、マッカーサー到着は、新しい日本の支配者の登場という決定的な出来事であったにもかかわらず、翌日の紙面のトップ記事にすらなっていない朝日新聞の場合、トップに来ているのは、東久邇宮稔彦内閣が民意を直接聞くために、広く国民に政府への投書を呼びかけるというニュースである。それよりはるかに重要な意味を持つはずのマッカーサー元帥到着の記事は、二番手に格下げされている。
 いったいなぜ、マッカーサーが自ら演じ、ポーズまでして撮影させた写真が、翌日の新聞には載らなかったのだろうか。適切な写真が存在しなかったわけではない。後の時代になるとまさにこのタラップ上のマッカーサーの写真が出回るようになり、日本の降伏を象徴する一枚として利用されていく。しかし一九四五年の時点では、この写真は採用されなかったのである。

 もう、あの有名な写真は新聞や雑誌にその翌日・翌週には掲載されまくりかと思ってたんですが、違うのか。
 ぼくがその写真を最初に見たのは、いったい何でだっただろう。学校の教科書とか年鑑・図鑑だったかな。まったく覚えていない。みなさんはいかがですか。
 終戦当時の記憶のある人に、ちょっと聞いてみたい質問だったりするのでした。