朝日新聞1955年2月11日の滑川道夫「青少年読物を健やかに 出版界への警告と民間勢力結集の提案」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。

青少年読物を健やかに 出版界への警告と民間勢力結集の提案 滑川道夫
 
 青少年を対象とする読物が一面において質的に向上を示しながらも、半面の俗悪娯楽書のハンランはひどすぎる。
 例を影響力のはげしい娯楽雑誌にとってみよう。マンガ絵物語が平均四二%も占めている。その上に別冊付録としてマンガや絵物語の単行本を添えることが流行している。この内容も大部分が怪奇冒険探偵小説・活劇物語・空想科学小説・講談の類である。怪人・魔人・仮面・怪獣が出没し・原子銃がうなり、火星人が攻めて来る。土人が白人に殺される。がまんできないのは、教育基本法児童福祉法・児童憲章の精神をふみにじり民主主義の方向と逆になっていることである。人権の無視はおろか人命軽視、暴力と勇気をすりかえ、偶然の幸福を期待させ、もっとも非科学的な科学小説が正常な空想力をゆがませ、せまい前近代的な任きょう(侠)の精神を正義感としてたたえているのが大部分を占めている。
 
黙視出来ない現状
 
 青少年たちが、おちついた判断をとれずに粗雑サツバツな行動をとり、思慮深さをうしないつつある要因のひとつは、この俗悪娯楽読物にある。教師や親たちをはじめ子どもの幸福をねがう人びとが黙視できない頂点が近づいているように思われる。現状は、まさに昭和十三年内務省が俗悪マンガ絵本の浄化運動にのりだして忌まわしい出版統制へのきっかけを作ったころと類似した現象を呈してきていることはきわめて教訓的である。
 子どもを守る会・主婦連合会・児童文学者協会その他の団体がはやくからこの傾向に対して警告を発してきたが、効果がなかった。さきごろ首相官邸で行われた官製の第四回青少年問題全国会議が、ヒロポン・不健全娯楽・刺激的出版物を中心に討議したと報ぜられている。この会議が不良文化財を中央で取締るように要望したというのは、法律的な措置への接近を物語るものである。このような官僚統制・出版統制への危機がはらまれる現象がかもしだされている。また一時立消えになった文部省の優良図書群推進の動向も一連の官制的統制を予感させるものであった。
 官僚的な統制や禁止による安易で危険な方法は避けなければならない。困難ではあるが、青少年に自主的な判断力を育成する教育と民間の民主的な世論によって是正していくしかない。そこでわたしはつぎのことを提案したい。
 
読書指導への提案
 
 第一、学校は読書指導をいっそう強化して、俗悪読物を徹底的にとりあげて批判力を育てること。読書指導の強化は、主として学校図書館の充実にかかってくる。学校図書館法が通過しても、内容はあまりに貧弱で、スズメの涙ほどの国庫補助金では前途多難である。司書教諭を置くことや、程度の高すぎる「良書」よりも「適書」のゆたかな読書環境をつくってやることが必要である。
 第二、すべての教育関係者・PTA・児童・青少年文化関係諸団体は、子どもの幸福を念願する大乗的立場から、問題の解決のために団結してその勢力の結集をはかること。
 まず父兄の関心と理解を深めるPTAの活動を主体にして、党派根性をすて、政治を離れた広い範囲結集をはからなければならない。一致的歩調をとる民間団体の結集を図るべきだ。それができないとすれば、次に来るものはいやでも官僚統制であろう。
 第三、出版社側は、自発的に自粛声明をだし実行すること。ちょうどニューヨーク州のマンガ業者が先手をうって自粛声明を発したように、業者の戒心の表明を勧告したい。
 読者である子どもたちは、本来的にサツバツな刺激を好んでいるのではなく、マンガ・冒険絵物語・怪魔仮面ものにとりかこまれているために、好まざるを得ないようにしむけられているのである。
 今にして自粛の実を示さなかったならば、かつてのように検閲制度が復活するか、あるいは、それに近い法的措置が講じられるかも知れない。すでに官制的な動向がはっきり見えはじめているのである。自らの首をしめる愚をさけてほしい。
 第四、娯楽読物の一部の作家群の抵抗と自己変革を要望したい。編集者の意に沿わなければ生活ができないという。けれども、生活できなければ、どんなことをしてもいいという意味にはならない。子どもの読書興味を尊重することは迎合することではなくて、開発することであると思う。
 
教訓はいらない
 
 ぎりぎりのところ、子どもをたのしませ、おもしろがらせるだけでもいい。それ以上の教訓性はいらない。ただ学校教育の進む方向にうしろ向きにさえならなければ娯楽読物として意味と価値を持つ。子どもたちを愛する作家諸君は、ちょうど諸君の作品の主人公のように勇敢に、団結して組織の力をもって、出版社に抵抗しなければならない時期がきたと思う。子どもたちの幸福のためにも、生活のためにも。稿料の値上げとともに、せいいっぱいな良心的作品をかくために。(児童問題研究家)

 とりあえず当時は「読書指導」と「イデオロギー」と「自粛(自主規制)」の時代でした。
 最後のはともかく、はじめの2つはあまり聞かないね。読書指導って今でもやっているんだろうか。
 
滑川道夫 - Wikipedia
 ていうかひょっとして、手塚治虫が自分の息子(眞)を成蹊学園に通わせてたころに、学園のえらい人だったのでは?
 
 ぼくの日記では、「桃太郎」に関する言及で、滑川道夫さんのテキストを取り上げたことがありました。
芥川龍之介による「桃太郎」は、日本の軍国主義とかの批判なのかどうか
 ↑昔のテキストだけど、面白いから読んで。
 
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1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク
 

読売新聞1955年5月14日の社説「ひろがる悪書追放運動」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 いよいよ読売新聞の社説登場です。

読売新聞1955年5月14日 社説 ひろがる悪書追放運動
 
 青少年を悪い出版物や映画、レコード、ガン具などから守る青少年保護育成運動は目下全国的に展開されているが、特に最近問題になっているのは“悪い本”の追放運動である。書籍というものはこれを一人の子が買ってもやがて次々と簡易に貸与が出来るため、ラジオとは別な意味で影響が大きい。
 戦後の児童雑誌の特色は第一に漫画のはんらんであり、その次が冒険探偵小説である。また、青年層の好むものはいたずらなるお涙ちょうだい的な読物や、政治的にも文化的にも一方に偏している小説とか、それと順を同じくするイデオロギー性の創作実話や同種の性雑誌などである。
 まず、ここに取上げなければならないのは悪い漫画であり、これらの雑誌から子供たちを守ろうとして「母の会連合会」や「日本子どもを守る会」などが起ち上がって業者の自粛と反省を求めようとしているのは当然なことである
 漫画には子供の美の感覚や思想を向上させる何物もない。いとも簡単に視覚のみに頼らせる俗悪な絵と低級な文句があるだけで、これは、一種の便乗物でしかなく、そこには子供たちを育成しようとする英知も愛もない。東京の「日本子どもを守る会」が先般調査したところによると某児童雑誌に刀の絵だけでも二八〇余も数えられたという。ここにはただおそろしい暴力肯定と無秩序な姿があるだけで、何等のロマンチシズムも問題も美も見られない。
 冒険物はともかくとして探偵物に至ってはその実害ははなはだしいものである。数多くの少年たちの犯罪のヒントや物真似がここにあることはいくたのニュースの伝えるところで、本来が悪を糾弾すべき探偵物も純真な児童たちの判断では結局は悪を真似る方向に走るといった危険がふくまれている。
 少女雑誌のドギツイお涙物も子供たちの伸びゆく理性を眠らせるだけである場合が多く、また時として文学的な導きかたに偏見があって一方の思想に偏したイデオロギーに陥っている。
 かつて坪田譲治氏は「児童は文学的教養の点では荒地だ。そこへいきなり面白さを失った文学性を持ちこんでもムリだ」といい、童話と俗悪な児童出版物の悲しい宿命を物語っていたが、その通りであり、真の意味で面白くてためになる読物というのはまれである。しかし出版業者の売らんかな主義のために日本の沢山の子供たちが毒されていることは事実であり、おそらくこれら業者の自粛と反省をまつことも容易なことではない。
 そこで対策であるが、最近「母の会」その他全国的にまき起されている悪書追放の運動はまず家庭が中心になって起されなくてはならない。だが学校も学校図書に良書が購入されていないといって平気な顔をしていてはならない。ともあれ青少年が学校以外で自由にこうした読書の誘惑に身をまかせているため、教師や父兄の指導というものが大切な問題になってくる。
 戦後わが国の学校は社会科的な方面にのみ走り児童の基礎的な学力の低下が重大な問題になっている。読む力がないとながめるものに集中する。そこに考え方の訓練があろうはずがない。漫画などが流行するのは当然であるが、日教組もこうした点につき特に深い考慮を払ってしかるべきだ。
 しかし、ここで注意すべきは、これら悪質図書にしろ映画にしろ政府が文化規制をつくって介入しないことである。厚生省の児童局長は(五月一日本紙)「自粛は望ましく成功してほしいが失敗すれば好ましくない。そのため法律で…」とのべていたが青少年の読物が国家によって左右されることは危険である。あくまで民間団体の手により出版業者の反省を辛抱強く求めてこの問題を解決すべきで「母の会連合会」や「子どもを守る会」など民間団体の悪書追放運動に期待したい。

 …ミステリー(推理)作家も少し怒ったほうがいい。
 坪田譲治氏の言葉はどこから引用されているのか、少し調べたいところですが、とんと検討がつかないです。
 
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読売新聞1955年4月12日の記事「ひろがる悪書追放運動」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 今度は漫画家・出版社の意見も出ています。関係者の意見が面白いです。

ひろがる悪書追放運動 マンガ家も起つ 少年雑誌十社代表と懇談
 
悪いマンガや雑誌から子供たちを守る運動は母の会連合会や日本子供を守る会などからつぎつぎ燃えひろがり、各方面に自粛と反省の声が高まっているが、こんどはマンガ作家の会の「東京児童マンガ会」が立上がった。その第一歩として同会は十一日午後講談社秋田書店など少年児童雑誌約十社の代表者たちの出席を求め「悪いマンガをなくす会」を開いた。作家側からは手塚治虫うしおそうじ氏らの売れっ子十数人が参加、マンガ界の実例やこんごの正しいあり方について真剣な論議がくり広げられたが、こんご定期的にこうした会合を開き、悪いマンガの追放からさらに前進して明るくて魅力にとんだ児童マンガ制作へ向かってふみ出す方針を定めた。
 
▽低俗マンガはなぜあふれる-よいマンガでも一流作家は原稿料がかさむ。そこで編集者には安値な三文マンガにとびつく傾向はないか。(マンガ会秋玲[秋玲二]副会長)締切、予算の関係もある。新人を掘出そうという事もあり、適任者を探すには苦労する。(光文社「少年」編集長金井武志氏)付録がふえた結果安易にかかれたマンガが目立ち、子供がすでに読んだものまである。これでは子供に飽きられる恐れがありゆゆしいことだ。(秋田書店森田編集長)
▽マンガのあり方について-マンガは悪いものという先入観念をとり除いてほしい。子供に喜ばれ楽しまれるような“よいマンガ”が存在するはずでこの方向に進みたい。(光文社)“面白さ”という事をすぐに不良文化に結びつけて考えることは危険だ。子供にとって“面白さ”は大切なことだ。大切なことはハナたれ小僧や山奥の子供たちに無批判にむさぼり読まれているマンガ、絵物語の質を高めることだ。(秋田書店
 社としては反省もしているが、現在終戦で姿を消したはずの古いモラルが誌上にクビを出している。子供に喜ばれるサスペンスは人殺しや時代活劇ものなどからしか引出せぬものか。(小学館一年生副編集長豊田亀市氏)
▽売らんかな姿勢が原因の圧力はないか-投書は月七-八万もあり、その意向にそって作るわけだ。アメリカでよいとされるディズニー物がすぐに日本でうけるかどうか疑問だ。(秋田書店
▽マンガ作者側からの注文-児童マンガは堕落しているという声があるが率直にいってマンガのスペースをへらしてほしい。よい、悪いを反省する暇もないほどわれわれは追い回されオーバーワークなのだ。(うしをそうじ氏)
▽マンガ作者の反省-児童雑誌の競争が激しくなるにつれマンガの別冊付録の数がふえ、業界の売らんかな主義の濁流にのまれ押流されているのがいまのマンガ家の実情。量的な仕事の中からこんご内容を備えたものを少しずつでも生み出していきたい。(松下井知夫
 われわれが注文をことわればもっと低俗作家のところへ注文がいく。せめて今の線でくいとめておきたい(うしをそうじ市)
 問題の多いチャンバラものでも単に切った、はったに終らせず幾分でも抒情味をおりこむ工夫をこらせば生きてくる。(花野原芳明)
▽具体的にどう改善するか-子供の喜ぶマンガで指導しよう。一般にマンガ特有の明るい笑いが欠乏しており、たとえばゴジラでも絵物語ではどうにもならぬがマンガなら口をきかせて明るいマンガも生める。(講談社「ぼくら」編集委員石坂勇氏)

 議事録とかあったら読みたいところです。
 
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読売新聞1955年3月30日の記事「見ない読まない買わない運動」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 読売新聞1955年3月30日の記事「見ない読まない買わない運動」

見ない読まない買わない運動 不良図書を追放 子供守ろうと母の会など
 
“不良文化財から子供たちを守ろう”という声が各方面に高まっている。最近グンとふえた児童雑誌の数は約七百五十万部、その大半が童心を傷つけそうないかがわしいマンガやエロ、グロものや残虐をきわめる冒険物語、あるいは戦争ものなどに貴重なページの半数近くを使っている。さらに性雑誌のはんらんもののすごく出版界の無軌道ぶりから早くも一部には戦時中のような“統制”のきざしも現われはじめ、ついに見かねたお母さんの団体や有識者の間から批判の声が起り“不良出版物追放”への動きが活発化してきた。
 
☆…児童雑誌の販売部数は日本読書新聞の調査によると大体七百五十万部、うち「冒険王」「おもしろブック」「幼年ブック」などが四、五十万部、「なかよし」「漫画王」「少年クラブ」などが二、三十万部、少ないところでも十万部は下らず、これら雑誌の特長はいわゆる“みる雑誌”となっている。写真グラビア、漫画、絵物語などが五二%をしめ痛快ブック四月号は二一六ページのうち二〇〇ページがこうした要素でしめられ平均六〇%、中身にはほとんどカタナ、ヤリ、ピストル、ドクロ類があふれ、ある雑誌の三月号にいたっては一冊の中に抜き放った白刃がなんと二八二本、ピストル四〇丁、このほか鉄砲、手裏剣、毒矢など闘争心をかきたてるような武器の類がぎっしり。さらに怪物、魔物、ガイ骨男、怪人、吸血鬼などのほか太平洋戦争前後の日本の世相をしのばせる好戦もの、燃える大空、血に染む日の丸など、ひどいのは「国連の艦隊も滅茶滅茶だ」という国連否認思想までとび出している。
☆…これらの読物がどんなに子供の心を傷つけているか-警視庁の調べによると昨年中に扱った青少年の非行一二〇件のうち出版物や映画をみたさに罪におちたもの八名(出版物五、映画三)出版物や映画をみたことによるもの一一二名(出版物七〇、映画四二)で「みたことによるもの」が九三%をしめている。興味を感じた点は出版物では性の場面三三、裸婦写真二三、接ぷん抱擁一三などをはじめ冒険物語二、リンチ一、覆面怪盗一、復しゅう場面一、映画では接ぷん抱擁一四、闘争場面一一、わいせつ場面一〇、冒険場面五などとなっている。興味を持った点を地でいった“実行派”は出版物では五六人で全体の八〇%、映画では二七名で全体の六四%という数にのぼり係官もあぜんとしている。
☆…こうした傾向に対し母の会連合会(会長宮川まきさん、都内に五十二支部、会員三十五万)ではこれまでも不良出版物の問題処分を行なってきたが今年はさらに大きく取りあげていくこととなり五月から会員を動員し青少年保護育成運動を大々的に展開する。同会の調査によると子供たちは性雑誌などを家庭から持出し愛読していた例が多いから、まずこうした雑誌を家庭から一掃し「見ない、読まない、買わない」の“三ない運動”を徹底させるという。また東京豊島区池袋の「最性協会(?)」江東区深川の地域婦人団体、世田谷区北沢の「ひかり子供会」、台東区谷中の「みどり会」なども悪書の“追放”に乗出そうとしている。さらに神奈川県では最近青少年保護育成条例を発動、有害図書として夫婦生活、デカメロン各四月号など九誌を指定した。これは保護条例五条の「青少年の福祉を阻害するおそれがある」場合その図書の発売配布を禁止することができるというもので全国でも異例の措置として波紋を呼んでいる。

 この記事を見る限りでは、エロ・グロのほうが漫画より影響大きかったみたいな感じを受けるですが…。
 あと、「三ない運動」の起源は悪書追放運動からのような気がする(非核三原則よりは古い)。
 
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1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク
 

1949年4月の「赤本」に関する週刊朝日の意見

「1955年の悪書追放運動」から数年前、赤本全盛期(だったと思う)の頃の週刊朝日の記事、「こどもの赤本 俗悪マンガを衝く」です。
 手塚治虫が『新宝島』を出したのは、ウィキペディアによると「1947年1月30日」(原作・構成/酒井七馬、作画/手塚治虫)。多分このせいで近藤日出造に「低俗な子供漫画は大阪がもとである」とかひどいことを言われたと思うんですが…。

週刊朝日 1949年4月24日号 こどもの赤本 俗悪マンガを衝く
 
 マンガ本、マンガ本と子どもたちにせがまれる。ふところと相談して買ってやると、まるで吸いこまれるようにして、読みふける。が、はたして親たちは、これらのマンガ本にはどんな絵が描かれ子供たちにどんな感化力を与えているか、考えて見たことがあるだろうか。……これは文化国家の大問題であると、私たちは思うのだが……。(編集部)==写真はあるアメリカ漫画雑誌の表紙
 
強い赤本の感化力
 
 犯罪とまではいかないが、明かに漫画本の影響とみられる事例がいくつも報告されている。
 中野で新制中学二年生を頭にチンピラ不良団が捕った。聞いてみると、この連中の最初のきっかけは長編漫画「怪盗○○」の影響だということが分った。下駄でコツコツ踏めば盗む、強く踏めば逃げるという仲間同士の規約も「怪盗○○」からのヒントであった。かと思うと、孤児の絵物語りを耽読したあげく、実母を勝手に継母と思いこみ家出した少年の例が池袋にある。
 杉並のある中流家庭の今年新制中学の三年になる子が妹と喧嘩し、母親に叱られた腹いせに家出し、東上線のガード下に七日間穴倉生活をつづけた。この原因は探偵物語「地底の怪物」の筋書を真似たものだった。
 いや、家出ならもっと大仕掛? なものもある。北区のある新制中学の二少年は「コロンブスの世界漫遊記」に感銘し、新島発見の旅に出かけた。家出支度も大変なもので、漫画の筋をそのまま、ジャックナイフ、食糧、着替え、ロープ一條、懐中電灯、現金五百円(何と可愛らしい)を準備し、千葉の海岸から二百四十円で八人乗りの遊覧船を借り受けて漕ぎだした。沖合七キロまで来たとき折よく航行中の漁獲採集船に発見され、警察へ身柄を送られたが、二人ともこの失敗に屈せず二度も三度でも決行して「昭和のコロンブスになるんだ」と口惜し涙に咽びながら語ったという。
 これらの事例は一がいに漫画本の影響とのみはいい切れないかも知れない。あの年ごろの子供たちの夢ということもあるかも知れない。が、それだけ漫画本の子供たちに及ぼす強烈な感化力ということは無視出来ない事実であろう。

 探偵物語「地底の怪物」というのはどんな本なのか、少し調べたけれど分かりませんでした。

 
犯罪の手口をまなぶ
 
 このような感化力のなかで、一番おそろしいのは、漫画本を通じて子供が無意識のうちに犯罪の手口を覚えこむということだ。
 青少年の犯罪の動機はいろいろあるが、つきつめてしらべてみると、漫画に最初のヒントを得たというのが案外多い
 アメリカで十四才の少年が同じ年の女の子を、性的要求を拒絶したという理由で絞殺したという報告が何かの本に出ていた。もちろん、本能的なものがあろうが、この少年は一週間前に同じ理由で、ある男が年下の女を殺した漫画本を読んで、こういう場合は殺さなければならないものと思いこんでいたのだということであった。
 これはアメリカの話であるが、今日の日本の世相とアメリカの辿ったそれを比較すれば、それは単に海の彼方の話とはすまされないであろう。日本の場合は自体はもっと深刻、かつ広範囲であるかも知れない。ただそういう調査が整っていないだけのことである。
 街頭補導でひっかかる子供の鞄やポケットから出て来るのは、教科書ならぬ「怪魔ロケット」「ゴーガンの館」「怪盗赤卍」「漫画科学忍術」「仙術を学ぶ」という題の漫画本である(以下補導員少年二課員)ことははっきりこの傾向を物語っている。
 大たい人間の本能的な要求というものは、これを合理化し、社会性を持たせることが大切なのだが、漫画となるといろいろ理屈をいっている暇がないので、本能的な行動を無批判に奨励しているような結果になる。しかもそれを読む子供に批判力がなく、つくる筆者に良心がないのだから、その影響や思うべしである。
 
漫画本欲しさに盗み
 
 漫画本は一体どうしてそんなに子供たちにとって魅力があるのだろう。それは「戦争中子供たちの世界は貧しく、学力が低下したため、いいものをうけつけない、そこで手っ取り早く漫画本、冒険小説ということになったのだ」(赤トンボ中華、藤田圭雄氏談)ということに大半は依存するのかも知れない。
 漫画本、漫画本、子供たちはヤッキになって読み漁る。なかにはこの漫画本を買うために親の金を盗みだすものもある。というのは漫画本は子供たちの間では貸し借りをするのがほとんどきまりである。あっちの子、こっちの子と取りかえっこをして読む。その時相手が三冊も五冊も持っているのに、親分が一冊しか持っていないと権利を失うからだ。
 子供の社会には子供の仁義があって漫画本を読みたいということより、漫画本の貸し借りをして子供の社会の仲間入りをすることの方が大切なことになってしまう。
「少年の犯罪のうち、窃盗が七八・八パーセントを占めているが、さらにこのうち漫画の万引きが六パーセントで、書籍のほとんど全部は赤本だ」(警視庁調査)という報告はこの事実を雄弁に裏書きしている。

「漫画の万引きが六パーセント」って、そんなに多くないのでは? 他にはどんなもの窃盗してたんですかね?

 
丹下左膳や怪盗○○流行
 
 さてこんなにしてまで子供たちが読みふけっている漫画本が、どんな内容のものかとのぞいてみると、これが身の毛もよだつような話なのである。中身が凄くて身の毛がよだつのではない。子供の将来を考えてみて身の毛のよだつ思いがするのである。
 一番こまるのは講談だね、ヤクザだねの漫画である。これからの子供はデモクラシーの原則を身につけて、世界の社会の一員として暮していかなければいけないのに、漫画本の中には水戸黄門や、柳生十兵衛や、忍術など時代錯誤のものが多い。なかにはバクチ打ちや、侠客などのヤクザものもある。これは今日の日本のボス制度、地下組織の問題と考え合せると、ぜひともなくさなければならないのに、研究所の調査によるとこういう漫画は全体の三割近くあって、しかも最近はますますふえる傾向にあるという。
「去年ぐらいまではこういうものはなかったのですが、日本の民主化が停滞してくるにつれて、多くなって来たのです、まったくよくしたものです」と漫画本を調査した児童文化関係者は話してくれた。
 編集部で浅草、上野、神田で約五十冊ほどを買い集めて調べてみたが、そのなかには例えば「江戸の花、火消しの三ちゃん」----い組の息子三ちゃんと、ろ組の息子竹松がケンカをしたため男同士のケンカになる。ろ組の頭の方が強く、い組の頭を殺したので、い組の頭の子が仇討ちをするという筋。「縄張り争い」「子供のツケ火」などが扱われたものや、講談だねでよく使われるのは「水戸黄門漫遊記」----助さん、格さんとの主従関係を扱っていながら「これからは民主主義でいこうよ」と黄門に言わせているのは苦笑ものだった。
 忍術使いでは、相変らず猿飛佐助が人気がある。「エノケンの猿飛佐助」エノケンが扮する猿飛が、徳川の狸親爺のかわりに本物の狸をつかまえてくるという筋。相変わらずドロンドロンの「火遁の術」などが飛び出す。「投げ縄のチビ八捕物帖」といった捕物帖ものも多い。大ていの漫画が勧善懲悪で、最後には善人が勝つことにはなっているが、子供にはかえって悪人の方が面白いことが多い。「丹下左膳謎の怪屋敷」にしても、左膳の家にあらわれる化け猫退治だが、化け猫が左膳を苦しめるのが面白く、「新魔鉄仮面最後の決闘」では「エンコの鉄」「ハンニャの政」など登場人物が非常に悪い。「オクラホマの決闘、怪人黒仮面」では、留置場に入れられた悪漢が、看守にワイロをやって逃げる場面があったりした。

「デモクラシーの原則」とか「日本の民主化」とか、言ってることがすごいですね! 水戸黄門は非デモクラシーだったのか。

 
原稿料は“買い取り”
 
 省線I駅西口、新興マーケット街の迷路を辿っていくとXという喫茶店がある。一見なんの変哲もないこの喫茶店の扉を開くと、中には満々としたタバコの煙。ベレー帽に、ほう製(?)の面々はいわずと知れた自称芸術家たちだ。この連中の中には三文画家がいる、美校生がいる。映画関係者も入っている。とにかく絵心を持っているという連中である。そこに一風変った人物が入ってくる。この人種には紳士風がある、商人風がある、貧相な親爺がある、太った親爺がある、バン持ちで彼らこそ、どこからともなく現れる子供赤本の企業者たちだ。
 取引が始まる。原稿はたいてい買切りの一万円。「紳士」のカバンから一万円の札束が渡されれば、もうそれきりの御縁で「紳士」はどこかへ消えさる。……漫画原稿はこのように普通他の童話集や少年小説のように印税ではなく、ほとんど全部が“買取りの原稿”になっている。普通六四頁ぐらいの本で最低二千円から最高三万円まで。もっとも赤本漫画の一流? では二、三十万の原稿料を払ったのもあるというが、これは例外だ。
 したがって無名の漫画家の中には月に四、五篇、多いのでは十二篇も描いており、筋も教育も、民主主義もあったものではない
 漫画出版のいわゆる玄人筋にいわせると、漫画集団なんというところに納っている連中に頼むんじゃ、間尺に合わない。第一、写真製版でないと駄目だとか、インキが悪いとか、いろいろやかましいし、またそういう御歴々は買取り原稿というわけにはいかない。印税一割を払うためには少くとも三万は刷らなければならない。そのうえペコペコ頭を下げて頼みにいくのも馬鹿馬鹿しくて……」と、うそぶくのである。
 その手取早い方法……まず原稿募集を夕刊紙あたりに出せば、二、三十は集まるし、紙芝居屋や学生アルバイトの売込みなどもやってくるので、原稿にはこと欠かないというのである。
 
住所のわからぬ発行所
 
 喫茶店の取引、原稿募集、買込みで原稿は集まるとして、一たい誰が、何処で発行するのだろうか。試みに赤本漫画の奥付けを見給え。そこには住所がないか、あるいは有っても実際に尋ねると決してそんな店など有りはしない。
 こういうヤミの発行所は全国に二千五百とも三千ともいわれるが、このうち、曲りなりにも数冊以上出版しているのは東京に六十軒、大阪に二十軒、その他合せても百軒とは上らない。大てい裏長屋か二階の間借り、表札を並べているのは良いほうで、社員の二、三人も使っているのは全国でまず十軒というところだろう。
 ちょっと面白い原稿が入ったから、安い紙が手に入ったからとかで、俄か作りの○○書房が奥付の上だけで、出来ては消え、消えては出来、まことに正体の掴めない状態だ。
 このような出版屋は三種類に分けることが出来る。一つは素人の濡れ手で粟式のやり方、第二は経営状態不良の出版社の内職、第三が印刷屋の内職だ。一番よく見られるのが第三で、京橋あたりの印刷屋で片手間の赤本作りにはチョイチョイぶっつかるものだ。大たい一月に一冊だせたら上々で、やはり品物がねると金廻りが悪くて困るようだ。

 どこまで本当なのか不明ですが、当時の状況などが面白いです。この後の記述はもっと面白い、というか興味深い。

 
原価は一冊十七、八円
 
 B6版六十四頁建、一色刷、表紙だけ四色といった本を一万部刷るとして、ちょっとソロバンをおいてみる
 原稿料はまず一万円、製版は「書き版」で二万円、紙はカストリ雑誌と同様センカ、それも六十キンセンカといわれるのが多く、一連三千五百円として一万部刷るには二十連いるから七万円。印刷屋の払いが七万円、しめて十七万円ということになる。つまり一冊十七円程度。これが一冊六十円、六十五円という定価になる。
 別に原価計算とか適正利潤とかややこしいことは抜き、主人一人の企業だから人件費もいらぬ、住所は奥付にないから取引高税もいらぬ、まことに儲け第一の仕事でる。ことに印刷屋の内職なら印刷費も実費で済むので原価は十五円を割るだろう。
 しかしながら出版屋は十七円の本を六十円で売れるのではない、小売店との間に日配か取次店があるのだ。一応名のある版元なら日配と小売店の両方を通過する。赤本の場合は取次店に頼むのだ。良心的な取次店なら、あまり俗悪な本は扱わない。ところがまた、俗悪な本ばかり扱う取次店もあるのだ。
 版元と取次店との電話で話は成立する。こういう場合、取次店への卸値は五・八掛から六・三掛くらいで、つまり定価六十円の本は三十五、六円で取次店へいくのだ。原価十七円との差、十八、九円が版元へ入る。この本は一万部刷ったのだから十八、九万円が発行所の儲け……といけばいいのだが、そうは問屋がおろさない。というのは原稿-製版-印刷-製本-発送-現金受取りの間に半年はかかり、取次店からの金はなかなか入らないからだ。ことに最近の金詰りで回転がずいぶん鈍く、六ヶ月で売れ切れたら上々。しかもそれが過ぎれば返本の山がつくというのだからなかなか大変だ。従来初版一万が常識だったが最近は五千ぐらいに下り、売れたらまた刷るという方法をとっている。
 日配がいよいよ閉鎖されるというので、新興取次店は誕生している。東京に六、七十軒の取次店が大たい三組合に分れているが、それぞれ特色を持って活動している。
 比較的やわらかいものを扱うT組合で、月に二回市を開き、その日の勘定は数百万円に上るという。普通の出版社からは、出版するとこういう取次店の組合に取扱いを頼む。しかし俗悪な漫画の場合などは取次店一軒一軒に直接交渉で取次を依頼する。組合を通じてはなかなか俗悪漫画など扱ってもらえないからだ。
 定価の六掛ほどで買った取次店は、これを小売店に六・八掛から七・二掛で売る。六十円の本なら四十円から四十二円くらいだ。取次店が買ったのは三十五、六円だから、儲けは一冊五、六円というところ…。

 …と、原価とか計算してます。「日配がいよいよ閉鎖される」というのは、GHQから「過度経済力集中排除法」(財閥解体のための法律ですかね)→「閉鎖機関令」の該当指定を受けて、1949年3月にあったことらしいです。日配というのは当時ほぼ独占的に全国の書店に本・雑誌を卸していた取次です。

 
子供を連れてロス市へ
 
 東京では御徒町、浅草橋、蔵前あたりが取次店の沢山あるところ。だから地方の小売店からは買出しの連中がここらに詰めかける。リュック一杯に本を詰め込み、黄色の大風呂敷に玩具を包んだ風体をこの辺りではよく見かける。この買出し部隊はよく子供を連れて出かける。子供の方が新刊ものによく注意してるし、大人と興味が違うからだ。
 金詰り、購買力の低下などから返本が多くなったこのごろ、倉庫を持たぬ版元は返本の山で金の回収ができないうえに場所を塞ぐので大弱りだ。そこで持て余した返本をツブシ屋に売る。そういうツブシ屋から縄で縛った一束(百冊)いくらで本として売れそうなのを買い取っていわゆる特価本といって主に地方農村に出るのが業者仲間のヤポン屋である。
 買取り屋でさばかれる漫画本は原価をちょっと上廻ったところ。六十円の本が二十円とはしないだろう。ところが取次店を経た正当ルートより、かえって売行き確実というところから版元から返本ならぬ新本を買取り屋用として印刷されている。ことに赤本の本場大阪あたりから送られてくるのが多く、運賃を払っても東京の出版元と対抗できるという話。第一版は正統ルートで、第二版以後は両方に託すという例も多い。
 買取り屋は今年になってから出現、いま東京で三十軒ばかりあるが、飴屋、荷物預り屋、テキヤの親分も交り一応まともなのは十二、三軒、上野、御徒町近辺に多くロス市場と呼ばれている。
 
どんなものが売れたか
 
 こうして出版される漫画本は一体どのくらい出ているのだろう。ある業者によれば、漫画の単行本は月に百五十である。だから年に千八百だ。それが一万ずつ刷るとしても千八百万冊、定価七、八十円で十二、三億円になる。このごろは一ころのように売れなくなった。一昨年の暮から去年の二、三月がヤマで、それ以後は素人出版もすたれ、既成出版も手堅い商いに傾いている。返本も最近は三割--四割とあって特価本も去年夏ごろから出はじめた。
 戦後よく売れたのでは「少年王者」(泰明社)で五十万、「新宝島」(育英出版)四十万、「黄金バット」(秋田書店)二十万、その他横井福次郎のターザンもの、宮尾しげを西遊記など十万台がつづいている。
 良心的な出版社は講談社、中村書店、鈴木仁成堂、東京漫画社、みどり社、金の星社鶴書房で、やはりいいものはよく売れるそうだ。こういうAクラスなら卸屋で二、三日、小売店で一ヶ月とは残らない。大阪ものはコスト安(東京で六十円なら五十円で出来る)と絵が子供向きなのでよく売れる。琵琶湖のほとりに大泉貸工場があることと、大阪がもとからマニラボール(表紙用原紙)の本場なこと、また映画に「怪傑ゾロ」が出るとすぐ同じ種目の漫画本を出すなど企画が巧みなのでなかなか足速いという。
 漫画新聞では、週刊漫画新聞が一番大きく十万を刷ったこともある。その他東京では科学冒険マンガタイムス、子東京、名古屋で中京漫画新聞、大阪で「コドモ大阪」があるが、みな経営不振で悩んでいる。雑誌では「マンガエホン」「コドモエホン」「マンガクラブ」などある。
 やはり一番うけるものは冒険もの、小学校五年----新制中学三年が読者層で、新制中学からの投稿が一番多い。なかにははるばる長野あたりから原稿を持ってくる中学生がいるが、そういうのはコンコンと諭して返している。戦争中の学力低下で、子供たちは読む本より見る本を好む。しかし漫画の「フキ出し」(説明)はなるべく多い方がいい。つまり子供たちは一つの漫画をゆっくり楽しむのだ。また漫画新聞など結構母親が愛読している模様で、まず親にとり入るために少し高級な読み物をつけているのもある。婦人雑誌の「お子様ページ」の逆をいくものである。
 漫画本が一番売れるのは正月で、夏から秋にかけてガタ落ちになる。それはプロ野球が始まり興味をそれに奪われるからであろうという。

 なんで大阪が赤本生産地になったのかとか、プロ野球が、とか、知らないこと書いてあります。

 
どうすればよいか
 
 このような赤本の氾濫も、大局的には子供の興味を中心に生れて来ているのだから、教育の大きな流れにそうていると楽観視している教育家もある。またこれまでは、日本の教育は、制度や形式の整備に忙しくて、学校や教育委員会にしても、子供漫画まではとても手が廻らなかったと正直に告白している教育委員もある。しかしこの問題は学校や教師や漫画家だけの問題ではなくして、むしろ親たちの問題なのだ。下谷のある俗悪漫画本の出版屋の主人は
うちの発行する本は絶対に家の子供には読まさないことにしてある
 といっていたが、この告白は味わうべきものだ。
 フランスやイギリスには、大人を対象とした風刺的な政治漫画は非常に多いが、無意味に子供を刺激したり、くすぐったりするような漫画はほとんど見当らない。
 子供たちにはその時々に古くからある美しい民話とか、有名な童話とかを、芸術味豊かな、しかも夢幻的な童心の世界を失わない絵で表現した絵本が与えられているという。
 なぜそうかというと、スイスの場合を例にとると、社会全体が自分たちの周囲の子供たちの教育には非常な関心を払っていて、もし童心を毒するような本が現れると、新聞をはじめあらゆる機関がこれに批判を加えて抹殺してしまう。これが決して、どこから強制されたものでもなく、世論として自発的に起ってくるところに、子供の教育に対する温い愛情と関心の深いことがわかる。
 ソヴエトにはロマンティックな絵本が豊富にある。芸術もまた思想性をもたねばならぬという精神は絵本の中でもはっきりと現れている。最近封切られたソ連漫画映画「セムシの仔馬」をみるとその間の事情がよくわかる。
 各国で一番漫画の多いのはアメリカだ。それは今日ではアメリカ人の生活の一部分ともいえよう、千九百四十八年六月のアメリカ広告協会の発表によると、アメリカの代表雑誌五十のうち、月刊の漫画雑誌がリーダーズ・ダイジェスト、ライフの二誌につづいて、ベスト・テン中三、五、六、七、九、十位を占め、タイム、ルック、コリヤーズ、アメリカン、コスモポリタンなどの大雑誌をはるかに引き離している事実、この五十冊のうちにはいっている代表的漫画雑誌の発行部数の総計だけでも、実に三千六百万部を越えるということは何よりもアメリカ漫画の占める地位を物語っている。もちろん漫画物語もスリラーもの、スーパーマン(超人)ものから子供漫画、家庭漫画にいたるまで数え切れないほどあり、俗悪はものも少くないが、根本を流れるものはクライム・ダズ・ノット・ペイ(Crime does not pay=悪は亡び、正義は栄える)の精神がはっきりしている。
 子供漫画では約一千万のティーンエイジャーの愛読者を持つといわれるベティー・ベッツの漫画、あるいは現在ティーンエイジャーはもちろん大人の間にも圧倒的な人気を持っているリル・アブナーという漫画などは、その明けっ放しの明るい楽しさがアメリカ人の人生観を最もよく代表しているが、使用されている言葉も主としてスピーキング・イングリッシュで、下品なスラングなどは用いてない。最近の報告によるとあくどい漫画に対してはP・T・Aが抗議したり、良心的な漫画家や出版社が組合をつくって自己検閲をやるようになったということだ。P・T・Aがここでは大きく働いている。P・T・Aといえばフランスでもやはり漫画本が悪くなったのに閉口して、今年の二月にこのひどい漫画本の展覧会をやって社会的に制裁を加えているということである。今のところ日本はそういう動きは見られない。
 赤本ハンランに悲鳴をあげた各学校のP・T・Aや母の会などからは、散発的に警視庁で取締ってくれと要求が出ているが、警視庁で出来る法規の範囲は刑法第百七十五條ワイセツ罪で取締るぐらいのところで、けっきょくP・T・Aなり一般ジャーナリズムの自発的運動と自覚を待つより他はないであろう。そういう意味で、子供の赤本は大人の日本人の一般的文化の反映かも知れない。(四・七 大阪にて 高治峰一(?))

 ソ連漫画映画(アニメ)『せむしの仔馬』(1947年)は、旧版はフィルムが痛んで現在は見ることはできないみたいです。
 ベティー・ベッツは『若い人のエティケット』(子供マンガ新聞社 1949)とかあるんだけど、よく分からない。「Betty Betz」で検索してみてください。

 
漫画家はこうみる
 
愛情の欠如が致命的 清水崑氏談
 赤本漫画は、昔大都映画で怪奇な世界を見せるだけで、芸術性の全然ないのがあったが、あれと全く同じだ。絵はまずいし汚い。表紙に骸骨の絵をつかったり、血が出ていたり、ピストルの弾がスポンスポン命中していたり、首をつっていたり、投げつけたりひどい暴力主義だ。読んだあと受ける感じは、昔田舎のドサ廻りの芝居を見たあとの、あのいやな感じである。全く暗い不快な感じであり、見られない。胸が悪くなってヘドが出そうになる。われわれはこういう漫画をどうしたらなくすることが出来るだろうかと相談したことがあるが、結局われわれがよい漫画を描くより仕方がないということになった。赤本漫画に描かれている絵はみなもう悪く固ってしまって、のびようのないのがほとんどである。なかには全くの素人もあるし、小さい時写し絵なんかやったと思われるのまである。最近小学生の三、四、五年生の漫画の懸賞募集の審査をしたが、その時の子供たちのものの方がずっとよかった。科学漫画などもはるかによかった。ああいう子供たちに描かせたらもっとよいものが出来るだろう。
 赤本漫画の共通の欠点は、良識のないことである。ユーモアがない。ロマンティックな夢もない。といってしっかりとした写実もない。ことに絵に愛情のないことは致命的だ
 
算盤主義を排せ 近藤日出造氏談
 低俗な子供漫画は大阪がもとである。大体大阪人というものがそういうものだ。売れて金さえもうかればそれでいいという恥知らずなのだ。その恥知らずのつくったのが、こういう赤本漫画だ。そして彼等はこれを見て喜んでいる。少し絵画的な目を以ってすれば見るに堪えるものじゃない。絵というようなものじゃない。
 切った、張ったも出てきていい。その芯にヒューマニズムがあれば、子供はまだそれによって楽しみながら教育されていく。しかしそういうのを描くには相当しっかりした頭脳がなければ出来ることじゃない。科学漫画の荒唐無稽も一種のロマンだからいいが、やはりそれには必然性が無いのではロマンでもなんでもない。またこれらの本をえらぶ親がなっていない。趣味も教養もない親がえらぶのだから見ていておかしい。親は分厚で派手で値の安いのを探している。内容の良し悪しなどは問題じゃない、こういうものが一番売れるということからみても、この頃の世論というものが信ぜられないのだ。赤本が売れて法隆寺が焼ける。それが今の日本文化の姿だ。
 
空想に納得がいかない 横山隆一氏談
 赤本漫画はすべて真似で出来ている。外国漫画や、日本漫画で名のある雑誌に出たのを真似している。ガリバーは小人島へ行くというアイディアがいい。こういうような人の苦労して考えたのをとって描いている。だから構図も盗っているが、絵そのものは全然違い品などは少しもない。子供の喜びそうなくすぐりばかりだ。顔などはどれを見てもグロテスクなものばかりだ。肝心な主人公の顔がとんでもないグロテスクである。
 科学漫画など、絶対不可能となると電気をかけたり、薬を飲んで急に強くなる。強くなるのはいいが、その出方が全然納得がいかないのだ。空想でもみんな納得のいくものならいい、しかしそれがないのだ。
 赤本漫画を描く人の画力は小学校程度である。誰にでも描ける。時には絵に心得のある本当の親爺が描いたかと思われるのがある。
 漫画家は料理にたとえればコックのようなものである。材料が新鮮であるか、おいしいか、よく吟味しなければならない。それが赤本漫画家となるとちょっとも吟味しない。くさっていようが色つけに有害な薬品だろうが使う。要するに子供が見た目に喜びさえすればいいのだ。
 赤本漫画は昔は駄菓子屋か縁日の露店にあったものだが、今では大きな本屋にまで出ている。大きな本屋など、こんな本など扱わぬようにしてもらいたいものだ。

 …赤本漫画全盛時代の元気が、ある意味うらやましいです。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク
 

悪書追放運動に関する手塚治虫の1969年における回想

 元本は手塚治虫『ぼくはマンガ家』(毎日新聞社・1969)なんだけど、手に入らなかったので復刊本(毎日ワンズ・2009)から。この本は他にも数社から出ているんだけど、異本全部確認できない。書名だけ刊行順に並べておきます。
毎日新聞社 1969
・大和書房 1979(「手塚治虫自伝 1」という副題あり)
・大和書房 1988(「新装版 : 手塚治虫自伝 1」との表記あり)
角川書店 2000 (角川文庫)
・毎日ワンズ 2009
 だいたい10年ごとに出直してますね電子書籍になるとどうなるんだろう。
 それはともかく、引用ページはp187-192

PTAよ、ゲバルトを!
 
 S社の編集長のN氏は、早大文学部出身のサルトル信者で、骨の太い編集方針を打ちだして誰からも尊敬されていた。このN氏が、あるとき、ぼくに、手塚ワンマン劇場みたいなものを月刊誌の別冊に毎月つけたらどうかと思うが、描く気はあるかと、訊いてきた。もちろん、ぼくは、ファイトを燃やし、「ライオンブックス」と銘打って読み切り漫画を毎月三十ページ前後ずつ描いた。ここぞ腕の見せどころだったが、同時にぼくの悪質な欠点を総花的にぶちまける結果となった。つまり、締め切りを極端に遅らせるは、描いている途中で行方不明になるは、映画へは黙って行くは、代筆者に任せるは----。
 その結果、一年足らずでこの試みは中止になった。まず、なによりも読者の反響があまりよくないことであった。そのころ「赤胴鈴之助」がラジオ放送と共に、グッと人気を上げてきたときでもあり、五味康祐氏、柴田錬三郎氏の小説などと共に“剣豪もの”がアピールしだした時代でもあったので、まだろくに読者もいないSFものなどを毎月描いたのでは、一般の子供は敬遠して飛びつかないのも当然と言えよう。「緑の猫」「白骨船長」「狂った国境」「複眼魔人」「くろい宇宙線」といったSF短編は、ほとんど話題にもならず忘れられていった。
 一年ほどたったある日、N氏がぼくに、
手塚さん、売れてますよ、あなたの『ライオンブックス』が!
 と言った。いまごろなにごとだと、けげんな気持ちでよく訊いてみると、
「盛り場の大道で、ゾッキ本を売ってるんです。うちの返本もゾッキに出ていて、『ライオンブックス』もあったんだ。そいつが、またたく間に売れちまった」
 どうせ、そうでしょう、ゾッキ本で売れりゃ結構でさ、とぼくは内心フテクサレた。
 だが、このシリーズは、七、八年たってから再評価され始め、ことにSF関係者には、このシリーズによってSFに目覚めたという人が多いと知ったので、ぼくはやっと面目をとりもどした。
 ところで、このシリーズのうちの「複眼魔人」という物語の中で、たまたま何の気もなく男装の麗人を登場させ、彼女が個室に閉じこもって着替えるシーンを描いた。さーっとスラックスを脱ぐ、もちろん絵は臑から下である。またもやN氏が飛んできた。
「弱っちまった。Iデパートで、うちの本が不売の宣告を受けちまいましたよ」
「売らないんですか? どうして?」
「それが、言いにくいんだが、どうも----手塚さんの例の絵が問題になりましてね、ひっかかったらしい」
 Iデパートの書籍売場には、評論家や児童文学者でつくられた良書推薦委員会のようなものがあり、ここで「悪書」の烙印を押されると、たとえ有名出版社のものでも、槍玉に上がるのだった。
「そんなばかな!」
 と、抗議したが、はじまらない。とうとう、Iデパートには、その本は出なかった。
“悪書追放”は、主に青年向きの三流雑誌が対象だったが、やがて矛先が子供漫画に向けられてきた。それがどうも、さっぱり要領を得ないつるし上げであった。たまたま、アメリカのジャーナリスト、A・E・カーン氏が「死のゲーム」という本を出し、日本にも紹介された。それによると、
「漫画の影響は冷たい戦争の必要によく合致している。なぜならば、何百万というアメリカの子供たちを、暴力・蛮行・突然死という概念に慣らしているからである」
 と言うのだが、それは、たしかに同意できるとしても、PTAや教育者の子供漫画のいびり方は、まるで重箱の隅をせせるようなやり方であった。
「一ページの中にピストルが十丁、自動小銃が二丁も出てきた」
「文字がほとんどない。あるのは、ヤーッ、キェーッ、ドカーンといった音や、悲鳴ばかりである。これでは、読書教育上まったく有害無益である」
「絵が低俗で、色も赤っぽい。こういうものを見せられた子どもは、芸術感覚が麻痺し、情操が荒廃する
「うちの子供は、漫画の××××を読んでそのセリフを真似し、主人公になったつもりでへんな遊びをします」
「漫画は退廃的だ。追放せよ」
「漫画を子供からとりあげ、良い本を与えよう」
「漫画を出している出版社に抗議文を手渡し、漫画家に反省を求めよう」
 これらの論旨は、いちいちごもっともである。だが、なにか根本的な問題の検討が欠けている。それは、現象面のさまざまな批判より、「なぜ子供は漫画を見るのか?」という本質的な問題提起である。しかも、それは戦後、アメリカや資本主義国家だけでなく、ソ連などにも通用する傾向である。
「なぜ、子供は、それほど漫画が好きなのだろうか?」
 ついに岡山のPTAでは、エロ雑誌などと共に漫画本が、火で焼かれた。魔女裁判のような判決であった。全国的に漫画批判運動が活発化し、不買同盟や自粛要求が呼びかわされ、とうとう、児漫長屋(注:手塚治虫が参加していた漫画創作集団)は総員が集会を開いて、対策を話し合った。だが、お互いに「良い漫画を描くよりしかたがない」とは話し合っても、その具体的方法がわからない。いったい、「良い漫画」とはなんなのか? それは、父兄や教育者にとって良い漫画なのか? それとも子供にとってなのか? もしくは、父兄や教育者に、それでは「真に良い漫画」を選ぶ権利や方法論があるのか?
赤胴鈴之助」が良い漫画だ、と言う奥さんが多かった。理由を訊くと、赤胴鈴之助」は親孝行だから、と言うのである。こんな理由で漫画をより分けられてはたまらない。第一、そういう奥さんに訊いてみると、「『赤胴鈴之助』以外はよく知りません」と答える。その「赤胴」すらも漫画は読まずに、ラジオで知ったのだという。
 こういう人たちが、口角泡を飛ばして漫画がどうのこうのと言うのを、黙って聞かなくてはならないのはやりきれない。したがって、一ページにピストルが何丁という程度の資料しか出てこないのだ。
 ときには、親や先生や評論家が口を揃えて、「これはまことに良い漫画だ。すすんで子供に読ませたい」という漫画が出た。だが、結果はさんざんだった。子供はそっぽを向き、返本の山で、出版社は二度とそんなものに手を出さなくなった。
 この矛盾----そして、漫画はとりあげられても焼かれても、子供がどこからかひっぱり出してきては、こっそり隠れて読む現実----。
 おとなと子供の隔壁を、これほど如実に証明したものはなかった。おとなは、あきらめから驚嘆のムードとなり、
「子供がこんなに漫画を好くのならしかたがない」
 というあきらめから、
「勉強にさしつかえない程度、おやつとして見せるくらいなら、まあいいだろう」
 という向きまで現われた。
 これが昭和三十五、六年ごろである。
 このムードは、若手漫画家たちの絶好のチャンスだった。
 どぎついアクションものや、少女恋愛もの、残酷ものが、誰はばかることなく堰を切ってどっと出回った。
 だが、このころには、正面切って、おいそれと非難するおとなはいなかった。中に、どんなものかと読んでみる人がいる。するとなかなかにおもしろい。
「むすこの読んでいる漫画をとりあげて、ちょっと覗いたんだが、結構読ませるじゃあないか。おれたちが読んでもおもしろいよ、うん」
 と喜んでしまって、子供漫画をおとなのほうがおもしろがるといったおかしな現象が起きた。
 いまでは、おとなが子供漫画を「芸術論」風に分析したり、批評したりして喜んでいる向きもある。おとなが子供のおもちゃをとりあげたように。
 それを思うと、昭和三十年当時は、まったく厳しかった。あわてふためいて、いわゆる「良心的漫画」を描こうとし、子供からそっぽを向かれて、消えてしまった仲間がずいぶんいる。
 ぼくは、現在こそ、野放しの漫画が非難され、弾劾されるべき時期だと思うのだが、あの当時の鼻息の荒い連中はどこへ行ってしまったのだろうか? まるでコウモリのように、言を翻して漫画の効用を述べる人たちなど、子供を守る強い意志があるのだろうか? ぼくらは、なまじ子供漫画芸術論をふりかざして擁護してもらうより、いま一度、子供漫画のルネッサンスを期待して、徹底した批判を受けたい
「世の父兄よ! 教育者よ! 漫画を糾弾せよ! いまこそ、ゲバルトの必要なときだ!

 …ごめん、ラストの一文、何を言ってるのかよく分からない。ゲバルト=Gewalt=「暴力」を意味するドイツ語、なんだけど、1960年代末には別の意味もあったですかね。
「S社の編集長のN氏」って、ライオンブックスは1956-57年連載なんで、多分集英社の少年ジャンプ初代編集長の長野規氏かな? でも長野氏、ウィキペディアによると早稲田の政治経済学部卒だから違うかも。ジャンプ編集長、3代続けてN氏なんですが(余談)。
 さらに、手塚治虫・漫画業界が言われたとされること(「一ページの中にピストルが十丁」云々)の原典が分からない
 日本で最初に漫画を焼いた(焚書)は「岡山のPTA」ということが、手塚治虫のこの本を出所にあちこちで言及されているみたいだけど、「いつ」「どこで」「どんな本が」焼かれたのか、とんと分からない(岡山の地方新聞読まないと駄目? 超難儀!)。「焚書」に関しては、いくつかの記録(新聞記事)はあるんですが、その3つが分かるテキストなかなか見つからない。ぼく自身は「どんな本が」というのがとても知りたいのだけれど、未だにそれに関する資料が見つからない。ネット上では「校庭で」燃した、という伝聞情報もあるんだけど、どこの小学校で、どういう団体なのか皆目不明
悪書追放運動/ 同人用語の基礎知識

 前後して、1955年2月27日投票 第27回衆議院選挙、1956年7月8日投票 第4回参議院選挙の選挙戦では、一部の女性らが小学校の校庭にマンガ本を積み上げ、手塚治虫らの漫画本に火をつけて燃やすパフォーマンスを展開、焚書だとして大きな社会問題になります。

 なお1955年、『鉄腕アトム』も燃やされた、という記述が一部に見られますが、『鉄腕アトム』の単行本はその時点では存在していません。1956年6月に初単行本なんで、1956年にはちょうど燃やし時かもしれないけど。1955年に焚書にされた可能性が高いのは、「少年」1955年1月号付録「電光人間の巻」かな? 石森章太郎石ノ森章太郎)ががしがし自分の絵で描いたという有名な奴。
 孫引用だけど、『マンガ家入門』(秋田書店・1965年)より
トキワ荘物語その34 - 大川瀬萬画倶楽部 トキワ荘の漫画家の大好きな方集まれ

ぼくは高校生です。夏休みは間近で、期末試験がすぐ目の前にせまっていました。

 正月の付録を7月ごろに描くなんて、ずいぶん早くね? 雑誌発売は年末(1954年末)だとしても。
 なお、ぼく自身は「校庭で漫画を焼いた」というのは都市伝説なんじゃないかと思います。どこかで誰かが漫画本を含む俗悪本・雑誌を燃やしたのは多分本当。
「悪書追放運動」の「焚書」に関しては、個人的には関係者の証言を求めたいぐらいの勢い。1955年当時20代だったお母さんは今80代なんで、かろうじて生きてると思う。
「ラジオで知ったという「赤胴鈴之助」が良い漫画だ、と言う奥さん」も本当にいたんですかね? 手塚治虫氏の証言はいちいち裏取っていかないといけない気がしてしょうがない。
 A・E・カーン氏の『死のゲーム』に関しては、またあとで言及するかもしれない。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク
 

1956年7月当時の「漫画」に対する近藤日出造の意見

 これは以下の日記の関連テキストです。
1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)について
 
 中央公論1956年7月号に掲載(多分雑誌が出たのはそれより一月ぐらい前)された「子供漫画を斬る 近藤日出造」というテキストなんですが…。ぼくの感想はあとで述べます。
 1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)より1年経って、少し落ち着いてきたころですかね。

子供漫画を斬る 近藤日出造
 
 僕の子供の一番小さいのは小学四年生で、彼は、親父の仕事に全然興味を感じていない。
 しかし、子供というものは、自分の父親を「えらい人」だと思いたがるのであって、彼は、まったく「つまらない漫画を描くお父さん」を「えらく」思いたがることの、精神的あつれきを覚えている様子だ。「お父さんはとてもえらいんでしょ?」と、彼がしばしば母親に訊くのは、このあつれきがあるからで、僕という漫画家が、悪漢探偵ナンジャモンジャ博士火星探検アリャランコリャランウヘットホホホ、といった工台の子供漫画でめしを食っているならば、彼は、何の抵抗も感ぜず「お父さんはえらい人」と思うにちがいない。
 ところで、政治漫画などを「大人芸」と考え、それによってめしを食う自分を、悪漢探偵ナンジャモンジャ輩よりは「えらい」と考える兆しが、僕自身にあった。子供の本棚が悪漢探偵ナンジャモンジャによって埋められているのを知ったとき、「素人衆」よりはずっとずっと暗然とし、はげしい口調で「こんな下らないものばかり見るんじゃないッ、上品なタメになるものを買いなさい!」と子供をにらめつけたのは、僕のその思い上がりの発散である。
 しかし、それは何の効果もなかった。彼は小遣銭を貰うと、相変らず悪漢探偵ナンジャモンジャの類いを買い込み、キンチャク頭をその赤本にこすりつけるようにして耽読し、やがて、近所の友達を誘い集め、「テヘッ」「ギャーッ」と、くだんの赤本の内容を早速遊びで実践して、「充ち足りた」よろこびを味わうのだった。このことは、親として、大人として、真剣に考えてみなければならないことである。なぜならば、そのような悪漢探偵ナンジャモンジャ漫画は、明かに下品ではっきりとタメにならないからだ。子供によっては、かなりの害毒を被るだろうからだ。
 下品なものは見るな、タメになるものを買え、と自分の子供をたしなめた僕は、ついに何の効果もなしとサジを投げるまでには、もちろん積極的な努力をこころみてみた。
 僕には教育上の一つの持論がある。「わかってもわからなくても、いいものばかり見せろ、聴かせろ、読ませろ」という持論だ。この持論は、大ていの人に納得される。松本市でバイオリンの天才教育をやっている鈴木氏は、物心つくかつかないかの幼児に、バッハやベートウベンやショパンマーラーを日々聴かせ、炭鉱節や芸者ワルツから絶縁させておくと、やがてその子は、本格的な音楽に猛烈な関心を抱くとともに、低級なものは受けつけない筋金を持ち、チョイナチョイナともアラエッサッサともいわない教養児になる。音楽による情操教育とは、まずいい音楽をやたら聴かせ、悪い音に対するツンボをつくることだ……と僕に語り「賛成!」とさしのべた僕の手を、強く握った。
 ある高級料理店の板前が、僕にこういった。
「板前の給金が高いのは当り前ですよ。私らヒマさえあれば、うまいといわれる名代の料理食い歩くんですからね、モトがかかるんです、私らにゃ。とにかくうまいものを食い漁る以外に私らの勉強はありませんね。うまいもの食い漁ってると、不味いもの口に入らなくなる。こうなったらしめたもんで、もう不味いもの自分がつくりっこないんですよ」
 つまり、その板前にとって「まずいもの」はチョイナチョイナのアラエッサッサなのである。この話も、僕の持論を裏づけるものである。
 持論の裏づけとしてここに持ち出すのは不穏当かも知れないが、ある花柳界へ仕事の取材に行ったとき、高給置屋のおかみさんが、こんなことをいった。
「芸者衆もね、はじめてこの世界へ入ったときは、田舎っぺの山出しで、おさんどんみたいなもんですよ。そらァもう、最初っからイキだの粋だのスマートだのっての、いやしませんよ。それがどうして間もなくイキでスマートになるかってますと、何しろあなた、この世界へ入ったら、右を向いても左を向いても、みんなきれいでイキでしょ。そういっちゃ何ですが、裏長屋のねえちゃんみたいなのいないでしょ。ですからね、私たちがああしろこうしろとうるさくいう必要ないんです。きれいな妓たちの中へ放ったらかしとけば、見よう見真似で天然自然と上手なお化粧も覚える、着物の衿の合せかげんも覚える……そういったものなんですよ。何てますか、それが一番いい教育方法なんですね」
 書画の鑑定人のもっとも大切な仕事は、ほんものをより数多く見ることだときいている。ほんものをしょっちゅう見ていれば、ニセモノに接した場合、プーンと悪臭が感じられるのだそうで、このこともまた、僕の持論を裏づける。
 自分の持論に、このように酔いしれていた僕は、悪しき漫画を好む自分の小倅の廻りに「いい本」「タメになる本」を積み重ねてやるという、積極的な努力をこころみた。そしてその努力は、まったく実を結ばなかった。持論は、この身近な例証によって、はかなく崩れ去らんとしている。
 こうした場面に立至っても、長く護持した持論を捨て去るに忍びず、小倅にこうきいてみたのである。
「お父さんが買ってやったこの本を読まないで、なぜ漫画の本ばかり見ているの?」
 小倅は、斜めに僕を見上げていった。
だって、つまンないんだもの
 子供にとって、「いい」ということは、「面白い」ということなのだ、とこの時はじめて僕は悟った。
 松本市の天才音楽教育の場合も、このことが当っているのだ。バッハやベートウベンやショパンマーラーは、「作品何番」といわざるを得ない、いわゆる「題」をつけられない純粋な曲を生み出した。その純粋な曲は、幼児の耳にもこころよい。そして、チョイナチョイナのアラエッサッサは、曲よりも文句をきかせるもので、幼児の耳は受けつけない。つまり幼児には、チョイナチョイナよりバッハの「作品何番」の方が「面白い」のである。すなわち子供に与えるものは、面白いということが絶対条件となる。われわれ大人が「いいもの」「タメになるもの」と考えている本や雑誌が、「悪いもの」「害毒がある」と思われている漫画に敗北を喫するのは、僕の子供の場合に限られたことではあるまい。
「よくない」子供漫画がますますはんらんし月刊子供雑誌など、全ページの何十パーセントをこれで埋めるばかりか、別冊の付録をほとんど漫画ものにしている事実は、大多数の子供が僕の子供同様である証拠だ。PTAの優秀メンバーなどが憂える子供向きの「俗悪低級本」というのは、ほとんど子供が「無条件」によろこぶ漫画本を指している。
 その言葉をきくとどうも僕は味気なくもくすぐったくなるのだが、「程度の低い」母親連は、「よい子」という言葉が大好きで、俗悪低級漫画本を「よい子」の敵と見なし、不買同盟をつくったりした。俗悪低級漫画本は、十分に不買同盟に値する「悪いもの」だから賢母たちの金切声はかなりの効果を見せ、一時は出版社の自粛から巷の本屋に並ぶ漫画本の数が、大分少くなった様子だったが、発売の目的は文化に非ずして儲けだ、と悟った出版社は、自粛というものの割の悪さをガク然と痛感して、最近はまた旧に倍する俗悪低級漫画本の増産に励んでいる。売れるから儲かる、儲かるから増産に励む、何の不思議もない商業の本道である。
 なぜ売れるか。
 くりかえしていうが、子供にとって面白いからだ。
 もちろん、巷にはんらんする子供向きの漫画の大部分は、画技稚拙、内容デタラメ、漫画本来の面白さなどほとんど見られない粗末な品物だが、その粗品にして尚且つ子供に迎えられ、「よい子」の母親たちを歎かせているということは、漫画以外の「上品」で「タメになる」子供用の読み物が、子供にとっては、ケタはずれにつまらないのだろう。
 =秋になりました。木の葉がハラハラとちります。風が吹きました。ちった木の葉がコロコロところがります。ころがる葉を、ポチがおいかけました=
 ざっとまアこんなあんばいの文章に、文字通り木の葉を追う犬の絵が描いてある。こういったあんばいのものは「よい子」の母たちに上品さと詩情を感じさせ、この絵本こそ、愛児の座右にそなえて然るべし、と思うだろうけれど、愛児は、これを見て、「なアんだ、つまンない」とつぶやくだけである。
 =鯉のぼりはおなかがすいてだらりとしていました。さわやかな青葉の上を吹く風を、早くおなかいっぱい食べたいな、と思いました。
 やがて、待ち遠しかった風が、花の香りや木の芽のにおいのソースをかけて、吹いてきました。
 鯉のぼりは、大きな口をあけて、その風をたらふく食べました。空に元気にひるがえった鯉のぼりは、いつまで風を食べつづけるのでしょう=
 たとえばこんな文章があり、イラカの上に重なって靡く鯉のぼりの絵があったとすると、やはり「よい子」の母親は、家計簿に、文化費-百五十円と書き込むことだろう。
 しかし、こうした文章と絵は、幼い眼に当節の複雑怪奇さを長め、拙い耳に破壊音をきく子供に、決してゾクゾクとするようなスリルを感じさせない。
 子供は、木の葉を追った犬が、とんでもない失敗をやらかすことを期待する。鯉のぼりが風を食って靡いただけでは、本を放り出して「ボクもごはんを食べよう」と思うだけのことである。
「よい子」好きの大人たちがつくり出す「よい本」は、多かれ少かれこういった調子のものだった。詩と真実はあっても、子供を本当に喜ばせる「案」がなかった。「うちのように品よく育てた子供にはこういう上品なものでなければ」と考える、親の「ざァます的教養ごっこ」が勝ちすぎていた。
 つまり、低俗漫画本を征伐するための高級ものは、大人の童心と郷愁を満足させるだけのもので、「事件屋」の子供たちには、一向にピンとこなかったのである。
 本来「事件屋」の子供は、高級ものの物語り性の少なさにあいそをつかす。高級童話の登場人物の立派さに退くつする。「事件屋」の子供にはファシストの根があり、むやみと平和好みの主人公が現われて、正しい行いをし正しい言説を吐く「進歩的童話」を、てんで面白くないな、と思う。正しい言説は、親の口からガミガミいわれるだけでたくさんだ、という気持もあるからだろう。
 こういったからとて、僕が子供の心に滞在するファシストの根を是認し、平和主義に反対を唱えているわけではなく、僕はただ、事実を述べているだけのはなしだ。高級で進歩的な子供雑誌が、次々と出て次々と廃刊されたのは、この間の消息を物語る。もっとも子供を愛する編集者が、もっとも子供ごころを知らなかったというのは、皮肉だった。
 また、次のような事柄もある。
 ある著名な児童研究家が僕に語ったのだが「童話作家には子供ぎらいが多いんですよ。特に進歩的童話作家にはね。子供が何を好むか、子供ごころとはどういうものかということが、子供ぎらいだから掴めない。そうして彼らは、作家仲間だけで、いわゆるクソリアリズムを論じ合い、大変勉強したと思ってるんですね。
 子供に好まれる筋道の立て方というより、これは反動だ、これは進歩的だが問題になるんです。もちろん進歩的でなければいけないけれど、それをどういう筋でどう発展させ、どんな表現をしたら子供が喜んで読むか、という、一番大切な研究と能力が足らない。ですからね、漫画を目のカタキにして、有害だ愚劣だといってばかりいないで、子供が一番好む漫画の手法を、進歩的童話で生かしてみるぐらいの気になればいいと思うんですよ
 酒は身心によくない……世界的定説である。しかし、身心にいいもので、酒にかわるべきものがなかった。現在の日本の子供にとって、俗悪低級漫画は酒だった。
 子供漫画という酒のもっとも忌むべき点はその大部分が、絵画技術という、「味」において、レベル以下であることだ
 しかし呑ンべえは、ほかにうまいものがないとなると、医学用アルコールでも飲む。子供漫画という酒の大部分は、子供に非常な悪酔をさせる。やがて子供は、アル中となり、正業にたえられなくなる。
 子供漫画特有の「吹き出し」文句は、タハッテヘッといった風のもので、このタハッテヘッの中毒に罹ると、正業……つまりまともな文章を読むことがおっくうになる
 だから僕は「ほかに面白いものがない」今の日本において、俗悪低級漫画が圧倒的にうけるいわれを十分に納得しながら、その害毒を、P・T・A有力者の如く恐れている
 むろん、漫画家である僕が、出来のいい子供漫画までを無益有害と考える筈はない。俗悪低級漫画ですら、そのために一生をあやまった話はまだきかないし、チャンバラ映画で育ったわれわれ年配の者が、再軍備絶対反対を唱えたりしているのだから、タハッでもテヘッでも、月世界ムチャクチャ探検話でも読んだ子供をムチャクチャにするほどの「偉力」は持たないかも知れないが、やはりムチャクチャなものは、ムチャクチャなるが故に有害なりと考えるのが、常識というものだ
 この常識を持つと「ムチャクチャだから子供が喜ぶ」ともいっていられない。そして、発行部数の点で「一流」といわれる子供雑誌が、厖大なページを漫画で埋めていることを「結構だ」ともいっていられない。
 そこで、二、三の子供雑誌の、実に嫌いな言葉でいうと、漫画の在り方について調べてみた。次のような在り方だった。
 まず、『少年クラブ』六月号。講談社発行。
 表紙に、別冊まんが五大ふろくと銘打ち、次のように刷り込んである。
(1)西郷どん (2)木曾義仲 (3)黄金バット (4)黒帯大四郎 (5)怪傑やまどり剣士
 この文字を見ただけで、幼い世界には社会党クソ喰えとばかり、右翼的な風が吹いていることがわかる。本誌を開くと、全篇を義経、秀吉、野球選手、力士、怪少年などの絵が乱舞して、オール戦い絵巻。その間に連載漫画が点々とはさまっているのだが、二百ページほどの本誌のうち、漫画が七十余ページ。別冊まんが五大ふろくが、各々五十ページほどだから、計二百五十ページで……そのボリウムからいうと、何のことはない、『少年クラブ』は少年漫画雑誌だ
 大人の漫画雑誌が存在するのだから、子供の漫画雑誌があたって少しも差支えないけれど、その厖大な量の漫画の質が、大人の眼で見るとあんまりひどすぎる。絵がレベルをぐっと下廻り、内容がどれもこれも殺伐で、僕のように絵が下手で頭の古い人間が、ちょっと思い上がって無遠慮にいえば、これらの作者といっしょくたにして「漫画家」と呼ばれることが、腹立たしいほどだ
 特に、本誌「鳴門の獅子丸」「出世だんご山」などの絵のひどさ講談社という老舗の資力と実績をもってすれば、いくらでもちゃんとした粒を揃えることができる筈だが、その老舗の経験が「このひどさ故に売れる」という結論を生んだものとすれば、獅子丸もだんご山も、西郷どんも黒帯大四郎も、大助くんも少年武蔵坊も、木曾義仲もやまどり剣士も、安心して誌面に暴力をふるいつづけられる。論より証拠=おそるべき柔道の天才少年あらわる……。次号からの大助くんの活躍をご期待くだしさい=だの、=少クがきて、まっさきによむのが、この獅子丸です。次号がまちどおしくてたまりません=などの謳い文句が漫画の傍に書いてある。
 伝統ある『少年クラブ』が漫画雑誌の観を呈してきたのは、殊によると、堂々と漫画を謳った『漫画王』なる雑誌が現われ、相当の売行きを見せていることなどによるものかも知れない。子供雑誌の場合、伝統も漫画に食われる。子供は、伝統に気を使うほど「不正直」ではない。
『漫画王』は、秋田書店の発行だ。雑誌の体裁は、『少年クラブ』とほとんど同じようなもので、これまた六月号の表紙に付録の数を誇っている。
 曰く、宮本武蔵大江戸の巻、曰く一二の三太、曰く、大あばれ京都篇近藤勇、曰く、大長篇竹光一万流、曰く、決戦まぼろし城、曰く、黄金剣士。このうち一二の三太だけが現代物だが、これが人をとっては投げとっては投げる豪傑で、つまり六冊の別冊付録悉くが喧嘩暴力抜く手は見せぬといった態のもの
 本誌は、これも三分の二が漫画で、「青空くん」というのを見ると「やっちまえーっ」「やれっ!! 山犬」「うおーっ」「むっ!」「おーら!」「このやろう!」「おーりゃっ!」「へへへへ」「くくく」「りゃ!?」「だあっ」などの吹き出しが全篇にちらばって、子供をゾクゾクさせる仕かけになっている。
「アンパン放射能」という漫画は、一見頭がクラクラッとするほど惨たんたる絵だ。しかし、アンパン放射能という題は、インデアンを出没させた内容と相俟って、やはり子供をニコニコゾクゾクさせる。たとえそのインデアンが、案山子の頭に羽根をつけたような頼りない描き方でも。
 この雑誌の表紙裏から、手塚治虫の「ぼくのそんごくう」という多色刷漫画がはじまり、七ページを埋めている。
 その画法が、アメリカ日曜新聞の冒険漫画の亜流を行ったようなものでも、さすが格段の腕前で、この程度の絵が揃っていればP・T・Aの有力者も、目くじら立てて漫画の追放を企むこともあるまい。しかし、その手塚治虫が、この頃しきりに大人漫画への進出を志し、今のところ「絵の点」での力量不足のため、進出思うにまかせず、との噂をきく。
 一応「大人漫画家」で通っている絵の下手糞な僕が、こうした噂を伝えるのはどうかとも思われるが、僕は、この噂を伝えることにより、一般の子供漫画家というものが、いかに箸にも棒にもかからない粗末な「絵描き」であるかをいいたかったのだ。
 雑誌『漫画王』も、『少年クラブ』同様、全然暴力肯定右翼雑誌で、子供の心にひそむファシズムに迎合している。僕はこういう雑誌編集者の顔を見たいと思うと共に、その胸中を気の毒に思う。彼らは悪太郎の召使だ。
『冒険王』という名前の雑誌も、『少年クラブ』『漫画王』と、まったく同体裁のもので、この六月号の表紙には、豪華別冊五大ふろく、ハリケーン太郎、はやぶさ頭巾、少年四天王、ガッチリくん、熱球珠太、と出ている。
 本誌はこれまた半分ほどが切ったりハったり蹴飛ばしたりの漫画で、漫画以外のものもほとんど切ったりハったり。目次を見ると二十三ほどの読み物のうち、十七ほどが、血なまぐさい題名だ。
 曰く、暗黒十字星、熱血鉄仮面、K2帝国、鉄腕リキヤ、三日月剣士、風雲の剣児、清水次郎長、ひよどり天兵、半月拳四郎、千葉の小天狗、等々。『冒険王』の本誌と付録数百ページを片っ端からめくって、剣戟か殴り合いか蹴っとばしの場面のないページを発見するのは、非常な困難である。だからこそ、これを見る子供は「一ページも無駄のない面白い本だ」と思う。
 これらの雑誌の漫画には、作品が全然チンプンカンプンの頭脳の持主故、筋の進行発展その他に、小さな子供の常識をさえ無視したデタラメさがある。そのデタラメさが、子供たちに、「筋を知らない映画を見るような」はかり知れない期待を持たせる。まったく、何がしあわせになるかわかったものではない。
 事柄の首尾がデタラメで、しかも全ページ、切ったりハったり殴ったりの殺伐さというところに、われわれ人の子の親は、愛児への害毒を感ぜざるを得ない。
 親には俗悪低級漫画本を「実力をもって」追い払う「いいもの」の出現を望んでいる。
 大人は今まで「いいもの」の解釈を間違えていた。大人の世界には「難解で面白くない文章ほど高級なもの」と考える迷信が存在し、難解な文章の書けない僕などは何かと尊敬されないのであるが、子供の世界には、そうした迷信がない。子供は正直だ、といわれる所以である。正直者は、浮気だった。秋になりました、木の葉が散ります、といったような「凡々たる女」に魅力を持ちつづけなかった。「漫画という面白い女」に、彼らの気がうつり、「きりょうはよくないけれど倦きない女」だというわけである。しかし彼らは正直な浮気者なんだから、「きりょうがよくて面白い女」が現われれば、実にハッキリと無残に「俗悪低級漫画女」を捨て、恥らいも外聞もなく新たな女と腕を組む。新たな女とつきあってみれば、俗悪漫画女の頭の低さがわかるというものだ。大学を出、むずかしい入社試験にパスした秀才が、子供のための雑誌つくり、という意義ある仕事に就きながら、たとえば教育二法の批評さえきまりが悪くてできない、というような状態に置かれていることは、悲劇である。彼らの悲劇を救うためにも、才能ある子供作家は、才能を発揮しなければいけない。出版社もまた正直な浮気者で、俗悪漫画より売れそうな「いいもの」が出れば、さっさと俗漫を捨てる。

 社会党とかファシズムとか、時代を感じさせる言葉が並んでたり、手塚治虫の悪口を言っているところは、うしおそうじ手塚治虫とボク』の通りなんですが…「すなわち子供に与えるものは、面白いということが絶対条件となる」って…すごくまともじゃないですかね?
 俗悪漫画本に大敗北している現状とか、ダメな児童文学の状況とか、ここらへんの「強力なライバル」としての漫画というメディアに対する近藤日出造氏の言葉は、一部過激なところもありますがうしおそうじ手塚治虫とボク』ではちょっと印象操作が過ぎるかな、と思いました。
 いやはや、どんなテキストでも、引用されたところだけではなくその周辺を読んでみないといけないです(個人の感想です)。
 引用に出てきます『アンパン放射能』という、タイトルからしイカしている漫画は、杉浦茂のもので、『杉浦茂マンガ館』第3巻(少年SF・異次元ツアー)に収録されています。読んでみたんだけど、話がメチャクチャでアナーキーで、他の漫画も含めて超おすすめ!

杉浦茂マンガ館 (第3巻)

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 こちらは新刊で手に入ります。
杉浦茂の摩訶不思議世界 へんなの…

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